40代ロスジェネの明るいブログ

2020年1月11日からリスタート

感想文09-56:史的システムとしての資本主義

 

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※2009年9月11日のYahoo!ブログを再掲。

 

 

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ぼくの理解力が乏しいため長いです。読む人はご注意を。

砂糖の世界史(感想文09-52)の著者である川北稔さんの翻訳。川北さんの本が面白かったので、他に本を書いていないかなと思い、辿り着いた本書。

著者であるイマニュエル・ウォーラーステインのことは、本書を通じて初めて知った。
感想は、スゴイの一言。色々と考えさせられた。

本書は1985年が初版。4半世紀近く前の本であるが、新鮮であり、少しも色褪せていない。今、ぼくたちが仕事で苦しんでいるその理由を見事に言い当てているかのように思える。

本書の原題は、Historical Capitalismで、なかなか日本語に直しにくい。英語だと絶妙な表現に思えるんだけども。

さて、本書を引用しつつ、整理してみたい。

資本主義というものは、(中略)「自然な」システムなどではまったくない。(中略)ひとはより多くの資本蓄積を行うために、資本を蓄積する。

資本主義とは、資本蓄積だけが目的であり、しかも自然に生み出されたシステムではないのだ。これは納得できる。ふむふむ。

政治とはラフな言い方をすれば、権力関係を自己の利益につながる方向に変えようとする行為であり、そうすることで、社会的諸過程にも新たな方向づけをすることである。

国家機構こそは、史的システムとしての資本主義が生み出したもっとも重要な制度のひとつなのである。(中略)国家権力の掌握ないし必要とあればその強奪こそが、(中略)もっとも重要な戦略目標とみなされてきたのも決して偶然ではない。

資本を蓄積したかったら、国家権力を掌握しろ!とな。いや、順序が逆で、むしろ、史的資本主義が国家機構を生み出したのだ。

国家というものは、ひとつのインターステイト・システムの不可欠な一部として発展し、形づくられたものである。インターステイト・システムとは、諸国家がそれに沿って動かざるをえない一連のルールであり、諸国家が生きのびてゆくのに不可欠な合法化の論拠を与えるものである。

インターステイト・システムは、(中略)しかるべき強国の意志と能力によって、強制された。(中略)インターステイト・システムをひとつの世界帝国に変えてしまうような方向に作用した

そして国家はそれ自体で存続しているのではない。たくさんある国家がそれぞれの思惑(といっても資本をより多く蓄積すること)に基づき、構築されたシステムに属することになる。しかも、強い単一の国家が強制するシステムへと変容し、いつしかヒエラルキーまでできてしまう。

真理こそが民衆にとっても、知識人にとっても、本物のアヘンであった

学校教育では、真理の探究なるものは、実際には合理化、つまり利己的な自己正当化の行為であるにもかかわらず、公平無私な徳であるかのように教え込まれてきた。

真理の探究こそは進歩の基礎であり、(中略)不平等な階層社会とは多くの点で相容れないものだ、と主張されてきた。

真理はアヘン。そうかもしれない。いや間違いない。真理探究は、合理化であり、利己的な自己正当化の行為であるというのは、強烈な皮肉だ。真理探究は、善であり進歩の基礎というのは、大きな誤解であり、これも資本主義が生み出した幻想である。

普遍主義というのは、一種の認識論のことである。(中略)普遍主義の基本は、(中略)とにかく世界にかんして普遍的かつ恒久的に正しい、何か意味のある一般論ができるという信念にある。さらに言えば、すべてのいわゆる主観的な要素を―つまりすべての歴史的に制約された要素を―排除したかたちで、一般的公式を追い求めるのが科学の目的とする立場である。

真理とは、普遍的かつ恒久的に正しい「何か」だ。主観を全て排除し、精製し、漂白した先にある真理探究こそが、科学の目的だ。

普遍主義への心棒こそは、史的システムとしての資本主義が組み上げたイデオロギーのアーチの頂点に置かれた要の石であった。普遍主義は一種の認識論であると同時に、ひとつの信仰でもあった。

うーん、ガツンとくる。普遍主義は信仰である。やはりアヘンに行き着く。科学は真理探究を善とし、最終目標と位置づけている。しかし、これは資本主義のイデオロギーなのだ。科学は完全に資本主義に組み込まれている。いや、資本主義が生み出した一つの信仰なのだ。

ぼくは(これまでのブログを読んだ奇特な方には分かるように)無邪気に科学を信仰していた。ガリレオのように宗教と対立し、宗教を駆逐し、構築されたのが科学というのは、イデオロギーだった。科学が信仰ということで思い出すのが、人間は進歩してきたのかだ。

それによると、ニーチェは、サイエンスも価値判断をできる限り排除し、事実のみの羅列しようとしたということで、ニヒリズムの一種と位置づけた。

キリスト教が崩壊し、価値が喪失し、ニヒリズム状態になったというのが、ニーチェの主張とされており、現代はそこから脱却することはできていない。

史的資本主義は、ニヒリズムを強化したのか。あるいは、ニヒリズムは史的資本主義が生み出したイデオロギーでしかないのか。はたまた、こういう問いかけ自体が意味をなさないほど、両者は同一、あるいは、互いに独立しているのか。うーん・・・。

史的システムとしての資本主義は、(中略)差別のためのイデオロギー装置を発展させた。すなわち、今日のいうところの性差別と人種差別にかんするイデオロギーの枠組みが成立したのである。

これは分かる。差別もイデオロギーなんだ。四半世紀前は性差別だったかも知れないけれど、さらに深刻になり、仕事の不出来あるいは処理能力で人格が否定されたり、肯定されたりする。成果主義というのも、史的資本主義が生み出したイデオロギーだ。資本蓄積に成果主義は効率的だからだ。

近代世界と結びつき、その頂点を飾っている思想をひとつあげるとすれば、それは進歩の思想ということになろう。

ぼくたちは進歩していると信じたい。ところがそれは疑うべき思想だ。その指摘は本書だけではない。でも進歩を疑うのは、難しい。進歩を嗜好するように頭ができているんじゃないかというくらい。

Biological Capitalism(生物学的資本主義)という言葉が浮かんだ。ところが、こういう整理、つまり生物学的に資本主義に順応するようにヒトが作られているという発想は危険かも知れない。自分の遺伝子をより多く残すために、資本主義を構築したという発想も同じくらい愚かかも知れない。

ヒトとは何なのだろうか。価値を壊し、進歩を信じ、真理を探究し、資本を蓄積する。
頭から煙が出てきた。慣れない思考をするもんじゃないね。

訳者あとがきからちょっと引用したい。賢い人に助けてもらおう。

労働者階級がブルジョワジーを打倒する「プロレタリア革命」などというものを想定するのは、一種の幻想である。システムの「移行」はここでも、むしろブルジョワ自身の自己変身によっておこる可能性が強い。これが著者の見通しである。

直接生産者の搾取を前提としてあくなき資本蓄積をはかるものである以上、革命政権も「社会主義」政権も、「世界経済」の半辺境ないし、辺境に位置する国家機構として、そうした作用をもたざるをえないのである。問題の根は、個々の国家機構ではなく、「世界システム」そのものにあるのだ。

いくら単一の国家が社会主義政権を作り上げたとしても、世界システムが史的資本主義である以上、すぐに辺境に追いやられてしまう。そして、いずれ新しいシステムに移行するが、それは決して進歩でないし、より良い未来が待っているというわけではない。

ぎゃあ、長い。まとめきれない。

さいごに勝手に本書を要約したい。

資本主義は資本蓄積だけを目的としている。ぼく(たち)が無邪気に信仰している科学や、信じている進歩は、イデオロギーであって、資本主義が生み出した、資本をより蓄積するための道具に過ぎない。

しかし、資本主義はいつか終焉を迎え、新しい社会(世界)システムが構築される。けれど、現状より良くなるというわけではない。

頭をよぎったのは、地球温暖化問題について。気がつけばいつしか炭素が取引されるようになっている。炭素が他国の資本の蓄積を抑制したり、奪ったりすることの口実となっている。おそらく自然を大事にしようという素朴な気持ちから始まったのに、エコはイデオロギーへと変貌してしまった。四半世紀前にはなかったイデオロギーだ。

ぼくが生きている間に資本主義は次のシステムへと移行するかも知れない。ぼくたちは親の世代、祖父の世代よりも幸福に暮らしていると信じている節が、眉唾なのだろう。

そして子どもがぼくたちより幸福な生活を送れるかというと、それもかなり怪しい。

だんだん悲しいまとめになってきたけれど、より良い社会システムを築き上げるようには、徹底して物事を疑い、批判的に吟味し、考え続けていくしかないのだろう。

ウォーラーステインさんの本は、大変面白かったし、素晴らしかった。カラカラに心が乾いたけれど・・・。最近の著作も読んでみたいなぁ。

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(感想文の感想など)

改めてウォーラーステインさんの著作を読み直してみたい。内容が難しいので、感想文も難しい。若い頃の私は苦労して文章を書いていたのだし、その苦労を厭わない体力があった。

今はどうだろう。難しい本を読む気力は残されているだろうか。