40代ロスジェネの明るいブログ

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感想文12-40:後藤新平 日本の羅針盤となった男

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※2012年9月5日のYahoo!ブログを再掲。

 

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9月の末に台湾に行くことになり、その準備のためもあって本書を読んでみた。というか、この本を読むまで、後藤新平1857-1929)という人のことをさっぱり知らなかった。まずは、本書で気になった箇所を挙げていこう。

近代日本は、何を生かし、何を葬ったのか。なぜ、わたしたちは、いま、ここにいて、これから何処を目指そうとしているのか……。

後藤新平の仕事は非常に大きく、幅広い。台湾統治、満州鉄道総裁、そして関東大震災後の帝都復興計画。まさに日本(今となっては日本以外もあるけれど)の礎を築いた大人物だ。しかし、後藤新平の全ては受け継がれることがなかった。まさに何を生かし、何を葬ったのか、ということになる。

後藤新平は、1857年(安政4年)、岩手水沢の武士の家に生を享けた。

同い年の有名人としては、オングストローム、ヘルツ、ヤウレック(マラリア療法)、カール・ピアソン(統計学者)、ソシュールってところ。だいたい、大政奉還が1867年なのだから、江戸時代に生まれていて、日本ががらっと変わってしまったのを幼少期に味わっている。

封建時代の信心と養生を旨とする保健観に見切りをつけ、科学的な方法で社会を発展させる医療、衛生の制度づくりにとりかかった。(中略)この発想は社会保険へと進化していく。

後藤新平は今で言うところの理系的な人間だった。技術系の官僚とでも言えるのかもしれない。

横井小楠1809-69)から授けられた「公共」と「交易」の思想(中略)が安場から後藤新平に受け継がれ、医療、衛生行政から台湾統治、満鉄の創業、東京市政、さらには関東大震災後の復興事業へと孵化していくことになる。

後藤新平の思想的背景には横井小楠がある。

阿片漸禁策の立案は、目前の生命を救おうとする医師から、国の政策に精力を傾ける政治家へのターニング・ポイントになった…。

台湾統治のことだ。阿片は台湾から駆逐することは不可能なほどに蔓延していた。現代の麻薬問題も同様であるが、麻薬がはびこっている国で麻薬を禁止したらどうなるか。禁酒法と同じく、闇で取引され、価格は上昇し、質も粗悪なものになってしまう。一方的に麻薬を禁止することは、適切ではないのだ。こうして、後藤新平は、医師から政治家へと変わっていく。

新平は、台湾在任8年8ヶ月の間に1万人以上の命を奪ったと告白している。

今でこそ、台湾人から日本人は慕われている。ありがたいことだ。だから、台湾では良いことばかりをしたと勘違いしていた。しかし、歴史を見ると、実際には多くの人命を奪っていた。このことはちゃんと心に留めておかないといけない。

都市計画と衛生整備は表裏一体だった。都市計画は、華やかな新建築に目を奪われがちだが、アヒルの水かきのようなインフラ整備が本領を担っている。

都市計画についてきちんと勉強はしたことがないが、確かに衛生整備を欠かすことはできない。上下水道、ごみ処理、こういったインフラが整わないと、感染症が蔓延してしまう。

満鉄には右翼、左翼さまざまな人材が集まった。紆余曲折を経て、満鉄は、1907年4月、営業を開始する。新平が満鉄総裁を務めたのは立ち上げ期間を含めて1年8ヶ月と短かったが、この時期に満鉄王国の基礎は築かれた。

続いての大事業としての満州鉄道。うちのじいちゃんは満鉄の社員だった。後藤新平と会ったことはあるのだろうか。もう亡くなって随分経つので、こういう話を聞いてみたかった。

天下国家を論じる巨視的なまなざしと実務の細部を徹底的に洗う微視的な視点。新平は、先を見通す遠眼鏡と現象を分析する顕微鏡を使い分けた。

巨視的な視点と微視的な視点の使い分けと、その解像度の高さは、まさに後藤新平の仕事ぶりを表現している。こういう視点の使い分けが出来る人は、どういう仕事もこなせるだろう。

関東大震災の被害は、東京、神奈川、千葉、埼玉、静岡、山梨、茨城に及び、被災人口340万5000人、死者及び行方不明者15万7000人、焼失及び倒壊家屋東京市に限っても23万戸にのぼった。

首都直下型地震がいつ起きるかわからないと言われている。最近公表された南海トラフ巨大地震の被害は、死者32万人だ。関東大震災では約16万人が亡くなっている。他方で、これだけの規模の壊滅状態になったがために、巨大で緻密な都市計画が実を結ぼうとしたのだが…。

本書に記載されていた昭和天皇の発言(関東大震災から60年後)だ。

「震災のいろいろな体験はありますが、一言だけ言っておきたいことは、復興に当って後藤新平が非常に膨大な復興計画を立てたが…。もし、それが実行されていたら、おそらく東京の戦災は非常に軽かったんじゃないかと思って、今さら後藤新平のあの時の計画が実行されていないことを非常に残念に思います」

というように、後藤新平は結局、政治闘争に敗れ、東京は計画通りに復興されることはなかった。

後藤新平を語る上でのキーワードは、「公共」と言える。そこから衛生、都市計画、都市経営へと発展、拡大していく。

文装的武備を読み解いていくと、経済利益の追求だけではない、広々とした海のような思想的原形に達する。人が群れて生きていくために欠かせない「公共」の粗相である。「私」と「他者」の間に横たわる海のような公共領域。この豊饒な海をマネジメントすることが新平の都市経営であった。

公共という言葉は、今では何かしらおぞましささえ感じてしまう。国家のために自分を犠牲にすることが想念されてしまうからだ。あとがきにあるように

公とは、政治権力を握る者が、民衆に押しつけて全体主義の枠に従わせる方便ではない。公とは、人がともに生き続けるためにイデオロギーや経済の壁を超えて築かねばならない社会的共通基盤であろう。公共の思想は、権力者に不可欠な資質である。権力が私されるところに未来はない。

ということを忘れてはいけない。全体主義ではなく、社会共通基盤としての公共。311以降の日本で、どういった公共が構築されていくのか。9月末の台湾を見ることで、後藤新平の思いを知り、日本に活かすことが出来ればと思う。

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(感想文の感想など)

人生でやりたいことリストを密かに作っていて、その一つに、

というのがあった。同記念館は岩手県にあって、家から結構遠いのでまだ実現できていない。

現時点で私の尊敬する歴史上の人物は、後藤新平高橋是清。勝手に心の師と仰いでいる。