40代ロスジェネの明るいブログ

2020年1月11日からリスタート

感想文12-78:それをお金で買いますか

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※2012年12月10日のYahoo!ブログを再掲。

 

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これからの「正義」の話をしよう(感想文10-67)で有名になったマイケル・サンデルさんのご本。今回は、お金で買うことの倫理問題がテーマになっている。

最近、ぼくは、経済学を勉強した(勉強させられた)せいで、すっかり市場主義者気取りになっている。経済学者は、一般的な直感に反して、臓器も売春も麻薬も禁止するとさらに酷いことになると指摘している。なぜなら禁止するとアンダーグラウンドに入り、ヤクザの資金源になり、値段は上がり、質は下がる。臓器売買を禁止すると助かる人が助からなくなり、売春を禁止すると質が下がり病気が蔓延し、麻薬を禁止すると麻薬欲しさに強盗を働く。

さて、本書では、超過需要により生じる行列、中絶、汚染許可証、絶滅危惧種へのハンティング、生命保険。経済学の教科書がよく話題として挙げているテーマについて、本当に市場経済に任せることに意味があるのかを説いている。いつしか、市場主義に染まっていたぼくにぴしゃりと気持よく冷水を浴びせてくれた。

ということで気になる箇所を挙げておこう。

こんにち、売買の論理はもはや物的財貨だけに当てはまるものではなく、いよいよ生活全体を支配するようになっている。そろそろ、こんな生き方がしたいかどうかを問うべき時がきているのだ。

毎日のようにぼくたちは売買をしている。物を買う。これは当たり前のことで、本当にあらゆるものに値段が付され、細分化され、選ぶことができる。そしてワンクリックで売買が成立する。これはこれで非常に便利なのだけれど、え?こんなものまでお金で買えるのということがある。特にアメリカはぶっ飛んでいる。

現代の政治に欠けている重大な議論は、市場の役割と範囲にかかわるものだ。われわれが望んでいるのは市場経済だろうか、それとも市場社会だろうか。公共生活や人間関係において市場が果たすべき役割は何だろうか。売買されるべきものと、市場的価値によって律せられるべきものを区別するには、どうすればいいだろうか。お金の力がおよぶべきでない場所はどこだろうか。

非常に深遠な問いかけで、この問いかけは決してなくなることはないだろう。他方で、お金で買えない物は、どうやったら手に入れることができるのだろう。

お金はある意味で平等に思える。お金があるから買える、無いから買えない。でも、例えば身分制度があって、異なる身分間での売買ができないというシステムがあるとしたら、不平等に感じるだろう。お金の多寡は、個人の能力だけでなく、生まれた家が裕福かそうでないかも関わってくる。お金を持っているかどうかは、すでに不平等にも思える。それでもお金以上に平等なシステムも思いつかないんだけれど。。。

経済学は価値判断をしない学問であり、道徳哲学とも政治哲学とも無関係だという考え方は、つねに疑問視されてきた。(中略)市場の範囲が生活の非市場的領域に広がれば広がるほど、市場はますます道徳的問題にかかわるようになるのだ。

経済学は全体の余剰が増えるかどうかについて判断するツールだ。確かに、道徳哲学や政治哲学とは無関係であろう。しかし、経済学により導き出された結果を実社会に導入すると、結果的にそこにいる人々の考え方に影響を与えてしまうことがあるのかもしれない。そういう意味で、無関係とは言い難い。

権力や富の不正な格差がない社会であっても、お金で買うべきでない事物が存在する。それは、市場が単なる仕組みではないからだ。市場は一定の価値を体現している。ときとして市場価値は、大切にすべき非市場的規範を締め出してしまうことがあるのだ。

市場は一定の価値を体現している。まさしくそうだと思う。市場は人間の欲望を集約したものであり、欲望はそれぞれが様々な財・サービスに価値付けしたものに他ならないからだ。経済学は規範を導き出すことがあるが、この規範は既存の規範を排除することになりかねない。

非市場的な状況にお金を導入すると、人々の態度が変わり、道徳的・市民的責任が締め出されかねないということだ。

これが本書のキモだろう。市場でないことを望む状況に、市場経済を持ち込むと、道徳性が失われてしまう。さあ、だんだん難しくなってきた。

市場の効率性を増すこと自体は美徳ではないということだ。

やや言葉が足りないようにも思う。市場の効率性を増すことを美徳と考える人もいるだろう。必ずしも美徳ではないとは思う。そういうことを望んでいない人もいるのだから。でも、往々にしてそういう人は、既得権益を持っている人であることが多い。道徳とかそういうことではなく、市場の効率性が増すと損をする人がいるからだ。

結局のところ市場の問題は、実はわれわれがいかにしてともに生きたいかという問題なのだ。われわれが望むのは、何でも売り物にされる社会だろうか。それとも、市場が称えずお金では買えない道徳的・市民的善というものがあるのだろうか。

お金では買えない道徳的・市民的善とは何だろうか。お互いが売りたいし、買いたいと思えば問題がないと言ってしまって良いのだろうか。現代社会において、サンデルさんの主張は酷くナイーブに映る。臓器売買が解禁されると、臓器、さらには人に対する態度が変わってしまうのだろうか。

どうしても違和感が拭えないのは、経済学が基本的なスタンスといまいちフィットしていないということ。ぼくの知りうる限りではあるけれど、経済学は確かにインセンティブの問題にまで広がってはいるけれど、政府がどこまで介入するかという指標を示しているのが基本だと思う。

何でも本当に市場に任せてしまっても良いの?という疑問について皆がイエスとは言わない。でもかといって政府が規制するとより一層、酷いことになってしまうというのが、経済学が示す含意だ。直観と相容れないかもしれないけれど、臓器売買の自由化は、アンダーグラウンドでの臓器摘出がなくなり、安全な移植医療が進展することになる。

サンデルさんは、そこに別の角度から切り込んでいて、腎臓に値段がつくと、人体への道徳的価値とか尊厳といったものが腐敗すると指摘している。でも、ぼくには答えは分からない。臓器売買なんて本当は正しいことではないと心のどこかでは思う。でも臓器売買を禁止すると、より一層酷いことになってしまうという指摘にも首肯する。でもこのことが、売買を正当化させる理由となりうるかどうかについては確かに議論があるだろう。でもやっぱりこういう考えは、どうもナイーブ過ぎる。

ナイーブというのは、倫理の問題は、実際に苦しんでいる透析患者や腎臓を1つ売りたいという貧困者を前にして、あまりに弱々しく感じるからだ。二人の間に例え金銭の授受があったとしても、それぞれがそれでハッピーになるんだったら何が悪い、という主張は力強い。関係のない人間が、いやいやそういうことをすると「人体への道徳的価値とか尊厳といったものが腐敗するんだよ」と訳知り顔で諭すことができるのだろうか。

やっぱり答えは出そうにない。ぼくにとっては、こういう倫理的な問題よりも経済学的な考え方の方がフィットする。でも経済学の方が正しいというのとは全く違う。

はえい、アメリカはどうも極端な国に思える。その極端さが、普通の人なら躊躇する分野に新しいビジネスを開拓する。だからこそ、起きる問題も極端で新奇で、最先端っぽく映る。だからこそ、様々な学問が発展するんだろう。

いつもお世話になっている経済学のマンキュー先生とサンデル先生が同じ大学にいるってことがすごいなぁ。話が噛み合うのかなぁ…。

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(感想文の感想など)

最近では、人体の尊厳といったナイーブな理由ではなく、気候変動とか環境汚染といった差し迫った理由で現代の資本主義を問い直すようになってきた。

結果的に影響を被る若い世代と逃げ切ってしまう高齢者世代で、分断が起きつつある。

地球が滅びるのは、環境問題のためではなく、環境問題によって生じた分断による大規模な紛争のため、じゃないかな。