40代ロスジェネの明るいブログ

2020年1月11日からリスタート

感想文16-16:ウイルスは生きている

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※2016年6月15日のYahoo!ブログを再掲。

 

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私が大学院時代に学んだ生物学の授業で、ウイルスは生物ではないと学んだ。

ウイルスに対する私の緩いイメージは、生物の細胞に入り込み、自己が有する核酸を複製する、非常に微小なメカだ。生物に比すると単純にプログラムされた、自己複製のみを至上目的とする物体だ。

生物と無生物のあいだや、生命と非生命のあいだ(感想文08-35)のように繰り返し問い続けられる、生物、生命、生きるということの本質的な謎だ。

さて本書では、ウイルスは生きていると主張する。そこには単なる生物という観点からだけでなく、広く生態系や進化という俯瞰的な視点を盛り込むことで、ウイルスが生物に与えている影響を最新の知見を踏まえつつ、丁寧に描いてくれている。

久々に生物関係の本で楽しいと感じた新書と言える。本書で気になった箇所を挙げておこう。

胎児を母体の中で育てるという戦略は、哺乳動物の繁栄を導いた進化上の鍵となる重要な発見であったが、それに深く関与するタンパク質が、何とウイルスに由来するものだったというのだ。

ヒトを含む哺乳動物は、体内に非自己である胎児を宿すという特徴がある。自己と非自己の境界線となる合胞体性栄養膜は、自己と非自己の細胞が融合しているのだが、その細胞融合に関与するタンパク質が、ウイルス由来なのだ。卵生でないこの仕組みは、ウイルスを活用して生み出されたものなのだ。

我々はすでにウイルスと一体化しており、ウイルスがいなければ、我々はヒトではない。それでは我々ヒトとは、何者か?動物とウイルスの合いの子、キメラということになるのだろうか。

挑戦的な問いかけであるが、既に示したように、哺乳類の基盤である胎生すら、ウイルスを取り込んで作られている。私たちのDNAには多くのウイルスの遺伝子を取り込まれている。ヒトが独自の進化を遂げたという認識は過ちではないが、そこにウイルスが介在しているという重要な事実を過小評価している。

レトロウイルスは細胞外に出るようになったLTRレトロトランスポゾンとも言えるし、LTRレトロトランスポゾンを細胞から出ないレトロウイルスという風に考えることも出来る。ウイルスは宿主に病気を起こす非細胞性の因子という属性から研究が開始され、転移因子はゲノムの中でその存在場所を変えるという属性に着目して研究がなされてきた。これらの関係は決して排他的になっておらず、重なってしまうことは論理的にあり得るのである。

ウイルス、転移因子、そしてプラスミド。これらの因子たちは、発見の経緯やよく研究されてきた典型的なメンバーの性質からくる印象の違いはあるものの、実際には一つながりとなっている。転移因子にしてもウイルスにしても、本質的に重要なことは安定して子孫(自己のコピー)を残すことであり、病気を起こすことや転移すること、それ自体では恐らくない。

専門用語をまずは整理してみよう。ウィキペディアなどを参考にした。

レトロウイルス:RNAウイルス類の中で逆転写酵素を持つ種類の総称。一本鎖RNA

レトロトランスポゾン:「可動遺伝因子」の一種であり、多くの真核生物組織のゲノム内に普遍的に存在する。自分自身をRNAに複写した後、逆転写酵素によってDNAに複写し返されることで「転移」する。

LTR:レトロウイルスに特徴的な、ウイルスゲノムの両端に位置する繰り返し配列。宿主ゲノムに挿入されると強い転写活性を発揮し、ウイルスゲノムの発現を促進する機能を持つ。ヒトゲノムに存在するレトロトランスポゾンにおいては、LTRの転写活性は抑制されている場合が多い。

プラスミド:細胞内で複製され、娘細胞に分配される染色体以外のDNA分子の総称。細菌や酵母の細胞質内に存在し、染色体のDNAとは独立して自律的に複製を行う。一般に環状2本鎖構造。

レトロウイルスとLTRレトロトランスポゾンは、細胞の外にいるのと中にいるのとでしか違いがない。ウイルスも転移因子もプラスミドも実体的にほとんど変わりがない。自己複製ができればそれで良くって、そのための方策が異なるだけなのだ。

寄生をめぐる昆虫同士の戦いの中で、寄生バチ側はポリドナウイルスを用いて寄生しようとするし、寄生側はAPSEファージを用いて、寄生者を撃退しようとする。さながら両陣営が戦闘機のミサイルのように、ウイルスを飛び道具としてバトルを繰り広げているかのようである。

ウイルスが分子兵器として利用されている例だ。昆虫の世界では寄生という戦法がたびたび使われる。奇妙な仕組みではあるが、そこにウイルスが介在している。

ウイルスがエンドファイトに感染することにより、エンドファイトの植物との共生能力が発揮されるという、ウイルス・真菌・植物の三者が関わった共生現象であることが判明したのだった。(中略)ウイルスの存在がエンドファイトのストレスに応答する遺伝子群の発現を活発にし、エンドファイト自体の耐熱性に寄与していることが示唆される。

エンドファイトとは、『植物の体内に共生する多数の微生物の総称』である。エンドファイトの存在を私は知っていたが、ウイルスというもう一つのステークホルダーの存在を知らなかった。このようにウイルスが宿主にメリットを与えていることもあるのだ。

パンドラウイルスは(中略)2563個もある遺伝子のうち2370個、なんとその93%にも及ぶ遺伝子が、これまでに知られているどんな生物の遺伝子とも有意な類似性がなかったと報告された。

本書で最も驚いたのは、パンドラウイルスの存在だ。インパクトのある名称もさることながら、その異形ぶりも際立っている。

大きさは一般的なウイルスの10倍で1μm。一般的なウイルスが持つ遺伝子の数は10くらいなのに、2500以上もある。しかも、90%以上もの遺伝子がこれまでに知られている遺伝子と似ていない。まだ研究が始まったばかりだが、一体何者なのか、非常に興味深い存在である。パンドラウイルスに詳しい本を読んでみたい。

(ウイルスは)時に細胞生物と融合し、時に助け合い、時に対立しながらも、生物進化に大きな彩りを添えてきた。

私自身の体が日々、ウイルスの侵攻に応対している一方で、既に私が生まれるずっと前からウイルスの遺伝子を取り込み、活用している。哺乳類も昆虫も植物もウイルスと一緒に進化している。

ウイルスは単独では生きているとは言えないのかもしれないが、確かに共に生きていると言えるだろう。私たちヒトも厳密には単独で生きることはできない。大きな生命の流れの中で、ウイルスが果たしている役割は決して小さいものではないし、無生物だと冷たくよそ者にできるほど、生物と距離があるということではないのだ。

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(感想文の感想など)

新型コロナウイルス感染の報道に関連して、テレビではウイルスと菌の違いについての解説をよく見かけた。

ウイルスは菌よりもさらに小さい、というのは一般的には正しい。とはいえ、ウイルスは多様だし、菌に至っては全く異なるアーキア古細菌)とバクテリア(真菌)が一緒くたにされてしまっている。

新型コロナウイルスは病原性のある真菌と比べて、だいたい10の1くらいのサイズというのが正しい伝え方ということになる。

本書で紹介されている巨大ウイルスは、そのサイズ感は真菌と大差ない。まだ発見されていないだけで、もっと巨大なウイルスだって存在するかもしれない。

感染症対策に関連したウイルスの情報はごくごく限定的だ。個別の生死や政府の感染症対策とは距離をおいて、ウイルスの構造や仕組みや進化の歴史を紐解いていくのはとても知的な好奇心をくすぐられる。と同時に知的好奇心をきっかけにして行われた研究の積み重ねが、ウイルスとの戦いに活かされているというのも忘れてはいけない。

感想文15-36:イスラーム国の衝撃

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※2015年10月6日のYahoo!ブログを再掲。

 

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※ここでは本書のタイトルにならってイスラム国ではなくイスラーム国という表記で統一しています。

イスラーム国に関するニュースは毎日山のように流れている。殺害とか処刑とか爆殺とか、とにかく凄惨で残酷で暴力的なものばかり。

しかしながら、イスラーム国とは何で、ISISとは何で、タリバンが何でとかさっぱり分かっていない。とにかく危険な地域があり、暴力集団がいて、宗教があり、きっと穏健派もいるんだけれど過激派が目立ち、イスラームというだけで拒否反応を示すのは良くない思いつつも危うきには近づかないでおこうというところでいつも思考が終わる。

あまりに知らなさ過ぎるのも社会人としてどうなのかなと思うに至り、とりあえず本書を読んでみた。

いつものように気になる箇所を挙げておこう。

「カリフ制が復活し自分がカリフである」と主張し、その主張が周囲から認められる人物が出現したこと、イラクとシリアの地方・辺境地帯に限定されるとはいえ、一定の支配領域を確保していることは衝撃的だった。

カリフ制とは、ウィキペディアによると『預言者ムハンマド亡き後のイスラーム共同体、イスラーム国家の指導者、最高権威者の称号』とのこと。イスラーム国では、アブー・バクル・アル=バグダーディー(長いし、そもそも本名ですらないかもしれないらしい)が指導者であり、カリフを名乗っている。そして、私は知らなかったけれど、土地を支配している。よって、実質的に国みないなものになっている。これが衝撃ポイント。

イスラーム国」は、イラクとシリアの特定の地域において幅広い領域支配をしており、イラクとシリアの政治的文脈の中で政治勢力としての地位を確保しようとしている。(中略)「テロ組織」としての存在を超え、自らが領域を実効支配し、社会を統治して、自らの理念に従って秩序を作り出す存在へと変わろうとしているのである。

ということで単なる暴力装置たるテロ組織ではなく、土地があり、国民がいて、ある程度の秩序を形成した国として機能している。

アラブの春」は、最終的な帰結が少なくとも四半世紀を経なければ判定されえないような、根本的な構造変化を促しているように思われる。「イスラーム国」の出現もそのような大きな変化の一部にすぎないと考えておいたほうがいいだろう。

そういえば、3.5年前に<アラブ大変動>を読む(感想文12-10)でアラブ事情をちょっとキャッチアップしていたんだった。まだアラブの春の帰結が分かるまではまだ20年以上はかかるということか。それだけ大きなことだったということ。

戦闘員らは、金銭的な代償よりも、崇高なジハードの目的のために一身を犠牲にするつもりで、あるいはそのような高次の目的に関与することに魅力を感じて渡航している、という基本を押さえておく必要がある。

私が最も共感できていないのがこのポイント。どうして自らを犠牲にしてまで自爆テロができたり、あるいは誰かを犠牲にすることができるのだろうか。それだけ大きな価値があるということなのだろうが、自らを犠牲にするほどの価値があると思えるような、そういう行動に仕向けさせるような教義になっているのが、イマイチよく分からない。

日本において「イスラーム」は、「ラディカル」に現状超越を主張し、気に入らない社会やエスタブリッシュメント、そして体制そのものを勇ましく「全否定」してみせる「憑代」として一部で受け入れられてきたのである。

憑代(よりしろ)という表現が興味深い。私の周りにイスラームにハマっている人を見たことがない。でも、こういうラディカルな全否定というスタンスにハマるという心理は分からなくもない。でも、かといって自身を犠牲にしてまでとなると、やっぱり理解できない。

「1991」に確立された米中心の中東秩序に挑戦したのが「2001」だが、それに対する対テロ戦争の追撃を受けて世界に拡散した過激思想と組織が、米国の覇権の希薄化と「2011」の「アラブの春」をきっかけに、「イスラーム国」という形でイラクとシリアの地に活動の場を見出した。それが「2014」という新たな画期である。

1991年に湾岸戦争が起こり、2001年に米同時多発テロが起こった。そしてまたその10年後にアラブの春が起こり、現在イスラーム国建国という流れになっている。事件や出来事を単純に追っても見えてこない、その背景が、本書を読んで少し見えてきたような気がする。

日本にいるとイスラーム国の事情はほとんど理解できないし、理解しようとする気持ちも起きてこない。私もたまにこういう本を読んで、ちょっと考えてみるだけだけれど、それでも少しずつ考えていきたいと思う。

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(感想文の感想など)

2001年に米国同時多発テロ、2011年にアラブの春。ということは、来年2021年にもイスラーム国で何かが起こるかもしれない…。

感想文14-27:「家族」難民 生涯未婚率25%社会の衝撃

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※2014年6月10日のYahoo!ブログを再掲。

 

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夫婦格差社会(感想文13-31)では、生涯未婚率が『2010年時点では男性20.1%、女性10.6%』という記載があった。私は既に結婚していて、あまりピンときていないが、一生涯で結婚しない(できない)人は決して珍しくなくなっている。タイトルにある生涯未婚率25%というのは、決して誇張された数字ではない。現実として4人に1人がずっと未婚のまま生涯を終える社会になりつつある。

さて、本書で気になった箇所を挙げておこう。

本書では、十分な介護を受けられない人たちのことを「介護難民」というように、家族のサポートを受けられない人たち-自分を必要とし大切にしてくれる存在がいない人たち-のことを「家族難民」と呼びたいと思います。

うーむ、重い。誰だって『自分を必要とし大切にしてくれる存在がいない人たち』として認定されたくないだろう。家族難民という言葉には、誰からも大切に思われていないという強烈な孤独感、寂寥感が込められている。想像するだけで恐ろしい…。

この言葉(※家族難民)は、いまの日本が直面する格差の実情-経済力のある人が家族をつくってさらに豊かになり、経済力のない人は家族を形成・維持できず、生活も困窮していく-を象徴しています。

橘木さんの夫婦格差社会では、高所得夫婦と低所得夫婦(あるいは低所得シングルマザー)の間に大きな格差があることを指摘しているが、本書ではさらに、そもそも結婚すらできない層があるということを強調していると言えるだろう。

NHKの『無縁社会』は、年間3万2000人が孤独死しているという現状を明らかにしました。(中略)2010年、50歳時点ででの男性生涯未婚率20%、女性10%という数字は、(中略)25年後、年間(中略)20万人以上の人が孤独死を迎える可能性を示唆している

誰にも看取られることなく、最期を迎える。自分が死んでも誰からも惜しまれない。自分の死に誰も関心を持たない。無縁死というのはそういうことだ。

現在の日本には、戸籍や住民票登録などの公的書類上は存命であるものの、生死の確認が取れない高齢者が大勢いるといわれています。その中には、子どもが親の死を隠して年金を不正受給しているケースも多数あると考えられます。

親の年金を当てにして生活している者にとって恐れることは親の死である。こういった死を隠す事例は生涯未婚率が高まるに連れて増えていくと考えられる。年金制度が抱える問題点の一つだろう。

ネットカフェ難民や年金の不正受給、高齢者虐待や高齢者犯罪、さらに孤立死-。いまのところ、これらの社会現象はシングル化によって起こった象徴的なものとしてとらえられています。

いずれも近年、社会問題化している。日本は高齢化社会と言われて久しいが、寿命が伸びたこと、長生きすることは、本来、喜ばれることのはずだ。高齢者が大切にされない社会は、その社会が冷たいというのではなく、その高齢者を大切に思っている人がそもそもいないのが問題の根幹にある。

希望難民ご一行様(感想文12-22)の感想文で次のことを書いた。

<<正社員になること、結婚すること、子どもを授かること。そのうち全てを手に入れることができた人は非常に幸運だと思う。不幸なのは自分たちの親の世代はそれらを得てきたということだ。今はその昔当たり前だったことが得られない状態になっている。だから社会的承認ではなく、簡単に得られる相互承認へと走る。>>

日本社会はすっかり様変わりしている。Line、TwitterFacebookなど簡単につながることができ、相互承認を得ることも容易だ。私たちはつながっている。しかし、孤独だ。

仕事で認められず、結婚もできず、子どももいない。そんな人は珍しくない。4人に1人はそうなるのかもしれない。現在の資本主義のシステムはそういった『家族難民』を生み出すことによって、成立しているのかもしれない。

他方で今、日本は少子化対策として、移民の受け入れを検討している。移民制度については賛否両論ある。難民問題と移民問題が同居するという奇妙な現象が起きつつあるのかも知れない。

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(感想文の感想など)

2019年5月23日東京新聞夕刊によると「生涯未婚率」を「五十歳時未婚率」へと表現を変更するとのこと。国立社会保障・人口問題研究所の推計では2035年に男性が約29%、女性が19%になるとのこと。

息子2人は結婚できるだろうか。孫を見れるだろうか。

感想文14-14:毒ガス開発の父ハーバー 愛国心を裏切られた科学者

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※2014年4月11日のYahoo!ブログを再掲。

 

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炭素文明論(感想文14-11)によると、ハーバーは毒ガス開発に携わっていたとのこと。偉大な科学者がなぜ毒ガス開発に手を染めたのか。気になって本書を手にした。

フリッツ・ハーバー(1868-1934)はユダヤ人。同じ年生まれは、尾崎紅葉秋山真之横山大観

ハーバーはいくどとなく失望の涙を流しながら、くじけなかった。地位を求めて自分を売り込む一方で、しかし社会に対しては一種の順応主義者だった。

ドイツでユダヤ人は差別を受けていた。そのため、ハーバーは非常に優秀であったが、なかなか大学の職に就くことはできなかった。ユダヤ教からプロテスタントに改宗し、少しでもポストを手に入れる可能性を高めようとした。

珍しいことにハーバーは、結局、一生を通じて本当の師らしい師を持たなかった、ほとんど独学の研究者であった。(中略)研究スタイルはいわば「一匹狼」に似ていた。

独学スタイルで当時不可能と言われていた空中窒素固定法を発明した。今でもハーバー・ボッシュ法として知られる非常に有名なアンモニアを生産する方法だ。

そんな偉大な科学者であるハーバーだが、ドイツにおけるユダヤ人として苦悩していた。祖国を愛し、その愛を証明するために軍の毒ガス開発に協力するようになった。

しかし、『才女だが内向的で神経質な』妻クララが自殺する。夫が毒ガス開発に手を染めるのを許すことができなかったのだろう。ちなみに、後に若く『陽気で機知に富み社交的なシャルロッテ』と再婚するが、晩年に離婚する。

当時全ドイツ人の約1%にすぎなかったユダヤ人の約17%に当たる10万人が兵役につき、うち1万2千人が戦死したというのは、いかに彼らがドイツを共通のアイデンティティとしていたかを示しているものだろう。

改宗したり、兵役に就いたり、毒ガスを開発したり、当時のドイツにおいてユダヤ人はドイツのために血を流していた。ヨーロッパにいない私には今ひとつユダヤ人のことがよく分からない。そもそもユダヤ人の知り合いもいない。それでも国を愛し、国に尽くし、妻に死なれ、そしてナチスの台頭により裏切られていくハーバーの姿は非常に切なく映る。

ドイツ軍が「黄十字」と呼び、イギリス軍がその特異な臭いからマスタード・ガスと名づけ、のちに発射された場所イープルに因んでフランス軍によってイペリットと呼ばれることになる。

イペリットって地名から名付けられたのかぁ。正確な物質名は、ジクロロジエチルスルフィド(硫化ジクロロジエチル)。村上龍さんの共生虫で登場したので、そのイペリットという名称を覚えていた。

第一次世界大戦(1914-18)でドイツは負ける。毒ガス開発に貢献したハーバーはその責任を問われることになる。またドイツも賠償金の支払いなどでドイツの財政は傾き、研究活動は停止する。

そんなどん底状態のドイツを支援したのが、星一(ほし はじめ:1873-1951)だ。星は後藤新平(感想文12-40)と深い親交があり、後藤はドイツに留学経験があった。そうか、後藤新平とつながりがあったとは。ちなみに星一の息子はかの有名な星新一とのこと。うーむ、不思議なつながりだ。

そうしてハーバーは星の求めに応じて、来日する。1924年のこと。

陸海軍はひそかに星を通じて、毒ガスと空中窒素の講義をしてくれと依頼して来た。

確かな証拠はないものの、どうやらハーバーは星に恩義を感じ、そして、毒ガス開発について軍に教示したかもしれない。

もう一つハーバーと日本には縁(悪い意味で)がある。叔父のルートヴィッヒは日本で1874年に殺害されているのだ。ルートヴィッヒはドイツ領事であり、排外思想の旧秋田藩士によって斬殺される。当時は大変な事件になっただろう。叔父を殺された地に対してハーバーはどんな気持ちでやって来たのだろうか。

晩年のハーバーはタイトルにあるように祖国に裏切られ、国外追放の憂き目に合う。研究所から離れる1933年10月3日のハーバーの惜別の言葉は、

我が提言とレオポルト・コッペル財団の基金によって建設された22年間、平和時には人類のため戦争時には祖国のためつくしてきた研究所に別れを告げる。(後略)

というものだ。平和時には人類のため戦争時には祖国のため、という言葉に胸を締め付けられる。パスツールの『科学に国境はない、科学者に祖国はある』という言葉は、ある種の愛国心を想念させるが、戦時には暗い影を落とすこともあるのだと知った。

戦争は科学技術を進歩させるという言説がある。これは半分真実であるが、半分は間違っている。たとえば第一次、第二次両大戦中、アインシュタインのような例外を除けば大多数の科学者が戦争に協力させられた。だが彼らが発展させたのは兵器の開発・改良を目的とした技術であり、そのためにむしろ科学の研究は停滞したのである。そしてその科学技術が、戦争のあり方をいよいよ悲惨に、深刻化したことだけはいえるであろう。

ふーむ。軍事研究が応用された例(ウェブやGPSなど)は確かに多い。アメリカのDARPA(国防高等研究計画局)がイノベーションに大きく貢献しているという話も聞く。

確かに社会貢献につながった研究もあるだろうが、一方で、より大規模で効率的な殺戮へとつながった研究がたくさんあるのだろう。

ハーバーは毒ガス開発によって戦争の終結が早まると考えていた。しかし、実際には敵国も同様の兵器を開発し、むしろ戦争を長期化させ、被害を拡大させた。圧倒的な兵力により戦争を終結させるというアメリカの自分本位な考えは、テロに怯える日常を生み出したのかもしれない。

人間は愚かだ。多くの血と死をもってしても未だ戦争は続いている。ハーバーはその時代の被害者でもあるし、また加害者でもあろう。そこにはっきりとした線引きはできないし、したくもないが、ハーバーが偉大な科学者であったということも真実だ。

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(感想文の感想など)

ハーバー・ボッシュ法は偉大な発明であるが、化学反応を進めるためには高温高圧条件が必要であるため、多くのエネルギーを要する。つまりは環境によろしくないのだ。

現在、多くの研究開発機関や大学で研究されているが、現行の生産方法を塗り替えるまでには至っていないのが現状だ。

感想文14-11:炭素文明論―「元素の王者」が歴史を動かす

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※2014年2月22日のYahoo!ブログを再掲。

 

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医薬品クライシス(感想文13-53)と同じ佐藤健太郎さんの著書。佐藤さんは最近のサイエンス・ライターの中でも非常に読みやすく、分かりやすく、そして魅力的な文章を書ける能力のある人だ。本書も炭素を中心として描いたその着眼点のみならず、様々な話題をうまく抽出し、詰め込み、工夫する手腕には感服してしまう。要するに面白いってことです。

それでは気になった箇所を挙げておこう。

地球の地表及び海洋-要は我々の目に入る範囲の世界-の元素分布を調べると、炭素は重量比でわずか0.08%を占めるに過ぎない。

少なくとも地表と海洋の重量比においては、炭素の存在感はほぼゼロに近い。しかし、そんな少量の炭素がまさに歴史を動かしてきたのだ。

炭素が本領を発揮するのは、この「化合物を作る」段階だ。今までに天然から発見された、あるいは化学者たちが人工的に作り出した化合物は7000万以上にも及ぶが、これのうち炭素を含むものはそのほぼ8割を占める。

身の回りにあふれる化合物の数々。そのほとんどに炭素が使われている。化学を習った人なら分かるように、炭素には手が4本あり、色々な元素と片手や両手をつなぎ、分子を作り出す。

新たな価値ある炭素化合物-新素材、医薬、兵器等々-が開発されるたび、人々の意識も経済の流れも大きく変化してきた。この世界の歴史は、炭素化合物の壮大な離散集合の繰り返しであるといえる。

感染症は世界史を動かす(感想文08-16)では、感染症であるペスト、梅毒、結核、インフルエンザがいかに世界史に影響を与えたかを描いている。確かに感染症の視点は面白いし、現在でも新型インフルエンザなどの脅威にさらされているのは確かだけれど、人間対ウイルスあるいは菌という構図にどうしてもなってしまう。一方の炭素化合物では、経済活動はたまた戦争というまさに人間対人間という構図になる。これが非常に面白い。

今回取り上げた化合物はどれも甘味を感じさせるが、(中略)構造的には全く似ても似つかない。(中略)糖は、生化学に残された重要なフロンティアなのだ。

身近な炭素化合物の一つに糖がある。砂糖の世界史(感想文09-52)も非常に面白い一冊だったけれど、より広い視点で見ると、大航海時代、植民地、奴隷制度、産業革命へと展開する砂糖の役割は、炭素が動かした歴史の一つにすぎない。興味深いのはヒトが甘味を感じる原理がよく分からないということだ。

ちょっと話が逸れるけれど、DNA、タンパク質ときて糖鎖は第3のバイオポリマーと言われている。生体内で多様で複雑な働きをして、単純に思えるDNAとタンパク質の世界を華やかにしている。少なくとも私が大学生の頃には生物学で糖鎖のことについて学んだことはないと思う。

フランスの中ポルトガル大使であったジャン・ニコは(中略)フランス王妃カトリーヌ・ド・メディシスの頭痛を治したことで評判となり、「ニコの薬」として知られるようになった。

これはニコチンのこと。黒王妃(感想文13-38)のカトリーヌ・ド・メディシス1519-1589)の頭痛を治したことで、今でもニコの名は現代に残っている。頭痛が酷いままだったらユグノー戦争(1562-1598)は避けられていたのだろうか

タバコの関税を40倍以上に引き上げるといった極端な政策を敷いたが、すでにタバコの味を覚えた民衆がいきなり禁煙できるはずもなかった。結局これは密輸入の急増を招いただけで、彼の在位中にタバコの消費量は逆に増えてしまったともいわれる。

ジェームズ1世(1566-1625)による極端な規制は、経済学で学ぶとおり価格の高騰を招き、闇タバコが増え、品質は低下したことだろう。禁酒法時代と同じようなことが、タバコでも起きていたことを初めて知った。

言ってみればアヘン戦争は、カフェインとモルヒネという「ドラッグ」の売り込みが合いが引き起こした戦争であり、より強力なドラッグを持ち込んだ英国が清を破壊した。

「清の紅茶=カフェイン」と「英国のアヘン=モルヒネ」を物々交換した結果、より中毒性の高いアヘンがより大きな需要を喚起してしまったということだろう。こういう視点は面白い。歴史の授業もこうだったらもうちょっと好きになっただろう。

20世紀に入り、社長や大学教授に尿酸値が高い人が多いという調査結果が出始める。そこで知能指数が特別高い人を調べてみると、なんと痛風患者が通常の23倍多いことも判明したのだ。

これを『尿酸天才物質論』という。初めて聞いた。尿酸値が高くて困っている人に慰めとして話してあげることにしよう。自分自身はまだ尿酸値が対して高くないので、きっと天才ではないんだろう。

この島は、何万年にもわたって海鳥の糞や死骸が積み重ねられてできた、「グアノ」で覆われていた。(中略)1859年にはグアノによる収入が国家予算の4分の3を占めるに至った。

舞台はペルーのチンチャ諸島。グアノという言葉も初めて知った。このグアノが肥料になり、莫大なマネーを生み出す。現代の石油みたいなもの。

ハーバー=ボッシュ法、化学工業史上最高の成功例といわれる。現在世界各国に存在するアンモニア合成プラントは、今では我々の食料に含まれる窒素の3分の1を供給している。

まあ、そんなグアノも枯渇し、アンモニア合成が望まれ、ハーバーとボッシュによって、合成法が生み出され、産業化する。その後、ハーバーは毒ガス開発などもするそうで、彼の人生についてもうちょっと知りたい。

二酸化炭素濃度増加の影響については、海洋酸性化という問題も指摘されている。(中略)今世紀末までに0.140.35ほど酸性に傾いてゆくと予測されている。

海洋が酸性化し、サンゴが死滅する。こういった現象を『海の砂漠化』と呼ばれている。これも初めて知った。知らないことばかりだなぁ。

近年、「低炭素社会」、「カーボンフリー」などという言葉に象徴されるように、何やら炭素は邪魔者、悪者であるかのように扱われている。しかし、炭素こそは生命・文明にとってのキープレイヤーであり、そこには現在よりもさらに多くの注目が注がれるべきだ-本書を書き進めてきたエネルギーは、そうした思いであった。

ふむ、確かCO2削減とか、どうも炭素にネガティブなイメージがつきまとっている。しかし、電子部品が無機物から有機物に置き換えられ、飛行機の機体までも炭素が活用されるようになりつつある。今も新たな炭素化合物が生み出され、産業が起こり、歴史は動いていく。地球の表層に炭素はほとんど存在していないが、歴史の中枢にはっきりと存在している。

感想文13-53:医薬品クライシス―78兆円市場の激震―

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※2013年9月1日のYahoo!ブログを再掲。

 

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新薬誕生―100万分の1に挑む科学者たち(感想文08-66)によれば、薬開発はドラマチックで、そして成功確率が極めて低いとのことだ。医薬品業界はその特殊なビジネスモデル(投資が大きく、当たれば大儲けだが、ほとんど当たらない)と画期的な医薬が生み出されにくくなっている状況によって、大きく変化しつつあることを活き活きと描いていて、あんまり業界のことを知らない私でも引きこまれていった。

医薬は、身近に手に入る存在でありながら、人間の生命システムを直接左右する能力を本質的に持った、数少ない商品だ。

そのとおりで、あんなに小さな化学物質の集積が、人間の生命システムに働きかける。ヒトが複雑な化学反応により姓名を維持しており、そこに絶妙に作用し、病気の改善に手助けをしてくれる。そして、これは生命システムへの影響という生物学的な反応だけでなく、人生をも左右する大きな機能を持った商品だとも言える。

本書では、身近ではあるが存外知らない医薬とその市場や業界についてコンパクトに書かれている。気になった箇所を挙げておこう。

現在最大の医薬は高脂血症治療薬リピドール(ファイザー)で、そのピーク時の売上は全世界で何と年間1兆6000億円にも達した。

そんなに売上があるんだ。製薬企業は本当に少ない医薬でその巨体を維持している。そこで研究開発費を稼ぎ、次の商品を生み出すことになるのだが、なかなかうまくはいかない。売上はずっと維持されるわけではない。特許の権利満了により、ジェネリックが参入し、独占は崩れる。

トルセトラピブ開発中止の発表からほとんど間をおかず、ファイザーは全世界の従業員の1割に当たる、約1万人を削減するという大規模なリストラ計画を発表した。日本の研究所も閉鎖、日本法人全体では1200人が失職の憂き目を見た。

脂質降下薬で期待されていたトルセトラピブは、心血管事故が起きたために開発が中止された。次の主力商品として期待されていたため、その反動もまた大きい。1万人もクビが切られる。こういうことは製薬業界では決して珍しくない。本当にごくわずかな商品が従業員を養っており、失敗した時の衝撃は凄まじいものがある。

現在、医薬を自前で新しく創り出せる能力のある国は、日米英仏独の他、スイス・デンマーク・ベルギーなど、世界でも10カ国に満たない。

へぇ。医薬を作るためには技術力が必要で、製薬会社のある国はそれだけの人材や基盤があるってこと。

面白いことに、眠気を引き起こすという抗ヒスタミン薬の副作用を逆手に取り、睡眠改善薬として用いるケースもある。

商品名でいうとドリエルがそうらしい。薬を飲んで眠くなるというのを、逆転の発想で、眠り薬として活用する。なるほど。

アステラス誕生の際、実際には山之内と藤沢に加え、2位の三共あるいは4位のエーザイも加わった3社合併を検討していたことは、業界内では周知の事実だ。

日本の製薬会社はたくさん合併した。山之内製薬藤沢薬品工業が合併し、アステラス製薬になった。てっきり山ノ藤とか藤ノ内になると思っていたのに…。それ以外にも大日本製薬と住友製薬が合併し大日本住友製薬、三共と第一製薬経営統合第一三共田辺製薬三菱ウェルファーマが合併し、田辺三菱製薬となっている。アステラスに三共やエーザイも加わる検討をしていたんだ。もう少し前は銀行の合併が多く、最近だと電機メーカーがその動きがあるのかな。

医薬とは、病気に関わっているタンパク質に結合し、その働きを節約することで症状を和らげる物質なのだ。

ということで、これまでの医薬は小さい。大きなタンパク質にちょこっと張り付く感じ。巨大なクジラにくっつくコバンザメみたいな感じ。

抗体は大きなタンパク質であるため細胞、まして中枢系などには入り込めないから、対象となる疾患は特殊なガンやリウマチ、一部の感染症程度に限られてくる。(中略)今のところ抗体医薬は低分子医薬に完全に取って代わるようなものにはなりえない。

抗体医薬はでかい。クジラを襲うシャチくらい。でも大きいぶん、使い勝手は悪い。

12年世界のブロックバスター 売上トップに抗体医薬の抗リウマチ薬ヒュミラによると『抗体医薬はランキングトップ10製品中に5製品がランクインしており、抗体医薬が企業業績に大きく寄与し、存在感が増していることも確認された。』とあり、抗体医薬は主力商品になりつつある。

それでも抗体医薬の出番は限られている。しかし、低分子薬が新たに誕生するかというと難しいだろう。製薬企業にとっては難しい時代になっているのかもしれない。

筆者は2010年問題の原因について、何人かの薬理専門家に話を伺ったが、この「モデル動物の不備」を指摘する声は多かった。

最近、新しい薬が生まれていない。モデル動物は研究の基盤となるが、そういった地味だけど大事な研究とは呼びにくい事業に税金は投入されにくい。モデル動物って作り出すのは大変だけれど、それを維持し、必要とする研究機関や企業に分配するというのはさらに大変なのだ。

自分の思いつきや、他の研究者との話し合いから出てきた新しいアイディアをこっそりと試してみる、通称「闇実験」はしばしば新しい研究テーマの母胎となってきたが、成果主義はこの文化を廃れさせてしまった。

こういう主張を他の本でも目にした記憶がある。イノベーションは「闇研究」の成果 根性論に縛られる日本の経営者という記事があった。個人的にはこちらを支持したい。成果主義が闇実験という文化を廃れさせたのかもしれないが、自由度のなさがイノベーションを妨害しているかというとどうだろう。

(画期的な新薬を世に送り出した研究者)に共通するのは、「何としても薬を生み出す」という、どこか狂気さえ感じさせる異様なまでの信念であった。

これも分かる気がする。

イノベーションとは何か(感想文13-40)では『別のフレーミングをする変人が、最後まで自分の思い込みを実行できる環境をつくること』と書かれている。異様な信念、思い込み、あるいは狂気。人間とは不思議でこういう人たちが世界を変えるのかもしれない。

未だに悩んでいるのは、イノベーションを生み出す確率をどうやって高めるかということだ。イノベーションを狙って生み出すのは無理だろう。プレイヤーはある種の狂気を宿した人間で、コントロールやガバナンスにそぐわない。他方で、システマティックな投資がイノベーションを生み出すという考えにも賛同する。

うーむ、分からない。イノベーションをどうやって実証的に分析するのか。もうちょっと勉強したい。

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(感想文の感想など)

2018年に世界で最も売れた薬にあるように、関節リウマチの抗体医薬品である「ヒュミラ」が約255億ドル(2.7兆円)の売上となっている。リピドールなんて目じゃない売上額だ。とはいえ、特許切れが迫っているとのこと。

なお、同記事では、世界の医薬品市場は1兆962億400万ドル(117兆2938億円)で、市場はがん、糖尿病、自己免疫疾患となっている。

新型コロナウイルスの治療薬とかワクチンが開発されたら、これまたものすごい売上になることだろう。

感想文08-66:新薬誕生―100万分の1に挑む科学者たち

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※2008年12月8日のYahoo!ブログを再掲。

 

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病気になると、病院に行き、医師に診断され、薬を処方される。そういえば、半年ほど前に帯状疱疹になったときは、いくつも薬をもらった。今では薬局で薬の効用効果が伝えられ、これはこういう効き目があるのかと思いながら、カプセルだったり、粉状だったり、液体だったりする薬を飲む。

薬の名前と効き目(あるいは副作用)について、ユーザーたる病人は気になる。しかし、こういった薬が大勢の科学者の知恵の集積であることについて、意識することはほとんどないだろう。

本書では、薬を開発する科学者たちにスポットライトをあて、革新的な薬が、世に出る過程をドラマチックに描いている。患者を救いたいという科学者の信念が、経営者たちの心を動かすシーンには思わず胸が熱くなる。

実際にはもっとドロドロした思惑があったり、ややこしい人間関係があるんだろうけれど、こういうベタなプロジェクトX的なストーリーは、薬に対する見る目を変えてくれた。

これからは効き目だけでなく、熱い開発過程にも思いを馳せながら飲んでみよう。といっても、病気の時は、とにかく処方された薬を飲むので精一杯なんだけどね。

さて、本書では7つの薬が紹介されている。その中から、印象に残った3つをここで取り上げてみたい。

「第3章 本当に勝った人エインスリン ヒューマログ」は、人工的に製造されたインスリンの話だ。ご存じのように糖尿病になるとインスリンを注射しないといけなくなる。うちのじいちゃんも毎日注射していた。

そういえば、ぼくは大学院生の頃に糖尿病の研究もしていたので、インスリンアミノ酸構造を何となく覚えている。A鎖とB鎖の二つのユニットから構成されていて、2本のSS結合で架橋されている。

DNA組換え技術によって、それまではブタの膵臓をしぼって作っていたのが、大腸菌が作ってくれるようになった。これはこれでものすごいことだ。

そしてヒューマログがすごいのは、自然のインスリンよりも、即効性のある人工的なインスリンであるということだ。人間の体に自然に備わっているモノが最良であると、ぼくたちはついつい考えてしまいがちだけれど、その固定観念を打ち破るすごい発明だ。

続いて「第6章 癌治療の扉を開く グリベック」。ぼくたちの体の細胞の中では、たくさんのタンパク質がリン酸化と脱リン酸化を繰り返し、機能を調整している。特定のリン酸化を阻害することで、特定の細胞をやっつけてしまおうというのが、そもそもの発想の出発点だ。

グリベックは、それまで骨髄移植などでしか治療できなかった白血病の薬だ。リン酸化を阻害するという方法で成功した世界初の本当に革命的な薬だ。

薬の世界でその誕生の意味は非常に大きかったが、マーケットは小さかった。開発に多大な労力を要するものの、儲けが少ないということだ。しかし、製薬企業の経営者は「儲け」だけを見ているわけではなかった。例え、儲けが少なくとも、「患者を救う薬を世に出すことは製薬企業の義務」だと、決断したのだ。

グリベックFDAの審査をパスし、大量生産されるまで、本当に科学者たちは必至に働き詰めだったとのこと。

「すべての人が一生懸命に働いたのは、我々が何か重要なことをしていると知ったときに湧き起こる素敵な感情のせいでした。」

という一文は印象的だった。

さいごは、「第7章 世界一の薬はこうして生まれた リピトール」。世界一の薬というのは、世界で一番売れているという意味。コレステロールを下げるスタチン系の薬だ。そして、スタチン系を開発したのは、日本の遠藤章氏だ。

本書で紹介されている薬は、全て海外のビッグファーマであるが、1つの薬ができるその背景には、数多の研究成果が積み重なっている。ときたま、日本の成果も登場し、日本人の名前が出てくると感情移入しやすい。

今ではファイザーが販売しているが、開発したのは、ワーナー・ランバートという比較的小さな会社だった。そして、幸運にもあまりにそれが爆発的に売れたが為に、特許が切れた時に、逆に一気に売り上げが下がることも明らかだった。あまりにすごく売れたがために、会社はファイザーに吸収されることになった。開発した企業が存続できなくなるほどのインパクトということで印象に残った。

製薬企業では多くの科学者が働いている。しかし、自らが直接開発した薬の製造販売が許可されることはほとんどないそうだ。とはいえ、科学者の熱意が開発の駆動力となり、最終的に薬にならなかったとしても、研究の成果や知恵は集積され、未来の薬へと受け継がれていく。

うーん。薬にはドラマがあるんだね。

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(感想文の感想など)

そうだった。この年に、初めて帯状疱疹になったんだった。それから6年後に2度目を経験するのだけれど。

グリベックの開発についてはフィラデルフィア染色体(感想文18-46)も参考にどうぞ。