40代ロスジェネの明るいブログ

2020年1月11日からリスタート

感想文10-44:産学連携と科学の堕落

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※2010年6月18日のYahoo!ブログを再掲。

 

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イノベーションに関連する本を読む企画第三弾。ちなみに第二弾は、OPEN INNOVATION(感想文10-39)、第一弾はイノベーションのジレンマ(感想文10-29)だった。

第二弾のOPEN INNOVATION(感想文10-39)は、企業の自己完結型の研究方式が終焉し、基礎研究を大学なり研究機関が実施し、そこからビジネスになる種を企業が積極的に掘り出していくという構図へと移行しつつあることを示していた。しかし、その本は産学連携推進が当然のごとく底流していた。

さて、本書。タイトル通り、産学連携に否定的。でもでも、どちらが正しいとかそういうことではない。第二弾は、ビジネスに軸足があり、第三弾は科学に軸足がある。スタンスの違いであり、どちらも正しいといえば正しい。

いつの頃からか、不況になると科学がいじめられるようになった。成果の分かりにくい研究は縮減される。はやぶさに後継機がないっていうのも最近の話題。

大学や研究機関は、国からの支出だけに頼ることができなくなってきた。産業界から研究費をもらったり、ロイヤリティ収入を狙ったり、あるいはベンチャーを起こす。こういった一連のことが産学連携と持てはやされ、企業などからの共同研究収入(外部資金)を獲得した研究者は賞賛される。

こういう状況(アメリカではより如実で露骨)において、本書は産学連携の負の部分を冷静に列挙している。特に生命科学に関する記載が多い。学問分野によって、産学連携が抱える問題点は異なるので、広く「科学」について言及することは、原理的にはできないかもしれないが、それでも重要な指摘がなされていると思う。

印象に残った箇所を書き出してみよう。

ここで問題にしていることは、大学が社会を啓蒙するのを目的として孤高の存在として守られるよりも富を追求する存在に変わるべきなのかということである。

大学の商業化活動への賞賛は多く書かれているので、これが大学組織の高潔さにもたらす悪影響は考えてみることすらめったに行われなくなっている。

アメリカの研究機関の高潔さを守るということは、グランドキャニオンのような自然資源を、そこに眠っているかもしれない貴金属を求めての乱掘から守ることである。

「孤高の存在」とか「高潔さ」といったかつて大学が持っていた特質が失われつつある。大衆に迎合し、富を追求し、資本を蓄積し、コメンテータやコンサルタントに化す。大学をそのように仕向ける政策があり、そのように変貌していっている。

政府の政策と裁判所の判断は大学そのもの、大学教員、政府によって資金援助されてきた非営利研究機関に、科学や医学研究を商業化し、営利企業と連携することの新しい誘因を与えた。

産学連携にインセンティブを与える。日本でも様々な取り組みが実際に行われている。ビジネス展開の望めない研究はどんどん端に追いやられてしまう。

大学が自分達の科学の実験室を商業的企業の領域に変換し、この商業目的を達成するために教員を採用するようになるにつれて、大学が公共の利益のために科学を行う機会はほとんどなくなるであろう。それは社会にとって計り知れない損失である。

産学連携は必ずしも公共の利益のためにならない場合がある。巡り巡って、社会が大きな損失を被ることに鳴ってしまう。

本書のあとがきで訳者である宮田由紀夫さんが、うまくまとめてくださっている。

社会貢献の名のもとで産学連携があまりに行き過ぎると、教育や研究という使命に支障をきたすというトレード・オフが生じるのだが、実は産学連携は社会貢献のひとつに過ぎないので、産学連携の過熱は社会貢献の中でもトレード・オフを生じさせるのである。

大学や研究機関は社会貢献をするべきだと思う。した方が良いとかじゃなくて、しないといけない、と思う。でも、社会貢献は企業と組んで新しいイノベーションを起こすことだけではない。科学の面白さ、素晴らしさを伝えることの方がはるかに大事だと思う。

産学連携への熱中は、社会貢献を矮小化してしまうかもしれない。高潔さを失った大学や研究機関は、単に企業が共同で出資して作る研究所に変貌してしまうかもしれない。

不況の日本で、科学にかけられる期待は小さくない。しかし、産学連携やイノベーションに偏りすぎると、土台の科学がまさに堕落してしまうことになりはしないか。このようななかなかに辛辣な意見は、基礎研究者の考えを代弁しているようにも感じる。

本書は、自分の立ち位置について改めて考えるきっかけを与えてくれた。

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(感想文の感想など)

今の大学は「孤高の存在」ではなく、「高潔さ」も失われている。かつてそれを本当に持っていたかどうかは眉唾ものだけれど、そういう目では見られなくなったというのは確かだろう。

大学には大学の良さがあったけれど、公的資金に頼ってしまっている以上、国家と趨勢を共にせざるを得ない。

科学は堕落してしまっているのか。生き残るためには仕方なかったのだろうか。