40代ロスジェネの明るいブログ

2020年1月11日からリスタート

感想文11-48:科学的とはどういう意味か

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※2011年12月9日のYahoo!ブログを再掲。

 

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大学生時代にハマった作家の一人である森博嗣さんによる新書。建築学の大学教員であったことから、日々、科学と向き合ってきた著者ならではの一冊。

最近長らく森さんの小説を読んでなかったと思ったら、

研究者と小説家を10年ほど両立させてきたけれど、今は研究者も小説家もどちらも一線を退いている。隠居に近い立場になったのは、47歳のときだ。

とのこと。47歳で隠居生活。羨ましいというか何というか。小説家からも一線を引いているということで、昔ほど多作ではなくなったのかもしれない。

本書が書かれた背景には東日本大震災原発問題がある。森さんなりの視点が面白い。

悲観的なものから楽観的なものまで幅はあるにしても、特に国内における情報の多くが、「涙と人情」に流された感動ドラマを作ることに終始(後略) 

ドライで怜悧な森さんからすると、どうしてもそう見えてしまうのかなとも思う。がんばろう日本とかたちあがれ日本とかpray for Japanとかそんなのばっかりでちょっと飽き飽きしている。

津波という名称ではなく、「超高潮」と名づけていたら、人々のイメージはまた違ったものになっただろう。 

津波は波でない。この本を読んで最も納得した部分だ。頭の中で再現できる津波の映像が、この本を読んでから、そして超高潮という名称を伴ってから、大きく変貌した。名称の正確さは非常に大事だという一例だろう。

さて、本書の核である「科学」について、著者はこう記している。

答をごく簡単にいえば、科学とは「誰にでも再現できるもの」である。また、この誰にでも再現できるというステップを踏むシステムこそが「科学的」という意味だ。

ふーむ。大学院生時代に、教授から「科学って何やと思う(関西弁)」って聞かれたことがある。そして、教授は「Reproducibility(再現性)や」と言った。その時はそうかと思ったし、森さんも同じことを言っている。

科学を生業にする方にとっては、再現性は科学かどうかのポイントになるだろう。ただ、技術的に高度過ぎて再現できないこともあるし、世界に一つしかない機械だから他でも同じように再現できないってことはままある。

それはさておき、科学についてぼくの考え(別に聞きたくないでしょうけれど)はちょっと違う。真理があると信じてそれを探求する活動が科学って言えると思っている。真理探究がアヘンで、資本主義から生まれたイデオロギーだというのが、ウォーラーステインの言説になるけれど、それは脇に置いておこう。

再現性は確かに科学的といえる要素だけれど、ちょっと表層的に思える。きっと意図的だろうけれど。科学とエセ科学の境界はグレイなところは必ずある。再現性という線引きは科学を狭くしてしまうけれど、そうでもしないと原発による科学不信で科学を守れない状況に陥っているのかも知れない。

印象に残ったことを書いておこう。

難しいのは、問題を見つける方だ。何が問題なのかを発見することこそ、一番重要な仕事であり、それこそ人間の能力が問われる。 

問題を解くことに注力した教育のためか、何が問題なのかを探す場面が貴重かもしれない。批判や非難でなく、課題を探すこと。課題解決型の科学が必要な時代なのかな。

数字をよく認識し、法則性を見出し、そして、自分だけの判断ではなく、他者とのコミュニケーションを精確に取り、その中で一つずつみんなで確かめながら、正しい情報を選択するという基本的な仕組みを教えなければならない。抽象的だが、それが科学教育だと思う。 

これにはしっかりと同意する。数字を認識することが大事だけれど、数字は一人歩きもする。そして、単位も大事。ミリとマイクロの違いも分からない人が存外多い。情報がたくさんあるからこそ、時間をかけてでも正しい選択を探す。科学的思考法が科学不信を克服することになるかもっていうのは、皮肉な感じがする。

さいごに

本書は、3日間、計12時間で執筆 

とある。マジで!?森さんの最大の能力は速筆ってことかも。時給換算するといい商売だね、きっと。

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(感想文の感想など)

そういえば、ちょっと言及しているイマニュエル・ウォーラーステインさんは、2019年8月31日に亡くなっている。

日本ではあんまり知られていないような気がする、ウォーラーステインさんについては、改めてまとめてみたいな。こういうちゃっちいブログでも日本語で残しておくことに、意義はあると信じたいので。