40代ロスジェネの明るいブログ

2020年1月11日からリスタート

感想文13-39:日本の難題をかたづけよう

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※2013年7月2日のYahoo!ブログを再掲。

 

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本書の副題に、「経済、政治、教育、社会保障、エネルギー」と示されているように日本(に限らないけれど)にはたくさんの難題がある。

難題を目の前にした時、非専門家のコメンテーターは、「的はずれな一点突破」を好みます。(中略)当事者ニーズも実効性も無視した議論はあふれています。そんな中、俗説を丹念に仕分けし、方法論にこだわるのではなく実態の把握と効果にあくまでもこだわる(後略)

難題の難題たる所以は、その解決方法がなかなか見つからないということよりも、こうしたら良いんじゃないかと簡単に非専門家が指摘しちゃうことにあるのかもしれない。例えば学校でのいじめ自殺や年金の未納問題がクローズアップされたときに、テレビのコメンテータはしたり顔で海外での取り組みを紹介したり、持論の解決策を提示したりする。

それが仕事なのかもしれないけれど、コメンテータは自分の解決策を最後まで責任をもって実行しようとはしない。言いっぱなし。結局、混乱するのは現場だ。

経済談義も政治談義も社会保障談義も、ありとあらゆる議論が、データや実証抜きに語られてしまう現状がまだまだありますが、エヴィデンスを明確にした確かな議論を増やしていくことが、難題を解決するための何よりの近道だと思います。

こういうことをちゃんと若い方が表明することに感激している。実証されていないことについて、ああでもないこうでもないと議論することが如何にバカらしいことか。まずはデータと実証。ようやくそういう時代になってきたのかもしれない。

本書は各分野の研究者や当事者(しかも若い)が具体的な政策を提案している。気になった箇所を挙げておこう。

まずは、安田洋祐さん。経済学者で、マーケットデザインが専門だ。

マーケットデザインは経済学の一分野で「現実の市場や制度を修正・設計していく新しい分野」だと思ってください。

ふむふむってなかなかピンとこない。2012年のノーベル経済学賞の受賞理由は、「マッチング理論」及びその応用である「マーケットデザイン」であり、まさに最先端の経済学だ。有名な具体例は、腎臓移植だ。

腎臓交換メカニズムが素晴らしいのは、市場や金銭のやりとりをまったく使わずに、今までよりも多くの患者の命を救えるかもしれない、という点です。

親族間で腎臓を移植(生体腎移植)しようと思っても、血液型が異なるとかで移植に適さないケースがある。移植を求める患者がいて、提供しても良いと考える親族もいる。しかし、成立しない。そういうときに役立つのがマッチングだ。腎臓を交換することによって患者を救うことができる。これはまだアメリカでしか実践されていないけれど、日本でも取り入れられる日はそう遠くないかもしれない。

人体部品ビジネス(感想文13-03)で書いたように臓器売買については禁止せよという意見と合法化せよという意見がある。腎臓交換メカニズムはそのどちらでもなく、交換することによって多くの患者を救えるという本当にエレガントな解決策を示すことができた。

これまでの経済学者がドライに主張し、倫理性や尊厳といったウェットな感覚を排除した意見は、理屈では賛同するけれど、なかなか全面賛成できない複雑な気持ちにさせていた。少なくとも生体腎移植に関しては、一つ有効な解決策が見つかった気がする。

『マスキン単調性(モノトニシティ)』についても

この定理は、もし仮にある社会目的がマスキン単調性を満たさなければどんな巧妙なメカニズムを設計してもその社会目標は理論的には達成できない、ということを意味しています。つまり、ある社会目的が達成“不可能”かどうかを、たちどころに判定してくれる、驚くべきツールなのです。

ということですごいのだけれど、ほとんど理解不能だった。また関連する本があれば考えてみます。

次に菅原琢さん。政治学でデータを扱った実証研究をしている。こういう方もいるんだね。

これまでの政治家の人間関係や言葉中心の政局報道的な政治理解から一歩進み、政治を全体的に把握し、分析していくことが、研究者だけでなく政治家やメディア、そして有権者にも必要ではないかと考えています。

政治ってデータから程遠いイメージがある。せいぜいデータで話題になるのが投票率議席数くらいだ。それ以外は、言動と権力闘争ばかり(その方がテレビ的だろうから)で、政治って学問から遠い感じがしていた。

菅原さんの研究は面白くって、例えば選挙の当落を被説明変数とし、ポスターに載っている情報を説明変数にするといった分析だ。なるほど、こういうデザインだと政治も実証分析できるね。

それから井出草平さん。社会学者だ。

社会にある現象や問題を分析したからといって、必ずしも社会学にならないことがわかります。つまり、学問の定義は、被説明変数(現象)ではなく、説明変数によって違ってくるのです。

ふむふむ。原因はこれだっていう仮説によって学問が異なる。意識したことがなかったけれど、確かにそうかもしれない。でもそう考えると、あんまり学問分野って意味が無いようにすら思える。あまり学問分野にこだわると実際的な問題解決から遠のいてしまうってこともあるのではないだろうか。

90年代ぐらいまでに論壇に出てくる社会学者が、見田宗介さんに影響を受けた、いわゆる見田学派(シューレ)に偏っていたからです。宮台真司さんや大澤真幸さんなどがそうです。

そうそう、社会学者ってこのお二人のイメージが強い。見田学派(シューレ)ってのがあったんだね。私が個人的に社会学をあんまり信用していないのは、実証的な話が少ないからだ。しかし、社会学も変わりつつあるのだろう。

「なんとなく問題だと感じている」という印象論では行政は動いてくれない。「なんとなく」の部分を数字で表現し、予算を捻出する論拠を示して丁寧に説明していくと、政策は実現していくのです。

行政との付き合いは仕事上色々とあるけれど、確かに数字は必要な場面が多い。難しいのは数字を示すとかえってその数字が独り歩きしたり、やたらと数字に拘られて厳しいツッコミがあったりするので、どこまで数字を出すのが有利かどうか考えなければならない点だ。

でもね、最も数字を出したがらないのは、行政だったりする。誰かの責任を追求するのは好きだけれど、追求されるのは大嫌い。これが行政。そして、責任と数字は直結しているようにイメージが持たれてしまう。その点を行政はよく分かっている。

古屋将太さん。環境問題がご専門。

これまでわたしたちはエネルギーに関する意思決定を独占企業の電力会社と中央の官僚機構に任せてきたため、「地域社会でエネルギーを創り、選ぶ」という習慣は現時点ではまったくありません。

震災以降、エネルギー問題がいかに閉鎖的で偏った人種が決めてきたかが明らかになってきた。地域という観点は完全に抜け落ちている。少しずつ変わっていくことを私は願っている。

さいごに大野更紗さん。障害者問題が専門。

患者も医療者も、処理しきれないような大量の情報の津波に翻弄されています。特に医療者は、次々と変わる報酬制度、新薬や新しい技術に加えて、世界の経済状況から病院経営のことまで考えなくてはならなくなりました。(中略)現代は医療が社会化していく過渡期である、と見方を変えることもできます。

医療の社会化。医療は社会の一部であり、単に科学的に特定の病気を治療するという意味を超えつつある。例えば、社会保障の問題だったり、あるいは高齢化による社会の仕組みの変貌だったりもする。

人はとても複雑な生き方をしていて、常に変化し、動いている。自分以外の人間の生活をすべて把握し、数値化することはできません。できないのだけれども、できないからこそできる限り努力する。「本人の意志を尊重する」ことです。それが障害者当事者運動の原点であり、現在進行形の課題です。

障害者の経済学(感想文12-68)でも色々と考えさせられた。障害者問題はまさに難題中の難題だろう。それでもこういう問題に取り組んでいる方がいるというだけで希望が持てる気がする。

人間は愚かだ。何度も同じ過ちを繰り返すし、ずっと同じ問題を解決できないでいる。それでも少しずつ変わってきているように思う。実証の大事さが理解されつつあり、そして実証分析自体を個人のパソコンでできるようになっている。

巨大な装置も長大な時間も要らない。軽やかな発想や粘り強いデータの入手ができれば、これまでの政策を評価したり、新しい政策を提言することができるようになる。若い人たちがこういう研究を好むようになるのが分かる。まだ時間はかかるかもしれないけれど、実証研究の力で難題を解消する日もそう遠くないと良いな。

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(感想文の感想など)

2013年当時はデータとか実証研究に期待感を持っていたのだけれど、最近では機械学習とかAIが中心になってきて、状況は変わりつつある。

テレビ業界は変わらない。正しいことを言ってそうなコメンテーターを起用して、印象付けることに右も左も奔走している。

なかなか世の中は変わらないものだ。