40代ロスジェネの明るいブログ

2020年1月11日からリスタート

感想文20-13:1本5000円のレンコンがバカ売れする理由

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いかにも興味を引きそうなタイトルの本書。最近はこういうタイトルでないと本が売れない時代なのだろう。きっと。

著者は野口憲一さん。『茨城県かすみがうら市生まれ。日本大学を卒業後、実家のレンコン生産農家を手伝いながら、大学院で社会学民俗学を専攻し、博士号を取得した異色の農業者。』とのこと。アカデミア色が強く、しかも農学ではなく、社会学民俗学をバックグラウンドとしているのだから興味深い。

民俗学者といえば柳田國男を思いつくのだけれど、他にはさっぱり知らない。それなりの分量の本を読んできたのだけれど、これまで民俗学に関連するような本を読んだことがない。

あいにく民俗学には興味を持てないが、レンコンなら興味がある。儲けることは自体はどうでも良いのだけれど、儲かる仕組みがあるのなら知りたいと思って読んだのがきっかけだ。

15000円という超高級レンコンのブランディングです。レンコンは11000円ほどが標準的な価格ですから、単純に5倍の価格で販売しているわけです。(p.4

スーパーで買うレンコンは、だいたい1パック200-300円くらいだろう。1本単位で購入したことがなけれど、おそらく普通の価格だ。そういえば、レンコンで外国産を見たことがない。たぶん外国では作っていないか、国産で需要が満たされるのだろう。

静岡県出身の知り合いから、泥付きのレンコンをもらったことがあるが、これがべらぼうに美味しかった。レンコンなんてどれも同じだと思ったら大間違いで、きっと野口農園の高級レンコンは5000円で買っても良いと思えるほど美味しいのだと思う。

レンコンはキャベツや白菜のように、種苗業者が種を作っているわけではありません。市場規模が小さいことから産業化が進展していないのです。商品として種を扱う業者が存在しないため、いわゆる自家採種なのです。(p.136

これは知らなかった。レンコンには種苗業者が入り込んでいないのだ。マーケットが小さすぎるのだろうけれど、だからこそ価格帯を自由に設定できるとも言える。

結局のところ、15000円のレンコンがバカ売れするようになった理由は何なのか。その秘密は、実はたった一つ。両親はもちろん、顔も名前も知らない先祖が苦労して育ててきたこのレンコンを、何があっても安売りすることができなかったからです。(p.148

これが本書の面白いところであり、うかつに儲かるんだったら農業に参入しようという軽く甘い目論見の人たちにピシャリと冷水(いやレンコンだから泥水か)を浴びせてくれる。

これからの農業に携わる者は、これまで気が遠くなるほど永きにわたって苦労をし続けてきた全ての農業者の哀しみを背負う覚悟をしなければならないと僕は考えています。(p.149

スマート農業とかいうネーミングで、ドローンやAIを使って生産効率を上げるみたいな話が国家プロジェクトで動いている。残念ながら儲かるのは農家ではない。ドローンやシステムといった農業資材を製造販売する企業が儲かるのだ。土・牛・微生物(感想文20-10)にあるように『農業による利益のほとんどは農家以外の人間が得ている』のだ。

重要なポイントは「農業は手段であって目的ではない」という部分です。農業を営む人々にとって、農業とは生活を営むための手段以外の何物でもない筈なのです。(p.158

本書の主眼となっているのは、手段たる農業ではなく、目的たる農家の生活が大事という点だ。昨今の農業政策やスマート農業的なプロジェクトには、決定的に欠落している観点と言える。

「伝統」は文化財保護法のような政治・行政的な要因、あるいは商業的な理由によって、新たに創り続けられているということです。(中略)文化財保護法によって「伝統」が再創造され続けていることに加え、民俗学がその作業に加担してきたということも見えるにようになったわけです。(p.51

なるほど。私が民俗学に興味を持てなかった理由はこの辺にあるのかも知れない。地方出身ということもあるけれど、村の掟とか伝統といったことに対する、上手く表現できないけれど、違和感というか忌避感がある。学校の不合理なルールに馴染めず、生まれ故郷の行事や祭事も終ぞや好きになれなかった。

特定の人間が、生まれた家庭が先祖代々そうだとかそういう理由だけで、ちやほやされることにも納得がいってなかった。そういう家庭に生まれた人にとっては別の悩みが発生しているのだろうけれど。さらにはそういう伝統行事的なことやしきたりが、マスコミに取り上げられ、その存在が強化されるのも気に食わなかった。

自らが理系の道に進んだのも、能力があればその世界で生きていけると思っていたからかも知れない(残念ながらそんなピュアな世界ではなかった)。ついでに妖怪とか呪いといった畏れから離れておきたいという心理もあったかも知れない。

メタ的に、民俗学が持つ伝統の再創造への加担という機能が露呈し、そこへの反省が学問の再構築の立脚点となっていた頃に野口さんは学んだということになる。面白いのが、それを分かった上で利用してやれとむしろ実践に足を突っ込むという思い切った行動に出たことだ。

ともかく僕は、学者やマスコミなど農業とは直接関わりのない人たちに農村や農業の「伝統」や「民俗」が好き勝手に操作されているのに我慢がならなかったのです。だからこそ、農村出身で農業に関わる自分自身で、「伝統」や「民俗」を積極的に操作してはどうだろうか、と考えたのです。(p.69

覚悟のない人間が「伝統」や「民俗」を操作することを許せなかった。たまにやってきて軽く体験したり、動画を撮ったりするだけの奴らに、レンコン農家の伝統を操作されたくなかった。だからメディア取材お断りとかになるのではなく、むしろ自らメディアを利用して、積極的に発信する側に回った。

かくいう私は畜産学科出身であるが、学生時代に畜産業で生きていこうとは全く考えもしなかった。これまでにいない動物を作り出したいというマッドで無謀な野望はあったものの、土や家畜にまみれるような生活は想像できなかった。

農業はあくまで農家の生活手段なのだ。農家にとって日本の食料自給率とか知ったことではないのだ。そして私が覚悟できないほど、苦労するし、苦労してきたのが農業や畜産業なのだ。苦労して出来上がったものを安く売るとか、そんなんできない、というのが本書の根幹であり、なるべく楽して儲けようという発想とは真逆なのだ。

本書は農業の未来の一つの方向性になるのだろうか。苦労からの開放による農業のコモディティ化あるいは低価格化。それに対抗する苦労を背負う覚悟による高価格化。この考え方の違いは農業だけでないだろう。

民俗学のビジネスへの応用可能性を感じられたのは収穫かな。