40代ロスジェネの明るいブログ

2020年1月11日からリスタート

感想文24-07:聞く技術、聞いてもらう技術

会社で1on1面談が導入された。研修はあるにはあったが、どうにも現場に丸投げ感があり、1on1面談を実施してもなかなかしっくりこない。有効に機能しているのかどうか手応えがない状況が続いていた。

雑談に終始したり、沈黙が続いたりと貴重な時間を費やして、互いに何か得たものがあったのか悩ましい。その人のタイプにもよるが、属人的にならずに1on1面談を有効な場にできないか試行錯誤していた。

そういう中で本書と出会った。この本がきっかけとなり1on1面談が劇的変わったとなれば良いのだけれど、事はそんなに単純ではない。私の実践力が問われており、少しずつ良くなっていければいいなと願っている。

心の奥底に触れるよりも、懸命に訴えられていることをそのまま受けとるほうがずっと難しい。(011)

その人が本当は何を考えているのか、本当の気持ちを出してくれるにはどうしたら良いかと悩んでいたが、そうではないのだ。「懸命に訴えられていることをそのまま受けとる」のが大事であり、そして難しい。ついつい本当はこうじゃないかとか、その裏にはこういうことがあるんじゃないかと考えてしまうが、そうではなくて「そのまま受けとる」こと、そのままにフォーカスすることを意識づけてみよう。

質問の基本は「詳しく訊く」に尽きます。「もうちょっと詳しく教えて」がベーシックな小手先。<中略>相手が気持ちを話しているとき、「具体的には何が起きたの?」と事実を聞く。(036)

なるほど。質問もいつも困る。何か付加価値を付けないと思って、ついつい自分の意見や感想を付与したくなってしまうが、それも良くないのだ。

「聞く」とは「ごめんなさい、よくわかってなかった」というためにあるのだと思うのです。(078)

なるほど。これが「聞くこと」の本質か。

一方で「聞いてもらう」。これも難しい。40過ぎのおじさんが周りに「ちょっと聞いて~」って言いにくい。別に言えば良いのにって言われそうだが、言いにくいのだ。

「聞いてもらう技術」とは「心配される技術」にほかなりません。まわりに「聞かなくちゃ」と思わせる。このとき変化するのは、自分ではなく、まわりです。環境を変質させるのが「聞いてもらう技術」な本質です。(125)

ふむふむ。自分を変えず、周りを変える。心配してもらえる、いわば愛されキャラにならないといけない。

聞いてもらう技術とは、日常の中で赤の他人を軽い友人に変える技術なのだと言えそうです。(136)

ぬおぉ、これは難しい。これがコミュ力ってやつか。赤の他人を軽い友人に変える、小学生でできてたことが今はできない。これは鍛錬が必要。

この本の「聞く」論は友人論でもあるんですね。家族でも、仲間でもなく、友人。そういう第三者が裏でこっそりとわかってくれていることの価値を、手を替え品を替え語っているわけです。(226

友人論。親友でなくても良いから、ちょっとした軽い友人を増やしていくことが、孤独の辛さや苦しさを軽減してくれる。

人生を労働にフォーカスしすぎている気がする。もっと気楽に話せる、聞ける、聞いてもらえる人間関係を構築していきたい。でも難しいよな。おっさんには。

感想文24-06:お客さん物語

これもスペイン出張に持って行った本。なぜこの本を購入したのかあまり覚えていないが、パパ友がスペインバルの店長で、飲食業での仕事って大変だけれど、どんな感じなのかなとぼんやりと頭の片隅で思っていたのが遠縁だろうか。

著者は稲田俊輔さん。ネットではイナダシュンスケさんとしての方が有名だろうか。実のところ著者名を把握せずに購入し、読み進めているうちに、ああ、あのイナダシュンスケさんだったのかと後で認識したのだった。

稲田さんは京大を出て、飲料メーカーを経て、南インド料理を開店するというなかなか珍しいご経歴。京大らしさはある。お店は永田町付近にあるらしい。行ってみたい。ただし、南インド料理が何かよく分かってないのだけれど。食べればわかるのかしら。

様々な飲食店における様々な出来事を巡る、僕の心象風景であることは確かです。だからこれは、研究書でもルポルタージュでもなく「物語」なのです。(4)

本書はそのタイトルのとおり稲田さんが描く物語である。当たり前と言えば当たり前だけれど、飲食店はお客さんがいて初めて成立する。だからこそお客さんとの無数の物語が日々生まれるのだ。

こうした日本人の「どこの国の料理でも食べてやろう」という貪欲さは、一体どこから来るものなのでしょう。しかもその貪欲さは、「とはいってもそれは日本人好みにアレンジされていないと受け付けない」というある種の狭量さとも表裏一体です。(48)

日本人は確かに何でも食べるし、そしてすぐにアレンジしたがる。貪欲さの裏に狭量さがあるという指摘にはっとさせられると同時に、本場さながらの本格料理を日本でビジネスにすることの難しさにも気づかされる。

欧米で生まれた「レストラン」というシステムそのものが、お酒で利益を出すビジネスモデルなのです。<中略>現代は飲酒人口も消費量も明らかな減少傾向にあり、この構造が通用しなくなりつつある、いわば過渡期です。(76)

飲食業界にとってはなかなか難しい課題だと思う。アサヒビールの「スマドリ」のように、「飲み方の多様性を尊重」と言えば耳障りはいいが、実を言えばもはやアルコール飲料が売れる時代ではなくなりつつある。アルコールは少量でも有害であるとされ、タバコと同じように嗜む人は少数派になりつつある。

他方で料理とお酒はマリアージュで共進化し、文化にも深く根付いている。お酒と料理の文化が薄れていくのは寂しくもあるが、それが時代の流れと言われれば受け入れざるを得ない。社会が受容しないのであれば、ビジネスにはならない。

お店はいつだって(様々なビジネス的制約の中で)お客さんになんとか喜んでもらおうと思っています。そしてもちろんお客さんもそれを求めてお店に行きます。本質的には幸せな世界です。しかし同時にその世界は複雑です。私とあなたは違う人。何をもって「喜び」と感じるかは、人それぞれ微妙に異なるのです。(270)

少々お金を多く払っても良いから、美味しいものを気持ちよく食べたい。できればあんまり混んでない店が望ましい。混んでるとオーダーしてから出て来るまで時間かかるので。それが私が感じる幸せだろうか。

早食いで大食いで酒飲みで金払いの良い私は、飲食店にとっては良いお客さんであろうと思いたい。いや、もしかしたら、逆に印象の薄い客なのかもね。物語を生み出してきた感がないな。

感想文24-05:カタルーニャを知るための50章

昨年、11月にスペインに出張した。しかもバルセロナ。スペインの中でバルセロナは特別で、独立運動まであるというのは以前から知っていた。ただ、どういう歴史的経緯や考え方で独立しようとしているのかまであいにく存じ上げない。

せっかくバルセロナに行くのだからということで、読んでみたのが本書。海外出張で始めていく国や地域の場合にこの「○○を知るための〇章」シリーズを読んでみるのが恒例になっている。

これまで、イスラエル(感想文17-14)フィンランド(感想文18-02)フィリピン(感想文18-37)を読んできた。これで通算4冊目ということになる。

そして海外渡航については、中国、韓国、台湾、シンガポール、マレーシア、フィリピン、インド、イスラエル、ドイツ、スイス、フランス、イタリア、イギリス、フィンランドケニアアメリカ、カナダ、エクアドルに加えて、経由地であるドバイとスペインが加わり、ついに21か国になる。

人生のささやかな目標は30か国への渡航なので、あと9か国だがここからがなかなか厳しい感じでもある。意外と東南アジアと南半球で行ってない国が多いから、達成できそうな気がしないでもない。

では本書を読んで初めて知ったことを引用しつつ挙げておこう。

カタルーニャは、強烈な個性を放っている地域である。独自の国家だった経緯を持ち、カタルーニャ語という独自の言語を持ち、しかもその言語が強い存在感を持つ。また、スペインでは珍しい工業的な地域で、カタルーニャだけでスペインのGDPの20%を占めている。そして、カタルーニャを一つの「ネーション(民族=国民=国)」だと主張する比較的強い地域ナショナリズムが存在し、近年では、独立を主張する人の割合が5割を超えるとも言われている。(3)

カタルーニャ語という独自の言語があり、スペインのGDPの20%を占める経済力があり、半数は独立したがっている。ただ、実際にバルセロナに行ったところ、確かにカタルーニャの旗を街中で見かけるけれど、声高に独立を叫んでいるような集団を見かけることはなかったし、半独立運動を見かけたわけでもなかった。街中はいたって平穏で平和だった。パリとかいっつも炎上しているイメージがあるのとは対照的。

バルサレアル・マドリードの試合が、驚くほど盛り上がる背景には、カタルーニャ主義を背負うバルサとスペイン主義を背負うレアル・マドリードの戦いという、二つのナショナリズムの代理戦争の側面があるのだ。(5)

へぇ。そういう視点で見たことない。そういうものなのか。アオアシでもカタルーニャについての言及はなかったかな。単純なサッカー勝負ってだけではないのだ。

カタルーニャ自治州は、デンマークの人口をはるかに超える、およそ750万人を擁しており、その経済規模も170億ユーロで、人口1000万のポルトガルを超えている。(38)

カタルーニャ自治州だけで、人口ではデンマークよりも多く、経済規模はポルトガルよりも大きい。思った以上に巨大であり、ヨーロッパで十分に存在感を示せるネーションと言える。

国際機関では、カタルーニャ語は一つの国家の公用語として認知されている。それは、フランスとスペインにはさまれたアンドーラ公国の公用語だからで、人口わずか7万人のこの国が、1993年に独立国家となり、国際連合に加盟したためである。(38)

本書ではアンドーラ公国となっているけれど、日本の外務省的にはアンドラ公国で、基礎データを見ると確かに公用語カタルーニャ語だ。そうなのか、初めて知った。

ここからは実際にバルセロナ出張で得た知見を書いておきたい。

  • 空が青い。空の青さが日本と違う。
  • ふらっと立ち寄ったシーフードレストランで日本語メニューはないけど、韓国語メニューはある。日本の凋落ぶりを思い知らされる。
  • バルセロナの通勤ラッシュを経験。スーツ姿は私と同僚だけ。西洋から持ち込んだはずのスーツ文化はもうヨーロッパでは廃れてしまっているのか。
  • サグラダ・ファミリアでは日本人の外尾悦郎氏が主任彫刻家を務めており、かなりの貢献をしていると初めて知る。
  • アヒージョの残りの油をパエリアと混ぜ合わせて食べる。最高に旨い。アヒージョとパエリアの悪魔合体お行儀が悪いのは申し訳ない。

あいにくジョアン・ミロピカソ、ダリといった有名な美術館にはスケジュールの都合上(普通に仕事が詰まっていた)、行けず仕舞いだった。バルセロナをいつか再び訪れる日は来るのだろうか。

青い空と(悪魔合体させた)パエリアが恋しい。

感想文18-37:フィリピンを知るための64章

※2018年9月13日のYahoo!ブログを再掲

 

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私の密かな人生の数値目標の一つに、30カ国に行ってみるというのがある。現時点で18カ国(台湾含む)への渡航歴がある。今年の11月頃に、短期の語学研修目的でフィリピンに行く予定である。同国が19カ国目となる。このペースでいけば目標を達成できるだろうか。

海外へ渡航する前には必ず、この「○○を知るための○章」シリーズを読むことが習慣になっている。今回もフィリピンに行く前に読んでみた。

そもそもフィリピンのことをよく知らない。フィリピンといって思いつくことは、フィリピン・パブ、ドゥテルテ大統領、バナナ、太平洋、東南アジア、英語圏。くらいだろうか。首都ってどこだ?すぐには答えられない。その程度の知識しかない。

外務省HPを参考にフィリピン基本情報を整理しておこう。

面積は日本の約0.8倍で7,000以上の島からなる島国だ。人口は約1億人と多いが、全体的に若い。さぞやエナジェティック(energetic ※エネルギッシュは和製英語)だろう。公用語はフィリピノ語と英語であり、フィリピン人の多くは英語を流暢に操ることができる。そして国民の8割以上がカソリックであり、東南アジアには珍しくキリスト教国家である。

ざっくりした歴史は、1571年にスペインが統治開始、1898年に米西戦争で米が勝利し統治開始、 1942年に日本軍政開始を経て、1946年にフィリピン共和国が独立している。スペイン→アメリカ→日本→独立という流れで、日本がフィリピンを統治(植民地支配)していた時代があった。

同じく外務省によるASEAN10か国における対日世論調査から、フィリピンの日本に対する好感度を載せておこう。「Q4 あなたの国にとって,今後重要なパートナーとなるのは次の国のうちどの国ですか。」についてフィリピン人回答者の62%が日本を選択している。複数選択可能であるが、この割合はアメリカ(55%)より高く1位である。

「Q6 次の国のうち,最も信頼できる国はどの国ですか。(ひとつ選ぶ)」の場合、日本が40%でトップ(2位のアメリカは35%)。ざっとアンケート結果を見ると、日本とアメリカに好感度が高く、信頼していることが伺える。なお、スペインは選択肢にないためはっきりしたことは分からないが、今ではフィリピン人にとってスペインはさほど重要と思われていないかもしれない。

このように、統治されたという暗い歴史があるとは言え、フィリピンはアメリカと日本に好意的な国だ。これで安心して渡航できるな。

改めて本書で初めて知ったことを挙げておこう。

フィリピン政府の統計によると、在外フィリピン人は2015年現在で1000万人を超え、総人口の1割に達している。(p.40)

人口1億人で、1割の1000万人が海外にいて、その多くが仕事をしている。総務省統計によると日本には20万人がいるらしい。かなりの人数ではあるものの、やはり言語の壁があるためか、英語圏ほどには来ていないようだ。

アメリカ植民地期はおそよ二つの潮流の結節点だった。第一には、北米大陸の東部から西への膨張である。(中略)第二には、旧帝国スペインから新興帝国アメリカへの覇権の移行である。(p.113)

ヘゲモニーの変遷が国家の支配者とリンクする。かつて「太陽の沈まぬ帝国」として覇権国家に君臨したスペインだが、栄枯盛衰の常でオランダにその覇権を奪われてしまう。そのオランダも大英帝国に奪われ、その後、アメリカが長く覇権を保つことになるのであるが。そして、Go Westの流れがフィリピンまで届いているとは思いもしなかった。

ひとたび足を踏み入れると、外国人たちはこの国の「いい加減さ」を思い知る。そして母国と比較して、南国の方に居心地を感じる。もちろん、どちらも一長一短だ。(p.196)

東南アジアにはこれまでシンガポールとマレーシア(のペナン島)しか行ったことがない。シンガポールは例外として、東南アジア全体に対して何となくルーズな印象を抱いているが、今回の短期英語研修でもそのルーズ感が発揮されることであろう。まあ、細かいことを気にしても仕方ない。どーんと構えて、そのいい加減さを楽しむことにしよう。

従来の大統領が「豊かさ」を約束してきたのに対して、ドゥテルテは国民の自由を統制する厳格な「規律」を掲げる。それを人びとが支持しているのだ。(p.268)

テレビ画面越しではヤクザの親分みたいな迫力のあるドゥテルテ大統領。実際に違法に密輸入された外国製高級自動車をブルドーザーで破壊するとか、麻薬撲滅のために密売人を射殺するとか、何ともラディカル&デンジャラスなキャラではある。

学のない武闘派かというとそうではない。法律家であり、検察官として約10年働いた実務経験もある。見た目からは意外だ。法律家のため、規律を重んじ、だからこそ時には暴力をも使いこなす。先進国になるために苦心し足掻いているのかもしれない。そんな人間を大統領にフィリピン国民が選んだのだ。

年齢中央値は23歳で、日本の46歳、タイの33歳、インドネシアの28歳などに比べると若さが際立つ。(p.276)

若っ。羨ましい。老人国家の日本とは違う。そりゃあ、日本経済は停滞するよな。

フィリピンの経済発展は偏った経済構造と格差を伴い、包摂的(inclusive)ではなかったのである。また、それだからこそ経済発展のスピードが遅いとも考えられる。そして遅いがゆえ、いつまでも包摂的にならない。そんな悪循環が長く続いてきた。(p.284)

フィリピンの経済発展は包摂的(inclusive)ではなかった。つまりexclusive(偏っていた)とも言える。重化学工業ではなく、サービス業の比重が大きかったこと、それから大きな格差が未だにあること、これはフィリピンという国家の課題であると言える。国民全体が若いというアドバンテージがあるものの、他の東南アジアの国々に比べて経済成長は相対的に緩慢である。

フィリピン観光局の調べによると、約46万人(2014年)の日本人訪問者の内、その約1割弱(3万人程度)が英語留学・研修目的の渡航だと言われている。(p.379)

年間3万人が私のように英語研修のためにフィリピンに行っている。一向に日本人っていうか私の英語力は上がらない。やはり本人が必死にならないと向上しないな。まだ私自身に必死さが足りてない。英語できないヤツはクビだー!とか大号令がかかると必死になるのだろうか。あるいは転職活動を始めるのだろうか。

英語化は愚民化(感想文17-11)で私自身の考えは既に示している。グローバリズムは国家と敵対する概念であり、国家はその存続のための行動を既に起こしている。

こうなってくるとなぜ私は英語を勉強するのか、なぜわざわざフィリピンまで行こうとするのか、と問われるかもしれない。うーん、やっぱり英語喋れるようになりたいんだよね。別に流暢でなくてもいいから、外国人と普通に会話ができるようになりたい。inferiority complex(※コンプレックスに劣等感という意味はない)といえばそうなるかな。それからやりたいプロジェクトでやはり英語が必要だからだ。

何か小さいことでも良いから挑戦を続けていきたい。もうすぐ40歳だし、意識的に行動しないと、どんどん凝り固まった人間になりそうだもんな。

え?ちょいちょい英語と※が入っていて、文章が面倒くさいって?たまには英語交じりの文章でも書いて、勉強してる感出してみたかっただけなんだ。許して下さい。

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(感想文の感想など)

フィリピン情報をアップデートしておこう。「フィリピンのトランプ」とも揶揄されていたドゥテルテは政界を引退し、2022年6月からはボンボン・マルコスが大統領に就任している。副大統領は前大統領であるドゥテルテ氏の長女であるサラ・ドゥテルテが着任し、両者は蜜月関係だったのだが、つい最近(2024年1月28日)、瓦解したらしい。

ということでここから、フィリピンは深い混迷を迎えるだろう。内戦状態に近い。

そういえば、昨年の夏に長男もフィリピンに1週間、語学留学した。とても楽しかったらしい。そりゃ、私よりもはるかに良い宿泊施設で生活したのだから。残念ながら英語力は向上してない。初海外という経験だけでも良かっただろうか。

長男は今年も行きたいみたいだが果たしてどうか。フィリピンの政情は要チェックである。

感想文08-02:フィンランドを知るための44章

※2018年2月23日のYahoo!ブログを再掲

 

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2017年11月末にフィンランドに出張することになった。今年はこれで海外出張2回目だ。とはいえ、これでしばらくは海外に出張することはないと思う。たぶん。

なぜフィンランドなのかという問いに対しては、小国でありながらイノベーション大国であるから、ということに尽きる。また、私にとってはこれまで渡航したことのない国なので、事前に色々と調べておこうと考え、本書を読むに至った。イスラエルを知るための60章(感想文17-14)イスラエルに行く前に読んだように。このシリーズはわりと参考になるんだよね。

他の北欧諸国が中世にはすでに国家を形成していたのにたいしてフィンランドが独立を宣言したのは1917年のことである(中略)古いことにいたずらに拘らない体質をフィンランがもっている(中略)生じてくるどのような現実にも、逃げずに立ち向かうという生き方と表裏一体をなしている(p.12)

2017年はフィンランドにとって記念すべき建国100周年なのだ。1917年生まれの有名人は、澤村榮治、シドニィ・シェルダンジョン・F・ケネディトニー谷。意外と最近まで生きている方が多い。100年前ってそこまで過去という感じではないんだな。

若い国だからこそ、歴史というものに拘りはなく、リアリスティックに生きている。フィンランド人の多くは親切で、異国から来た私たちに優しく接してくれた。

フィンランドの国土が相対的に農業には適さず、農民の多くが、農耕とともに森林からの恵みに頼ってきた(中略)狩猟もまた森のめぐみのうちであった。(p.16)

今回の目的地はヘルシンキだった。北緯は何と60度。東京は35度、札幌で43度なので、とんでもない北の方だということが分かる。実際の11月末のヘルシンキは既にかなり寒かった。甘く見ていた。

日照時間は短く、暗く、寒い。農作物が豊富に採れるというわけではない。トナカイの肉にベリー系の酸味の強いジャムを付けて食べたがの、フィンランドの伝統料理だった。野性味があり滋味がありエネルギッシュな料理だった。

フィンランドでは自国を「東と西の間」と位置づけ、東のロシア、西のスウェーデンの間で翻弄されてきた事実をしばしば強調してきた。(p.49)

今回の渡航に先立ち、改めて世界地図を眺めるとその国のことがわかる。確かにスウェーデンとロシアに挟まれ、そして国土の多くが人が住むのに適していない環境にある。共産圏とも近いために北欧の東欧とも呼ばれていた。しかし、1995年にEUに加盟し、ヨーロッパの中のフィンランドの位置づけへと変わっている。EUから脱退したイギリスよりもヨーロッパ的な国なのだ。

フィンランドは、小国が単独で豊かさを実現する社会を築くことは難しいことを理解している。(中略)優秀な「人材」の育成と機会均等に基づいた自由競争の原則の下、高い国際的競争力を維持しつつ、国民全体が豊かさを実感できる北欧的福祉社会を守ることの必要性について政官財を問わず明確な国内的コンセンサスが存在することが、フィンランド経済の最大の財産であり、強みであるといえよう。(p.172)

フィンランドは人口わずか550万人の小国である。人口で言えば埼玉県よりも小さい。小国であり歴史が短いからこそコンセンサスが取れやすいのかもしれない。寒く凍てついた国は、激しい国際競争の中で生き抜く術を必死で考えている。

短い期間であったが、私はフィンランドという国を訪れ、そして好きになったようだ。もう少し暖かい時期に再訪したい。

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(感想文の感想など)

今となってはフィンランド楽しかった思い出しかない。まあ、確かに寒かったし、アル中が多いので簡単にお酒を買えないのは不便だったけれど。

暖かい時期の再訪はいつになることやら。

感想文17-11:英語化は愚民化

※2017年3月2日のYahoo!ブログを再掲

 

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日本において英語を巡る言説はたくさんある。関係する本としては、英単語500でわかる現代アメリカ(感想文08-45)日本人の英語(感想文09-58)日本語の科学が世界を変える(感想文15-25)かな。

多くの社会人が英語力を磨くために英会話教室に通ったり、TOEICを受験したりしていることだろう。私も過去に何度かチャレンジし、結局、たいして身につくこともなく、時間とお金を失っている。

仕事で英語を使う機会はたまにある。英語でメールを書いたり、海外出張に行ったり、英語で意見交換することもある。それなりの英語でそれなりの意思疎通はできるが、気の利いたジョークを言ったり、哲学的なことを話したりは、全くできない。

母語(私の場合は日本語)と異なる言語を学ぶことには、大きな意義があると思う。日本語を相対化することは、自らの論理性を客観視することにもつながると思う。英作文をこなしていくと、日本語がいかに読み手に多くを期待して成り立っているかよく分かるものだ。

さて、本書である。タイトルは極めて扇動的だ。とはいえ、内容はそこまで尖ってはいない。

著者は、政治学者であり、アンチ・グローバリズム、反進歩史観という立場にある。グローバリズムという病(感想文15-06)では、グローバリズム国民国家を敵とした理念とあり、本書の主張に即して言い換えれば、グローバリズムは日本語を敵とした理念でもあるのだ。こう考えると腑に落ちる。

本書の目的は、端的に言って、この「英語化」政策の勢いに、警鐘を鳴らすことにほかならない。英語化の行き着く先に、この国の「誰も望まない未来」が待っている。英語化は、日本を壊すのである。

なるほど、アンチ・グローバリズム政治学者からすると、近年の英語公用語化推進論は、まさにグローバリズムと同期しており、英語化は日本語をそして日本を滅ぼすというのだ。

ふむ。著者の主張が正しいかどうかはさておき、こういう考えもあるというのはよく分かる。その上で、気になった箇所を挙げておこう。

ヨーロッパ近代社会の成立を振り返れば、むしろ「普遍的」でよそよそしい知を、各国・各地域の日常生活の言葉に翻訳し、それぞれの生活の文脈に位置づけていく過程、言わば「普遍から複数の土着へ」という過程こそが、近代社会の成立を可能にしたものだと描けるからだ。

「翻訳」と「土着化」というのは、本書のキーワードである。ラテン語ギリシャ語で書かれた知を、苦労して翻訳し、根付いて土着化する。日本でもその苦労があったからこそ、今の日本があるとも言える。

日本が本当に目指すべきは、日本人の英語力強化ではない。目指すべきは、非英語圏の人々が、安心して日本人と同じくらい英語が下手でいられる世界の実現である。

これには強く同意する。結局は、どういう世界を実現するか(したいか)という話に行き着く。今のグローバリズムではない世界。国とは何か、という問いにも近い。

本書が出版されたのが、2015年7月。潮目が変わりつつあり、今では反グローバリズムが勢いづいている。トランプが米大統領となり、EUから英国の離脱(Brexit)が起きている。自由主義陣営のアメリカとイギリス、って言うか英語(と米語)の本場が、まさかのアンチ・グローバリズムときているから、面白いものだ。

もうちょっと広く見てみると、結局は、グローバリズムが国の存立に関わってくるのだから、こういう事態も起きてしまうのだろう。

政府や財界が官民挙げて取り組んでいる日本社会の英語化とは、日本社会の良さやアイデンティティの大部分を放棄し、英語による世界の階層化を加速させ、日本を三番目の序列に位置づけるものだと言わざるを得ない。

本書で納得できなかったのは、この主張だ。一等国であるはずのアメリカやイギリスですら、グローバリズムでその存立がゆらぎ、自国優先、保護主義、はたまた鎖国という方向に舵を切りそうだ。要するに、もはや英語はグローバリズムで欠かすことのできない重要なパーツではないのだ。国家の序列みたいな平和な時代の競争は、グローバリズムが行き着く先には、存在し得ないのだ。

とはいえ、日本の良さとそれを破壊する英語公用語化という議論は、もちろん成立するのだけれど、本書で伝えたい本質はそこではない。

グローバリズムでも保護主義でもない、異なる世界を創り上げることでできるかどうか、その岐路に立っている。

「積極的に学び合う、棲み分け型の多文化共生世界」

著者が思い描くこの世界は、私たちの生きる未来の先にあるのだろうか。

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(感想文の感想など)

最近、仕事に疲れてきたので勉強したい意欲が高まっている。仕事しながら勉強できなくもないが、仕事量が閾値を超えると、そもそも勉強する時間を捻出できない。やろうという気も起きない。

ということで英語は聞き取りが最大の課題。強化していきたい。

今年はTOEICを受けてみよう。たぶん。

感想文15-06:グローバリズムという病

※2015年3月17日のYahoo!ブログを再掲

 

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株式会社という病(感想文11-47)と同じ著者の平川克美さんのご本。

株式会社のように所与に存在し疑われることのない価値に対して、それってちょっとおかしいんじゃないかという指摘をする。今回のテーマはグローバリズム。そしてグローバリズムは株式会社と直結している。

本書を書いたのは、株式会社と国民国家が手を携えて発展していた健康な時代が終わろうとしており、株式会社が病としか言いようのない行動をとるようになった背景には何があったのかを、もう一度確認しておきたいと思ったからである。

健康な時代というのは高度経済成長期のことだろう。会社は大きくなり、給料は高くなる。昨日よりも今日、今日よりも明日はより豊かになると感じられるような成長期は既に過ぎ去った。

日本は人口が減少し、市場が大きくなることは考えにくい。新しい市場を求めて、日本の企業は海外に進出している。中国、東南アジア、最近だと中東がブームだろうか。日本の質の良い製品が海外で人気を博しているというニュースを聞くと嬉しい気持ちになる。

本書は、世界を股にかけて商売をすることが悪いと言っているのはもちろんなく、グローバリズムという主義が意味することの本質について説明している。

イズムとは必ず先行する理念や方法といったものに対向するかたちで現れてくるからである。イズムは常に敵を必要としており、それを打倒する新しい原理として現れるといってもよいだろう。

じゃあ、グローバリズムが何に対抗しているというのか。

グローバリズムをつくり上げたのは、「株式会社」というシステムであり、「株式会社」というものが対向する障壁とは「国民国家」そのものである。

『株式会社が国民国家が手を携えて発展していた健康な時代』は終演を迎え、国民国家を敵とするグローバリズムという理念を株式会社が創りだしたというのだ。

結局のところ、グローバリズムの進展によって利益を得るのは、もともと超国家的な存在として登場した多国籍企業の関係者、あるいは超国家的な取引によってビジネスを行っている金融資本家ということになるだろう。そこでは、民主主義というものもまた、存続の理由を失うといわねばならない。

最終的には民主主義もなくなってしまうという予測。

政府は必ず嘘をつく(感想文12-34)を思い出す。良くも悪くも最先端の国アメリカでは、コーポラティズム、つまり、多国籍企業が、政府やマスコミといった大きな権力を囲い入れ、余計な規制を撤廃し、そういう活動を礼賛するように情報をコントロールしているという。

国家は規制を作ることができる(余計な規制もあるけれど)。その機能すら買ってしまえる、買ってしまっている企業がある。

この状態を病的と表現すること自体に私は抵抗があるが、健康的とは言い難いのは確か。国家が国民のために何かするということではなく、特定の企業のために便宜を図ることが当たり前のことになるかもしれない。

多くの日本人はヨックモックが中東で人気と聞いて嬉しい気持ちになるだろうけれど、日本人はAmazonを通じてたくさんの本を買っているとアメリカ人が聞いて嬉しい気持ちになるのだろうか。

AmazonGoogleなどの企業は、情報社会の「新たな国家」と言って良い。もはやアメリカという国とは別の相に存在している。もうすぐするとその企業でしか利用できない電子マネーが登場するかもしれない。

色々考えるポイントがあるけれど、グローバリズムの進展は、政府の機能を縮小するかもしれない。でもこの事自体は決して悪いことばかりではないと思う。

権力は腐敗する。政府は腐敗するし、企業も腐敗する。企業もいつしか敵対するイズムによって破壊されてしまう日が来るかもしれない。

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(感想文の感想など)

グローバリズム国民国家と対立するという話だが、巨大IT企業と国家が対立している。ただ、ことはそんなに単純な対立構造ではなく、互いに利用するところは利用し、依存しあい、人的交流もある。

もうちょっと深く考えたいテーマの一つではある。