40代ロスジェネの明るいブログ

2020年1月11日からリスタート

感想文13-03:人体部品ビジネス―「臓器」商品化時代の現実

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※2013年1月28日のYahoo!ブログを再掲。

 

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授業で臓器移植についてレポートを書き、経済学の観点から臓器売買禁止の撤廃を結論として示したけれど、本当にそれでいいのか逡巡している。サンデルさんのそれをお金で買いますか(感想文12-78)を読んだせいもあって、イマイチすっきりしない。お互いが売りたいし、買いたいと思えば問題がないと言ってしまっていけないのだろうか、というナイーブな問題。なぜダメと言えるのかはどうもはっきりしないが、臓器とか性とかを自由に売買する世の中が本当に良いのかよく分からない。

本書は1999年に出版されていて、結構古い。でも今よりもずっと臓器移植や臓器売買について真剣に社会で考えていたように思う。ちょうどホットなトピックになっていた頃で、今は真剣に考えていないというよりも、考えるのに疲れたという感じ。解消できないナイーブな問題は微熱がずっと続いている。

本書から気になった箇所を抜き出してみよう。

「テクノロジー、とりわけ医療テクノロジーが人体を資源化し、市場経済がそれを商品化する」という構図が見られる。(中略)本書は、(中略)人体の改造と利用のうち、とくに「人体の利用」について述べるものである。また、人体の利用から派生する現象である「人体の商品化」についても述べている。

人体の商品化が本書のテーマ。人は昔から欲しがっていた。臓器を。テクノロジーの進展によって、臓器を抜き出すことが可能となった。それで市場ができた。それでもまだそんなに市場になってから時間は経っていない。だからこそ、本当に臓器や人体の一部を売り買いしても良いのかどうか落ち着かない。

(インドでは)臓器の売買は、いわばビッグビジネスになっていた。統計資料はないが、諸種の調査結果から推計して、数千例から数万例に達するものと思われる。

へぇ。そんなにも!数万もの臓器が売買されていればそれはもう立派な市場だろう。

私は、調査中、個々のドナー、レシピエント、医師らを倫理的に非難する気持ちをもったことは一度もなかった。ブローカーに対してでさえもそうである。果たして、「何か、誰か」が悪いのだろうか。もし何かが、誰かが悪いのなら、それは何なのか。誰なのか。ありきたりの、おざなりの答えだが、それはインドの政府、経済および社会構造そのものではないだろうか。

ふむふむ。経済と社会構造そのものが悪い。経済学の基本は、取引をするとハッピーになるということだ。臓器を取引すると果たしてハッピーになれるのだろうか。

私は、「移植は善、売買は悪」は一種のドグマではないかと思っている。臓器移植が無条件の善であるとは必ずしもいえないと思う。そして、臓器売買が無条件の悪であるともいえないのではなかろうか。

これはかなり踏み込んだ意見だ。臓器移植にも悪があると。臓器売買がすべて悪ではないと。

人類は文化という形で野蛮さを隠している。文化が本質を隠蔽する。すなわち、文化は本質の隠蔽装置である。

文化は本質の隠蔽装置というのは、なるほどと感じる。不倫は文化だと誰かが言ったけれど、不倫の本質である身勝手さをまさに隠蔽しようと画策している感がある。あんまりいい例じゃないか。文化という言葉についてもっと懐疑的になった方が良いのかもしれない。

医学や生命科学が「道徳コスト」をゼロと計算し、その結果、「道徳」破壊が起きつつあるということを自覚しなければならないだろう。

本書は、サンデルさんの考えと親和性がある。道徳コストという考え方はまさにそうかもしれない。しかし、道徳破壊が本当に起きているかというと、疑問がある。1999年当時から10年以上経つけれど、果たして道徳は破壊されたのだろうか。

先ほどの文章の前には、『経済学が環境コストをゼロと計算し、その結果、環境破壊が起きた』とあり、それと同列に道徳コストについて説明している。しかし、経済学は環境コストは負の外部性として捕捉し、内部化することによって解決している。とはいえ、これは環境破壊を解消するものではない。たとえ環境が破壊されたとしても、そのコストに見合う効用があれば、環境破壊は正当化されうる。

そして、道徳コストと環境コストの違いは、それを価格で換算できない点ではないだろうか。環境コストも価格に換算することは難しいだろうが、道徳コストはさらに難しいだろう。道徳という考え方そのものを果たして万人が共通に認識できているかどうかすらあやしい。しかし、このことは道徳コストは換算できないから無視して良いということではない。

すでに臓器移植は一般化しており、提供したり、提供を受けた人は珍しくないだろう。それでも臓器移植はやはりおどろおどろしく、提供と授受の間に金銭が介在しているとすれば、どうしても気持ち悪さは払拭できない。しかし、腎臓を例え金銭で買えるようになったからといって、道徳がすぐに破壊されてしまうというわけではないだろう。

そして、随分昔には奴隷制度があり、その頃は今の感覚でいえば、道徳的に破壊されていたのかもしれない。でも今では多くの人が奴隷制度は間違っていると感じるだろう。これが道徳性が復活したのか、教条的に身につけられたものなのかは分からない。

サンデルさんと同様に道徳コストや腐敗という考えは直感的には理解できるが、実証できないという点でぼくはどうしても賛同できない。人体の商品化は進んでいるのかもしれない。商品としての人体を購入する人間は、本来なら持っているはずの道徳性を摩耗してしまうのかもしれない。

でも本当にそうか?臓器移植であれば、自らの身体に取り込み、残りの人生を一緒に過ごす身体の一部とするのだ。金銭で買ったら、市場が形成されたら、変わってしまうのだろうか。

今年度は臓器移植と臓器売買について色々と考える機会があった。あえて、結論めいたことを書くと、臓器売買の禁止には反対する。しかし、臓器移植そのものはできるだけ行わないで済むように、普段から節制して生きることを心がけたい。臓器は希少で、需要超過の状態である。移植を受けずに済む方が安上がりなのだから。

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(感想文の感想など)

我ながら良いこと書いているなぁ。医学、倫理学、経済学を学んだからこそ、書ける内容。

最近は、臓器のことを考えてないなぁ。今の仕事に関係ないしなぁ。