40代ロスジェネの明るいブログ

2020年1月11日からリスタート

感想文20-14:昆虫食と文明

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何かと話題の昆虫食。ポップな表紙で安易に読んでみたのだが、思った以上に難解だった。

難解な理由は、そもそも食べること、命を奪うことについての考察が込み入っているからだ。射程が広い。だからこそ分厚い。小さい字で300ページ以上ある。まとめようにもまとめられない。

いやはや、昆虫食について真面目に考えるとこうなるよということなのだ。美味しいとか不味いとか、栄養がどうだとか、環境への負荷がどうだとか、そういうこと「も」大事なんだけれど、それは表層的な問題であって、歴史とか多様性とかアイデンティティとか、これまた一言二言では片付きそうにないテーマへと広がり深まり、先進国と途上国と都会と田舎とでまた観点が変わる。

それだけではない。そもそも食べる対象となる昆虫の範囲、昆虫の種類、生態、人との関係、環境との関係、そういったことにまで目を向けていくので、途方に暮れてしまった読者は私だけではないだろう。

ちょっと読んでみて、昆虫食に詳しくなります的なノリでページをめくることはオススメしない。かといって、どういう心持ちを読者に求めれば良いのかもよく分からない。

私自身は消化できていない。多くの理屈が書かれているが、結局のところ昆虫食については感情的に忌避感を持っている人がそれなりの数いることは否定できない。

環境に良いとか、畜産業自体が環境に負荷が大きすぎるとか、栄養満点だとか、またまた表層的な話に戻ってしまうのだけれど、結局は慣れ親しんでない食べ物を食べることに抵抗を感じるのは普通だし、それを乗り越えるためには、価格、味、栄養価だけでなく、オシャレ感とかかっこよさとかどこかの大臣の発言のようなセクシーさがないと、食文化として広がらない。

ものを食べることは原料のリストがすべてではない。それどころか、食べ物の恩恵の大部分は、それが食べられる社会的背景と、それがどのように作られ、加工され、育った土地から私たちの口まで輸送されたかという複雑な生態学的結びつきに関係しているのだ。(p.61

私は毎年、人間は栄養のためだけに食べるのではないと繰り返す必要を感じていた。われわれがある食品を特定の方法で調理して食べるのは、歴史の気まぐれからであり、楽しみのためであり、アイデンティティの源としてなのだ。(p.317

昆虫食について考えるということは、結局は「食」について考えるということになる。何をどうやって食べるのか。

しかしながら、食文化の変遷は思った以上に早いかも知れない。日本で肉食が一般化したのは、明治時代以降だろうし、朝からトーストを焼いて食べることが一般化したのは戦後からだろう。

海外のどこにいっても寿司屋がある一方で、日本でインド料理屋に出くわすのは珍しくなくなった。私が大学生の頃はインド料理屋は珍しい存在で、ナンがあんなに美味しいものだとは知らなかった。

一種の奇行とか未知との遭遇的な感じで昆虫食が注目されては、消えていく。NHKで昆虫食が特集されていて、ベッキーが昆虫を食べているのを見て、こういう仕事が来るようになったのかとしみじみと見たのを思い出す。

とはいえ、メディアが報じても結局のところ、根付いてはいない。相変わらず長野県の一部ではイナゴを食べているだろうが、東京のスーパーで昆虫が売られるようなことにはなっていない。

そういえば、本書では経済との関係についての考察はあまりなかった。ビジネスとして昆虫の養殖業についての記述はあったが、需要、供給、生産コスト、正の外部性、情報の非対称性、共有地の悲劇など、これらの観点で書けることはたくさんあるかも知れない。

周縁に再生の源泉を探すうえで私たちは、食料を確保する現在の方法の起源を歴史的に見ること、つまり近代的なシステムがまだ伝統的慣習を消し去っていないところを地理的・文化的に見ることができる。すると、どうすればこうしたさまざまなアプローチがシステムに浸透し、それを変えることができるのかを考えられるようになる。(p.233

難解に書かれているけれど、(何を持って周縁とするかはさておき)、マイナな食文化もあっという間にグローバルに浸透する可能性を示唆している。日本でカビの生えたチーズを平気で食べるようになったのって、ここ25年くらいではないだろうか。

そういえば、先日、飲み会でカンガルーのステーキを食べた。思った以上に美味しかったのだ。とはいえ、近所のスーパーでカンガルー肉を購入できるわけではないし、晩御飯として子どもたちに提供するようなこともしない。でも25年後にどうなっているかは分からない。

昆虫食だって同様で、今すぐに昆虫を毎日食べるようになるわけではないし、専門店が乱立するようなことでもない。文化とか歴史とかアイデンティティとか、それらは動かしがたい重さがあるように思うけれど、意外と食については変わってしまうだろう。

関東に来たときはところてんが酸っぱいのに慣れず、黒蜜出せやと憤っていたが、時間が経つとさっぱりしてて美味しいなと思うようになり、むしろ黒蜜と一緒に食べる方に違和感を持つようになった。そう、そんなもんなんだ。

虫を食べるのに抵抗があるかも知れないが、虫を餌として与えた魚なら抵抗が薄いだろう。そもそも魚釣りに幼虫とか成虫を使うし、魚は虫を食べているのだから。実際に養殖用飼料として虫の活用について研究開発が進められている。食料とバッティングしないような廃材を餌にするような幼虫を餌にすれば、環境負荷が少ないだろう。

いきなりどう調理して良いかわからない虫を食卓に載せるよりは、魚や家畜・家禽の餌として活用するのが現実的だろう。あるいは細かくして肉と混ぜて整形してハンバーグにすれば心理的な抵抗は減るだろう。

冗長かつはっきりしない文章になってきたが、昆虫食について私はまだ十分に考えきれていないことが本書を通じてはっきりした。考えきれていない最大の理由は、普段から口にしている食べ物が、いったいどうやって作られているか知らないし、知ろうとしないからだろう。

虫は身近な存在だけれど、それが食料として一般化したら、きっとどうやって作られたのか見えないようになるのだろう。知らないほうが消費されやすいのだから。