40代ロスジェネの明るいブログ

2020年1月11日からリスタート

感想文20-42:生産性とは何か

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この冴えないブログのタイトル通り、私はいわゆるロスジェネ(1990年代後半から2000年代前半の「就職氷河期」に社会に出た世代)だ。全く恩恵を受けることなくバブルが崩壊し、日本経済が低迷し、停滞し、とにかく世情が暗い時期に社会に出た。

裕福とは言わないが(東京に来て本当の金持ちは世界が違うことを知ったのだけれど)、小学校教師の母親と鉄道会社勤務の父親のダブルインカムで、良くも悪くもバブルの影響を受けずに済み、私立の高校を経て、国立の大学に合格し、その後、別の国立大学の大学院へと進学した。

関西でトップの国立大学の大学院だと、景気が絶不調だった当時であっても、ほぼ面接だけで就職できる雰囲気で、どの社からもウェルカムな雰囲気だった。そして急激に就活という仕組みに萎え、ゴールデンチケットと呼ばれる新卒採用の切符を自ら手放し、たいして考えもせずスタートアップしたばかりのコンサル会社(みたいなところ)で働くことを選択した。年収は手取りで200万円くらいだった。

結局、その会社は5年で廃業となり、私は4年目で運良く今の会社へと転職できた。まだ20代後半だったから、なんとかなったのだろう。新卒で小さい会社で何でもやったという経験は私にとって大きな糧になったし、そこで構築されたマインドセットは、私自身の人生をより良いものにしてくれたと感謝している。お金がなかったけれど、好きに勉強できた4年間は、世界への認識の在り方を拡張してくれた。

今でも不思議で、なぜあの時にそういう選択をしたのだろうか分からない。合理的な理由はあるようなないようなはっきりとはしない。端的に言えば働きたくなくて、もっと広く世界を知りたかったということになるかもしれない。でも後付けの理由のようにも思える。

あの時、大企業に普通に就職していたらまた違った人生になっていたことだろう。今の妻と結婚できていただろうか。別れていたら今でも独身である蓋然性は極めて高いと思う。心を病んで、仕事を辞めて、高学歴ワーキングプアこども部屋おじさんになっていたかもしれない。人生はわからない。

ロスジェネについて社会を俯瞰してみると暗澹たる気持ちになるが、せめてブログぐらいは明るい話題にしようという初心を思い出すことにしよう。何の話だったか、そう生産性の話だ。

日本経済の低迷は生産性の低迷とイコールで語られる。バブル崩壊の後始末だったり、IT化への乗り遅れだったり、既得権益層と岩盤規制だったり、少子高齢化による社会全体の活力低下だったり、海外に比べて起業数が少ないことだったり、アカデミアの応用研究への軽視だったりと、いろいろな原因とそれへの対応策があり、うまくいっているような雰囲気を政府は出すけれど、株価くらいしか結果は出てない。

働く環境も大きく様変わりした。1人1台スマホを持つようになり、メール以外の連絡手段が増えた。テレビ会議で遠隔地とも打合せができるようになった。昨今のコロナ禍でさらに激変し、外勤も出張も、場合によっては出勤すらなくなりつつある。コロナでなくともできていたはずの変化だが、外的要因がないと変化しないのは日本の特徴だろうか(日本の特異性を過度に強調したくはないのだが)。

前置きが長くなった。生産性とは何か。まずは答えを書いておこう。

生産性向上は、この一人当たりGDPの上昇とほぼ同じだと考えてよい。GDPは一国全体の生産量だが、国民一人一人が、どれだけこの生産に貢献しているかが、マクロの意味での生産性である。(p.018)

2019年データで、日本は40,256USドルで25位。しかしながら、上位国は小国寡民が多い。日本よりも人口が多いのはアメリカ(7位:65,254USドル)だけだ。そう考えると健闘しているとも言えるが、アメリカとの差はなんだろうか。

日本の長期停滞について2つの原因を支持する説がある。一方が日銀日記(感想文19-07)岩田規久男さんらによる不十分な金融拡張政策による需要喚起策の不足であり、他方が潜在成長率の低下でありTFP(Total Factor Productivity)成長率としている。ざっくり言えば、需要と供給であり、緩やかにインフレするという期待感をもたせてお金を使わすか生産効率を上げるのかということになる。本書はもちろん後者側を重要視しているが、日銀の立場であれば岩田さんの主張も分からなくはない。結果が出てないのが残念だが。

日本の場合はIT投資が堅調な増加を示しているのに対し、人材投資は全く逆方向の動きを示している。この点は研究開発投資と人材投資の関係についても同様である。(中略)この点が先進国の中でも日本の生産性上昇率がひときわ低い一因と言えよう。(p.129)

人材を人財とか言っているわりには、人材を育成する費用が減らされている。新規採用を削り、非正規雇用を拡大し、オン・ザ・ジョブ・トレーニングと称しては社内のローカルルールだけに詳しくなるような教育をしていると言える。人材育成投資を怠りながら、大学には産業界のニーズに対応した教育をしろと要望している。

一方で、企業が人材育成しない理由も分からなくもない。育ったら、ステップアップして別の会社に移ることを恐れている。結果、長期的な戦略なく、その場しのぎで人材を雇用し、使い捨てる構図になる。生産性は上がらず、国際競争に勝てず、企業のプレゼンスは落ちていく。不幸なことだ。

企業レベルので新陳代謝は進んでいないかもしれないが、財レベルでの新陳代謝が進行している可能性は残っているのである。(p.143)

日本は起業が少なく、企業の新陳代謝が起きていないという指摘はよく耳にする。本書で興味深かったのは、企業は残っているけれど、もはや違う事業をしている会社が多いのが日本の特徴ということだ。確かに富士フィルムが化粧品を作り、日立造船が環境・プラント事業へとシフトしたように、既存のビジネスが陳腐化すると、その会社を畳むのではなく、別のビジネスへと技術を転用してピヴォットする。もちろんスムーズにいかない場合もあるだろうけれど、その昔、トヨタだって機織り機メーカーだし、任天堂だって花札メーカーだったのだから、企業の生き残り戦略として見てみると面白い。

競争性、合理性、多様性は、生産性向上に不可欠の要素だが、それを個々の企業の努力で終わらせないためには、やはり政府の長期ヴィジョンが欠かせない。(p.221)

本書では、スポーツ(メダル数など成果が出てる)と観光(海外からの観光客の増加)が好例として示されていたが、今現在、コロナ禍でどちらも苦境に喘いでいる。

近年の少子化の顕在化を日本経済にとって深刻なショックと受け止め、危機感をもって生産性向上に取り組めるかどうかが、今後の日本の経済社会の行く末を左右すると言えるだろう。その意味で日本経済は正念場を迎えている。(p.225-226

すでにヤバかった日本経済が、コロナ禍でオリンピック特需も観光産業のどちらも失いかねない緊急事態に陥っている。今だからこそ、在宅勤務&オンライン会議の普及、無駄な押印廃止、デジタル・トランスフォーメーションが進む良い契機になって欲しい。今は、そうならないと生き残れないぞというくらいの危機だよね。

感想文19-07:日銀日記

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※2019年4月15日のYahoo!ブログを再掲

 

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著者は、岩田規久男(いわた きくお、1942-)さん。岩田さんは、2014-2018年度の5年間、日本銀行副総裁を務め当時の日記をまとめたものが本書となっている。

歴史や最新のニュースやSF的な未来のことに興味のある方は多いし、そういった情報はたくさんあるのだけれど、こういう近過去情報は存外少ない。ニュースとして扱うことはできないし、評価がはっきりしていない事柄に関する当事者情報はその取扱いには慎重にならざるを得ないのだろうか。

本書はタイトルどおり日記形式となっている。経済学への理解が乏しいくせにやたら居丈高な国会議員、それを諌めない政党への辛辣な批判など、実名を含めて赤裸々に描かれている。一方で、野党議員であっても経済政策に理解のある議員と交友関係があることも記されている。要職を離れたからこそ、そして日記形式だからこそ、なせる面白さだ。

本書を読むまで、私には、財政政策と金融政策の違い、っていうかそもそも別物だという理解すらなかった。本書を読んで、財政と金融の関係、さらには日本が抱える課題、ユーロ圏における政策判断の難しさということへも理解が進んだ。

40歳である私の日本経済への同時代的な実感・印象をまとめておこう。

中学生くらいまで:景気が良かったのだろう。あまり実感はないが、小学生の頃にお年玉で1万円もらったのと、親が急に絵画を購入したことが、覚えている限りの私的なバブルっぽい出来事だろうか。

高校生から大学生:景気が悪くなったように思う。親戚が事業に失敗し、借金の無心に来たこともあった。後付でバブルという時代があったこと、そしてデフレ・スパイラルという現象が起きていることを知った。

大学院生から就活:いわゆる就職氷河期だった。わりとキラキラした学歴だったので、就活は余裕だったが、だからこそ嫌になって就活を辞めた。社会全体に閉塞感しかなかった。村上龍の『希望の国エクソダス』とかを読んでたな。遅い中二病時代。

社会人時代(その1):特に就活せずに、大きな会社の小さな子会社に就職した。その子会社の創業時からのメンバーとなった。年収は200万円くらいだった。でも自由で楽しかった。本を経費で買ってくれたので、好きに勉強できた。充実していたけれど、裕福ではなかった。とはいえ、お金を使う趣味もなかったし、デフレ経済だったので、生活に困窮することはなかった。この頃に結婚もした。稼ぎは民間企業で正社員の妻の方がはるかに多かった。養ってもらっていた時代とも言える。

社会人時代(その2):前の会社が傾き出したので、転職した(その後、その会社は潰れた)。任期付きとはいえ、運良く政府系機関に職を得ることができた。給料は倍以上になった。子どもが生まれた。毎日の生活に精一杯で日本経済への印象は乏しい。

民主党政権時代(2009-2012):某省庁に出向中に政権交代があった。国民が自民党にお灸をすえたわけだが、羹に懲りて膾を吹くように、同時に民主党への強烈なアレルギーショックも引き起こしたと思う。特に地震後のゴタゴタは酷かった。日本経済がガチでヤバい。そんな時期だった。そりゃ党名変えるよね。

その後から現在:経済が良くなったのかその実感ははっきりしない。少なくとも不況で閉塞感しかなくてどないしたら良いんだという感じからは抜け出したような気はする。難民、トランプ政権誕生、ブレグジット北朝鮮問題と国際情勢は落ち着かない一方で、国内情勢は安定していると思う。もちろん全く問題がないわけではないけれど。

一方で、経済政策で失敗した国家が出てきている。筆頭はベネズエラと韓国だ。前者は社会主義的な政策によってハイパーインフレを起こし、国民が国家から逃亡している。後者は最低賃金保障の価格規制が労働市場を壊滅させる生きた事例になっており、教科書に載せたいほどだ。共通するのは社会主義的な政策を採用したことだ。

前置きが長くなってしまったが、改めて日本の金融政策である「量的・質的金融緩和」に注目したい。しかし、現段階ではその評価ははっきりしない。失敗政策は短期的に効果が表れる(ダメにするのは簡単)のでわかりやすいのだけれど。

日銀にせよ、政府にせよ、予測の専門家と自称するエコノミストにせよ、誰も「市場を思い通りに動かす」ことなどできないことは自明である。リフレ派がいう「インフレ予想の形成に働きかける」とは、(中略)「15年以上も続いたデフレのために、人々の間に強固に定着してしまったデフレ予想を「量的・質的金融緩和」によって打ち砕き、人々が次第にインフレを予想するようになる」という意味で、「人々のインフレ予想形成を促す」ことに他ならない。(p.191)

私はインセンティブの問題と理解している。日本国民はインフレしないと思っているから、お金を貯め込み、使わず、デフレが固着する。企業も同じで設備投資をしなくなる。こうして経済は衰退していく。物価が上がらないなら、倹約するようになる。これは良い悪いではなく、行動変容、つまり、お金を使わせるためには、金利を下げ、借金しやすくし、個人であればローンで家を買ったり、企業であれば借り入れして新規事業を始めたり新しい工場を建てたりする。金利は下がったが、インフレは起きていない。株価は上がったが、給料は上がっていない。この政策の正否を判断するにはまだしばらく時間が必要だろう。

バブル崩壊後の金融危機は、資本主義の根幹である「信用の危機」であるため、長い時間をかけた信用の大収縮(負債の大圧縮=借金の返済、新たな借金の抑制)という調整を経なければ、回復は難しい。この回復を早めようとすると、政府支出の大幅増加や大減税が必要になり、今度は、ユーロ圏で典型的に起きたように、政府が債務危機に陥る。そのため、残された景気回復手段は、金融政策が中心になる。(p.418)

なぜ日本は失われた20年とか言われるほど、長い時間、経済が低迷・停滞したのだろうか。結局はバブル崩壊の後遺症が長引いているのだ。ようやくトンネルから抜け出せそうかと思ったが、消費税増税で回復が遅れるかもしれない。

例えば、金銭を支払って解雇する、金銭解雇を解禁すべきではないか。この解禁は、失業率が2%代後半まで低下し、有効求人倍率が1.49倍まで上昇し、正規社員の有効求人倍率もほぼ1倍になった現在のような雇用環境の下でこそ、摩擦が少なく、実施できるはずである。すなわち、解雇されても転職可能性が高いのである。(p.372)

日本で真っ先に規制を緩和すべきなのは雇用規制である、と思う。労働契約法改正による無期転換ルールとかは最たるもので、労働者の流動性を阻んでいる。世の中の変化がこんなに激しいのに、雇用の岩盤規制は労働者を守っているようで、結果的にブラック企業を生み出している。ブラック企業はその経営者「だけ」が悪いのではない。経営者の行動をブラック化させるように促しているルールも悪いのだ。

先程、他国の政策を批判したけれど、日本も同様で、今の労働規制は愚かの極みであり、長期的に日本経済を停滞させるし、こちらも教科書に載せるべき失敗政策である。即効性と遅効性の違いなだけだ。消費税増税反対、労働規制の緩和、これをマニフェストに据える政党はないのだろうか。

メキシコからの輸入関税を財源とする壁の建設費用は、メキシコ人だけでなく、アメリカ人も負担するのだ。メキシコからの輸入品がアメリカ人にとって必需性が高ければ高いほど、アメリカ人が負担する輸入関税の割合は大きくなる。(p.347)

これは税と価格弾力性について非常にわかりやすい事例だ。税は、消費者が実質的に払う金額も生産者が実質的に得る金額も消費者余剰も生産者余剰も税収も取引量も、買い手に課税しても売り手に課税しても一緒だ。一方で、価格弾力性の低い財・サービス(=必需品)に税をかけると消費者の負担が大きい。基本的なことだが、そんなことをトランプ大統領に諫言できない状況は極めて不健全だ。輸入関税で壁を建てることが決まれば、こちらも教科書に載せたいほどの失敗政策となる。

こうやって見ていくと、人間はいかに愚かで学ばない生き物なのかと戦慄を覚える。もちろん私自身も例外なく愚かな人間の一人だ。世界は混沌としてきているが、改めて日銀副総裁だった岩田さんの人生を追体験することで、今の日本が見えてくるだろう。

ただし、「量的・質的金融緩和」の効果の程は未だにはっきりしないのだが…。

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(感想文の感想など)

日銀の「量的・質的金融緩和」政策は維持されている。コロナの影響もあって、その効果は見えていないのは変わりない。金融政策に効果があったのかなかったのか、まだ結論は出そうにないが、効果があったとは現時点では到底言えそうにない。

感想文18-45:選べなかった命 出生前診断の誤診で生まれた子

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※2018年10月25日のYahoo!ブログを再掲

 

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本書を読んだ後に、2012年に私が書いた出生前診断についてという文章を改めて読み直してみた。その当時と今との違いは、新しい子をもうけないと夫婦間で決着したという点だ。妻は既に2人を産みノルマを果たしたと強く主張し、私はそれに押し切られた。

正直なところ娘が欲しかったという思いは今でもある(妻は娘は生まれないと主張した)。

妻の説明では高齢出産となるため、生まれてくる子が障害を持つ可能性にも言及があった。お互い40歳になるのだから、障害があった場合に体力的に厳しいのではないかと言われ、それは事実だと納得した。出生前診断を受けるかどうか、受けて障害がわかった場合に中絶するという判断ができるかどうか、そこまで踏み込んでの議論はできなかったが、そういうことで思い悩み苦しむのであれば、そもそも妊娠を避けた方が良いであろうという暗黙の了解的な着地点に落ち着いた。

本書は大変重いテーマを扱っている。当事者の真の思い、ロングフルライフ訴訟の論点、大勢の人が感じるであろう訴訟への違和感、強制不妊手術という歴史の暗部、法と実態の乖離、そして見えにくいダウン症当事者の思いへと至る。複雑なテーマを丁寧ではあるが描き切っている。重すぎるため一般ウケしそうもないが、ノンフィクション作家である河合香織さんの熱意と決意を感じられる良書だ。

人生は選択の連続であるが、我が子の「生」や「死」を選ばされる状況に陥った時に、何を選んでも深く強い悔恨が残る。不可逆的に人生が変質してしまうことさえあるだろう。人魚の眠る家(感想文18-44)のように小児の脳死を巡る、臓器提供せず心臓死か臓器提供するための脳死判定も同様に厳しすぎる選択だ。

医療技術・科学技術の発展によって、例え重度の障害があっても生きながらえることが可能となり、他方で生まれる前に障害の有無を知ることが可能になった。なってしまった。

「人の命を選ぶことが許されるのか」と問われれば、多くの人は「許されるべきではない」と答えるだろう。しかし、現実では規範は無力だ。中絶そのものの是非が問題視されていない(カトリックを中心とした中絶は殺人だ!とする中絶反対運動がほとんどない)日本では、各家庭の決定だから中絶は仕方ないけれど、障害を理由に中絶することに障害者団体が強く反対している。とはいえ、中絶の理由の実態はほとんど明るみになっていない。

本書の端緒は、日本初のロングフルライフ(Wrongfull life)訴訟が提訴されたことである。

この裁判が特異なのは、すでに生まれた命に対して、生まれてこなかった方が良かったかどうかが争われている「ロングフルライフ訴訟」という点である。(p.135)

この訴訟の争点や経緯、さらにはこの訴訟にまつわる多くの非難や批判について興味のある方は、本書を是非お読みいただければと思う。

優生政策の主な柱の一つは、不妊手術によって障害を持った子どもが生まれないようにすることである。優生保護法が廃止された現在は、カップルによる出生前診断によって行われているともいえる。(p.96)

優生政策や強制不妊手術は現在とは関係のない遠い過去の誤った政策であると思っていたが、その考え自体は現在も実質的に維持され、出生前診断という新たな技術に引き継がれている。もちろん国家による強制とは仕組みが全く異なるが、誰かが不要だと考える命は、誕生前に摘まれているのだ。

確かに9割が中絶という数字は強烈で翻弄されてしまいそうになる。けれども、最初から出生前診断を受けない人も多く、NIPTに興味はあっても問い合わせ窓口で説明を聞いて検査をやめる人や遺伝カウンセリングを受けた上でやめる人たちもいるのだ。それをくぐり抜けた、障害があれば中絶せざるを得ないという思いが強い人たちが母集団の中で9割なのではないだろうか。(p.214)

この主張には首肯する。そして私が考えに至らなかったことだ。計量経済学行動経済学的にも興味深いテーマである。NIPT(新型出生前診断)の結果、中絶を選択するかどうかだけでなく、時間をさかのぼると、遺伝カウンセリングを受けるかどうか、NIPTを受けるかどうかまで射程に含めると、異なる状況が見えてくる。

「命の選別」の是非は裁判で決定できる問題ではない。政治的に決着できる問題でもない。法整備で解決できるというわけでもない。「命」についてきちんと正面から向き合い、議論を積み重ねることからを始めるほかない。

しかし、そんな余裕があるのだろうか。国家財政が傾き、経済政策が優先されると、弱者やマイノリティや声を上げられない人は無視され、救済されない。かといって、平等に思えるような社会主義的な政策にシフトすると、ベネズエラのようにあっという間に国家が破綻する。

こころみ学園奇蹟のワイン(感想文17-53)でのこころみ学園の事例が参考になる。どんな重い障害の人であっても、その人には周りの人に良い影響を与えることができる。経済的価値としてカウントしにくいかもしれないし、経済指標に反映されないかもしれない。それでも、健常かどうか、障害の軽重、年齢、性などに関係なく、全ての人に価値があるのだ。そう信じている。

そう遠くない未来、命の選別どころか、命の操作が行われているだろう。重度の遺伝性疾患の治療を皮切りに、軽度な疾患に適用され、能力向上に資する強化にも適用されるかもしれない。

技術は進む。しかし、その歩みや適用を国家が規制することについて、私は強く謙抑的であるべきという立場だ。倫理観は絶対ではなく、たゆたう。辛い選択に迫られないようにすること、選択の精神的負担を軽減すること、どんな選択をしても救いがあること、そういう社会を皆で作っていくしかないのではないだろうか。

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(感想文の感想など)

2020年11月4日の毎日新聞社「新型出生前診断 国は議論で主導的役割を」では、日本産科婦人科学会の自主規制では限界があるから、国で指針を策定しろという主張になっている。

厚生労働省が主体的に指針を策定すると実効性が担保されるかというとそうでもない。罰則規定を設けられないからだ。指針が法に基づけば行政処分できる(法定指針)が、法的根拠のない指針(行政指針)は学会指針とたいして違いはない。ただし、国に逆らえばどこで不利益処分を受けるかわからないという理由で事業者は指針を守ろうとするだけだ。

お上が決めたことにみんなが従うのは理由があって、どこで意地悪されるかわからないというだけで、従わないのは本当に信念のある事業者か、日本のお上信仰に染まっていない外資系の事業者ということになる。

左寄りの新聞社があれだけ現政権に対して批判的に言っているわりに、本件のような新しい技術の適用への規制を国に期待するのは、どういう感覚なのか理解に苦しむ。とはいえ、新型出生前診断というマニアックな事業に紙面を割いてくれているだけマシなのかもしれないが。

感想文18-44:人魚の眠る家

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※2018年10月25日のYahoo!ブログを再掲

 

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東野圭吾さんの小説。容疑者X(感想文08-61)の献身以来だから、10年ぶり。容疑者Xの献身と同様に、本書も妻から勧められて読んでみた。

でもね。特に序盤が重い。読み進めるのが辛い。

本書は、小児の脳死脳死臓器移植が抱える困難さ、複雑さ、そして矛盾を描いている。脳死者の子を持つ母親、父親、脳死臓器移植しか助かる見込みのない子の親、その支援者、医師など、様々な視点で描かれる。

さらには脳死者への殺人やその未遂といった、臓器移植に同意しなければ脳死判定が行われないという間隙に存在する、法で定めた生と死の矛盾点をまざまざと読者は見せつけられる。

生きることの素晴らしさ、生き続けられることの貴重さの裏側にある、脳死という新たな死を発明してしまった人類とそれを法制度に組み込んでしまった国、日本という暗部を直視してしまい懊悩する。

臓器移植については、日本の臓器移植(感想文10-42)人体部品ビジネス(感想文13-03)移植医療(感想文14-43)といった感想文でこれまで取り上げてきた。

臓器が足りない(超過需要)ので、臓器の提供先ごとに様々な問題が発生しているということは明白だ。「臓器が足りない」から、パートナーや親族からの生体移植があり、それでも足りないから、病気腎移植を生み出し、それでも足りないから死者(心臓死)から提供を受け、やっぱり足りないから脳死という新たな死を作り出し、まだまだ足りないから海外に渡航し、根本的に解決したいから再生医療によって臓器丸ごと人工的に作り出すような研究が行われる。

「臓器移植には脳死が人の死かどうかは関係なかったとでも?」「まさに、そうです」(p.352)

脳死は、死を定義づけるものではなく、臓器提供に踏み切れるかどうか、ポイント・オブ・ノーリターンを見極める基準だった。本来的に用いる用語は、脳死ではなく、回復不能や臨終待機状態といった表現が妥当だったのだ。

また、本書は残された者による生と死の受容の物語とも言える。死とは何か。できることであれば、我が子にこういったことが起きないことを祈るほかない。脳死の選択を迫られるのも、脳死の選択を待つのも、どちらも辛いことこの上ない。

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(感想文の感想など)

1997年に臓器移植法が施行され、脳死判定&移植手術がスタートした。2010年に同法が改正され、家族の承諾があれば提供可能となるよう要件が緩和、移植実績は増えていき、2017年で500例に達した。

誰かの死が誰かの生につながる脳死移植。すっきりした答えなどありはしない。

感想文17-53:こころみ学園奇蹟のワイン

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※2017年10月26日のYahoo!ブログを再掲

 

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私はわりとお酒を飲む。ビールも日本酒も焼酎(芋、麦、黒糖)もウィスキーそして、もちろんワインも。会社のワイン会で、同一品種(シャルドネピノ・ノワールカベルネ・ソーヴィニヨン)で飲み比べたことがある。

これまで飲んだワインでどれが美味しかったかと言えば、スイスで飲んだワインだろう。そもそもスイスワインは生産量が少ないにも関わらず、美味しいからとほとんどを自国民が飲み干してしまう。よってほとんど日本には流通していないのだ。現地で飲んだスイスワインは安く、美味しかった。

さて、翻って日本はどうか。はっきり言って、値段相応のワインに出会ったことはない。チリ産よりも高いにも関わらず、味は落ちる。もちろん、最近は美味しくなってきていると聞いているが、コスパは決して良いとは言えない。

本書のタイトルにある「こころみ学園」とは知的障害者施設だ。仕事の関係で、たまたま現地にフィールド調査に同行することになり、事前に勉強しておこうと思い、読んだのが本書だ。

そして、このこころみ学園の存在、その取り組み、そしてその歴史。さらには、現地での体験。これはどれも衝撃的だった。こんな施設が日本に存在すること、これ自体が奇蹟と言える。

知的障害者更生施設といえば、地元にとっては厄介な存在というのが通り相場だが、ここではまったく違う。(中略)知的障害者を地元の生産構造に組み込み、地域住民からなくてはならないといわれるまでの福祉施設に育て上げたのだ。(p.7)

障害者の経済学(感想文12-68)でバリア・フリーからバリア・バリューということを書いたけれど、言うは容易く行うは難し、なのだ。知的障害者でビジネスを立ち上げるとか、途方もなく困難な取り組みでしかない。

知的障害者の教育、更生に半生を捧げ、彼らの経済的、精神的自立のためにぶどうやしいたけ栽培に奮闘し、ワインづくりに挑み、日本でも有数のワイナリーに育て上げた川田昇(p.11)

その困難過ぎる取り組みに人生をかけたのが、川田昇さんだ。私がこころみ学園に行った時点では、すでにお亡くなりになっていた。残念だ。その娘さんが意思を引き継いで運営されている。

読み書きや算数を教え込む以前に、働くこと、それによって自立して生きることを教えなければ、知的障害をもつ子どもたちに未来はない。川田は子どもたちに持論をいい聞かせた。(p.41)

山を切り開き、しいたけを栽培したり、果物を育てる。こう書くと簡単に思えるが、とてつもなく大変な肉体労働の連続だ。夏は暑く、冬は凍えるほど寒い。栃木県足利市の本当に山の中で、自然と対峙し、生活する。

実際に切り拓いた斜面を見たが、とんでもなく急な坂道だ。木を切り倒し、切り株を抜き、大きな石を動かし、畑を作っていく。

楽で”ゆとり”のある教育や仕事をしていると、自分からそれを主体的にやろうという構えができない。逆に、やってもやっても終わらないほど仕事がある状態になると、自分でどうすればいいか考え、工夫するようになる。(p.38)

清潔で最新鋭で近代的な施設ではない。体を酷使し、いつまで経っても終わりの見えない畑仕事を知的障害者が朝から晩まで働く。これを繰り返して、今のこころみ学園が存在するのだ。

川田はいう。仕事というのは、小手先の技術を学ぶことではなく、それを通して生き方を学ぶことだと。自ら懸命になって取り組み、ものごとをおろそかにしないことを身につけることだと。だからこそ、仕事に対して真摯であれと、川田は職員にいい続ける。(p.117)

ここの職員は泊まり込みだ。というより集団生活をしている。ヒアリングしたところ150人いるとのこと。知的障害者しかもわりと重度な方ばかりが150人も生活しているのだ。仕事だけではない。毎日の掃除、洗濯、食事、風呂。そういった日常をきちんと継続するために、職員も園生も一つの家族になって生活している。

このこころみ学園ではワイン用のブドウを生産している。10万房もあるブドウの一つ一つに透明なプラスチックの傘をつけ、ダメになった実を一つ一つ手作業で取り除く。機械化できないが、健常者ならできないような単純作業も知的障害者なら黙々とこなすことができる。こうして質の高いブドウが作られる。

ワインを生産しているのは、隣接するココ・ワイナリーだ。別会社ではあるが、歴史的経緯でそうしただけであって、基本的には同じグループに属している。ワイン工場は近代的で、ワイン造りに優れた外国人が長く携わっている。

知的障害者施設からサミットで振る舞われるワインが生み出されるのはまさに奇蹟としか言いようがない。こんな施設が日本にあることを知り、驚いたと同時に、奮い立つ気持ちにもなった。

一人の人間の情熱が思いが、多くの人を巻き込み、実現する。こういう事例はたくさんある。小さな一歩を踏み出すことが、社会を変える一歩になる。

現地でワインを飲ませていただいた。前情報があったからかもしれないが、驚くほどピュアでありながらきちんとテロワール感じさせるワインだった。当然、購入。本当なら11月の収穫祭に行ってみたい。でも今年は日程的に厳しいかなぁ。

世の中には問題がたくさんある。でも、それは解決することができる。そして、解決するのは、困難な道に無謀な一歩を踏み出す行動なのだ。

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(感想文の感想など)

この本の影響を受けて、この時から新しいプロジェクトを自ら立ち上げ、スタートしたのだった。残念ながら芳しい成果を挙げたというわけではないけれど。

それでも行動して良かったと強く感じている。言うは易く行うは難し、だ。

感想文14-43:移植医療

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※2014年9月4日のYahoo!ブログを再掲

 

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先進国で圧倒的に足りていないもの、大きな超過需要となっているものの一つが臓器だ。移植医療という技術は古くからあるが、臓器が足りないからこそ、様々な問題を起こしている。

足りない臓器をどうやって集めるか。生きている人(生体移植)、病気の人(病気腎移植)、亡くなりそうな人(脳死移植)、亡くなった人(心臓死移植)。そして、究極的には臓器を作り出す技術(再生医療)が期待されている。

本書は、多様で複雑な問題を抱えている移植医療を丁寧に解剖し、分析し、整理している。移植医療の解剖図といっても良い。新書なのでコンパクトであるが、読み応えのある一冊だ。

気になる点を挙げておこう。

4割に及ぶ不自然死からの脳死下臓器提供で、死因究明が適切に行われていたか、その結果どのような亡くなり方をしたと判断されたかが完全に明らかにされていない現状は、問題といわざるをえない。

死因不明社会(感想文08-15)にあるように『日本の解剖率はわずか2%』だ。なぜ亡くなったのか日本ではほとんど分かっていない。同様になぜ脳死になったのかも、臓器提供が行われたにも関わらず、分かっていない。

いま海外で進められている心停止後臓器移植とは、自然な経緯をたどっての死亡ではない。(中略)延命治療の中止による心停止、つまり「消極的安楽死」させた人からの臓器提供なのである。

消極的安楽死からの臓器提供が海外で進められているとのこと。オランダやベルギーなどでは消極的安楽死が法的に認められている。延命治療を拒否し、亡くなったら臓器を提供しますと同意する。これは美談に聞こえそうだけれど、果たしてどうなのだろうか。

東京腎臓売買事件は、A医師夫妻が前後二度にわたって暴力団関係者にドナー探しを以来し、ドナーの引き受け手と虚偽の養子縁組をした二つの事件からなっている。

ウィキペディアでは『生体腎移植臓器売買仲介事件』として掲載されている。臓器も市場に流通しうる財であり、その流通を禁止すると、こういった暴力団が入り込む余地を生み出してしまう。だからといって、売買を解禁することが望ましいという声ももちろん経済学者からはあるけれど、なかなかすんなりと納得できるということでもない。

脳死者からの膵臓の摘出と移植は移植法の規制を受けるが、膵島は臓器でなく組織で、移植法の対象ではないとされ、公的な規制を受けない。だが実際には、膵島でも提供者の膵臓を全部取り出してから移植に用いるのだから、法の対象外となるのはおかしい。

この点も重要だ。臓器のフレーム問題と言える。どこまでが法の対象となる臓器なのか。その境界線にあるものの一つが、膵島細胞のようだ。法と実態がフィットしない。フレーム問題は技術の進展によっても発生するだろう。

一連のSTAP細胞騒動の背景には、再生医療実現への期待が、研究界だけでなく、政財界まで含め一般社会全体であまりにも過剰になっていうることがあるだろう。研究者が成果を出すことを焦るあまり不正を行うのは、もちろん許されない。だが、悪者を懲らしめて終わらせるのではなく、過熱ぶりを冷ます反省材料にもしてほしいものである。

まだまだ終わりの見えないSTAP騒動。持ち上げて叩き落とすという何度も見てきたマスコミの手法。この手法は情報を売るために効果的で、要するに他人の不幸は最高のエンタテイメントであり蜜の味なのだ。再生医療生命科学についてはまた別の感想文で考えてみたいが、本書にある冷静な主張は、例外的で、これを読んで少し救われた気がした。

研究者や研究機関が、経済成長の国策に沿った成果を求められ、特許の出願など経済的利益の確保に心をわずらわされて、研究の筋道や内容をおろそかにし、不正まで見逃すようになっては、本末転倒もはなはだしい。

これも真っ当な指摘だと思う。今の大学や研究機関はイノベーションの大号令の下で動いている。特許出願が研究助成金獲得の条件になっている場合もある。

とはいえ、アカデミック・キャピタリズムを超えて(感想文10-68)にあるように科学は清廉潔白でなく、結局はどこからカネを引っ張ってくるかという問題がついて回る。

よって、パトロンの意向には逆らえない。科学は美しい世界に見えるのかもしれないが、実態は決してそうではない。

本書は、法律や倫理という観点から描かれている。それはクリアで良いのだけれど、マーケットデザインによる臓器マッチングといった経済学の視点からの取り組みといったことについても取り上げて欲しいなと思った。

臓器不足を解決するのは、科学や技術だけではない。規制の枠組みを変えたとしても、新しい技術によって機能不全を起こすこともある。移植医療が様々な問題を引き起こすのは、臓器が足りないからだ。最先端科学によってストレートに解決するまでに時間がかかる。不足を少しでもマイルドにする多くの知恵にも私は期待している。

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(感想文の感想など)

日本臓器移植ネットワークによると、国内では約1万4千人が移植を待つが、実現は年間2%とのこと。圧倒的に超過需要なのは変わっていない。

出生前診断について

※2012年10月末(日付不明)のYahoo!ブログを再掲

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久しぶりに読書感想文以外のことについて書きます。

NHKスペシャルとして2012年9月16日に放映された出生前診断 そのとき夫婦はを見た人も結構いると思います。

出生前診断それ自体は決して新しい技術というわけでもないのですが、米Sequenom社が次世代シーケンサーを用いて、妊婦の血液に含まれる胎児の微量のDNAを解析し、99%の精度でダウン症を判定できる技術が開発されるなど、技術革新があり、正確性の高い技術として脚光を浴びつつあるという背景があります。

しかしながら、技術によって胎児に異常があるかどうかは判別してくれますが、最終的な判断、つまり、産むか堕ろすかの判断は夫婦に委ねられます。その時点でものすごく苦しむわけです。

これは重いなと、全く他人事でなくテレビを見てました。テレビでは産む方を選びましたが(そりゃ堕ろす方を選んだ方はテレビに出てくれるわけはない)、その選択が正しかったのかはずっと悩むことでしょう。

イギリスの事例も紹介されており、やや扇動的に出生前診断による中絶割合が92%である点を報道する記事(こうのとり追って:出生前診断・英国編 妊婦の選ぶ権利尊重, 毎日新聞, 2012年09月06日)もありましたが、実際にイギリスの報告書では統計をとった1989年からずーっと9割を維持しています。この事例はダウン症に関連する検査についてです。

興味深いのは出生したダウン症児が増加しているということです。理由は分かりませんが、日本と同様に出産年齢が高くなっているためかもしれません。決して産む選択をする親が増えているというわけではありません。

日本ではこういった統計がありません。きっとあるのかも知れませんが、ウェブ上に公表はされていません。統計がないのは、出生前診断について色々と考える素地がないことを意味していて、そのためにどうしても感情的な議論になってしまいがちなのではいでしょうか。

既に指摘されていることですが、出生前診断に対する非難は欧米と日本では異なります。欧米ではキリスト教を背景とした中絶それ自体を悪とする非難です。他方で日本ではそもそも中絶はほぼ合法状態なので、中絶は必要悪だけれど、胎児に異常があるという理由で中絶するのは間違っているという非難です。

要するに、欧米では中絶問題であり非難する主体はプロライフ団体で、日本では障害者問題であり非難する主体は障害者団体です。

ということで、夫婦がまさしく自分たちの問題として思い悩んでいる背景には、日本の障害者問題があるということになります。ところがここではたと困ってしまいます。ぼくは障害者問題について全く知らない、っていうかほとんど関心がなかったことに気づきました。

障害者問題が、ぼくたちが直面するかもしれない問題という認識がないばかりか、子どもを作る前からちゃんと把握しておかないといけないという当たり前といえば当たり前のことに気付かされたのです。

長くなりましたが、これは次に載せる障害者の経済学(感想文12-68)の前置きに相当します。障害者について考えることが非常に大事なのに、そのことにようやく気付かされたということを伝えておきます。

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(自分が過去に書いた文章への感想など)

私の中で障害者問題は、私が考えるべき重要課題の一つに位置づけられている。

先日、ダイアログ・イン・サイレンスというイベントに参加する機会があった。聴覚障害者と過ごす90分間は、自分がいかに聴覚に頼っているかを思い知らされるとともに、音を出せない状況下で、しかも顔の下半分がマスクで見えない状態だと、目や眉毛や眉間の動きがコミュニケーションの鍵になり、そしてそれを自在に動かすのがいかに難しいかを思い知らされた。