40代ロスジェネの明るいブログ

2020年1月11日からリスタート

感想文18-08:「大学改革」という病

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※2018年4月5日のYahoo!ブログを再掲。

 

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私が通っていた頃(90年代末から2000年代前半)から大学は大きく変貌している。2003年に国立大学法人法が制定されたが、2000年頃からすでに法人化への懸念が大学内で示されていたのは覚えている。当時、大学生だった私からすると、法人化によってどういう影響が出るのかについてはほとんど関心がなかったのだが…。

科学者と戦争(感想文16-33)で示したように、大学が大きく変わっているのは、国からの運営費が減らされていることが挙げられる。なぜ国からのお金が減っているかというと、日本にそんな余力がない(実際にそこまで余力がないのかは疑問ではあるが)ことが原因である。

さらに、子どもが減っている。大学全入時代と言われて久しく、お金さえ出せば誰でも大学に入学できる。勉強能力(≒試験能力)によって選別されていた大学入学が、支払能力にまで間口を広げ、あの手この手で学生を確保しようとしている。

バブルが崩壊し、ずいぶん時間が経ったが、日本経済はひどい状態だ(一時期よりはマシかも知れない)。新しい産業を生み出すためにスタートアップの創出が求められ、その技術的な源泉として大学などのアカデミアに期待が集まっている。また、大学側は、産業連携を深化させ、自己収入を増やすことを強いられる。

日本では、産学連携の推進の意図の一つとして、国立大学の自己収入を増やして国の大学関連予算を削減することがあるように思われる。アメリカの産学連携政策の目的は産業競争力の強化であって、政府の大学関連予算削減といった底意はない。(p.131)

矛盾した二つの目的を追い、現場は疲弊している。アカデミック・キャピタリズムを超えて(感想文10-68)の感想文で示したように、金を出し渋るクセに口を挟む国との関係が奇妙に映る。経営者の視点から大学を見ると、国のしがらみから可能な限り開放されたいだろう。自己収入が増大すれば、国からの口出しはその割合に応じて減って欲しいと思うだろう。

他方で教員はどう考えるだろうか。任期付きだと、自分が帰属する大学がどうなろうと関係ないと感じるかもしれないし、テニュア・トラックに乗れそうであるなら、自身がいかに大学の経営に貢献できるかをアピールすることだろう。すでに地位を確保した教員なら、できることなら平穏に教員人生を終えることができるようなるべく大学改革という煩わしい状況に関わることなく過ごしたいと考えるのではないだろうか。

信頼関係にもとづく協力体制だけが、物事を真に改善するのである。トップダウン体制での施策の押しつけは、短期的には行動を変えさせることはできても、現場の反発を招き、長期的には現場の無気力かという結果につながる。(p.281)

陰鬱な気持ちになってくる。私の仕事とも関係しているが、トップダウンでの施策の押しつけは、本当に現場をダメにしてしまう。

他方で、大学改革を「病」として言及するような本書の存在があっても、私は大学改革は避けられない現実でもあると考える。社会保障制度のような国民全体を巻き込むような議論ではないというのも流れを変えられない原因であろうが、もう一つの原因は大学教員、要するに大学教授の権威が失われつつあるということだろう。

「知」を生み出す大学等のアカデミアだが、その活動に敬意が払われて然るべきであるのに、国自体が貧しくなってくると、知から金を生み出す方策や能力が問われるようになる。金を生み出さない知(文学とか?)への敬意は相対的に失われ、結果、金にならない学問分野の教員の権威も喪失する。

基礎研究も同様で、ノーベル賞の時期だけもてはやされるが、どう役に立つのかという説明ができないと、科学の世界に閉じた取り組みであり、自己満足だという誹りを受ける。

結局は、日本が経済的にダメになっていることが根本原因であり、その打開策として大学改革が進められているのだが、その大学改革自体が有効な策かというと大いに疑問である。

だんだん感想文を書いてて辛くなってきたが、貧乏なのに研究している余裕なんてないという状況をなんとかしない限り、どうしようもない。

あるいは経済成長を指標としないとか、資本主義以外の価値観に転換するとか、そこまでドラスティックなことをしないといけないのだろうか。

日本の大学に未来はないということは、日本に未来がないことを意味しているのだろうか。病に陥っているのは、大学改革ではなく、日本という国家、あるいは国家制度そのものなのだろうか。

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(感想文の感想など)

大学改革は進められているが、大学入試改革の英語民間試験は頓挫してしまった。

大学入試改革を進めようとした結果、何が起きたか。私立中学校の人気が上がった。公立の学校では新しい大学入試の仕組みに対応できないと親たちは不安に思っているからだ。この現象だけで、すでに公教育は信用されていないことを示している。

残念ながら私も公教育を信用していない。すでに我が子たちが散々な目に会っているからだ。早めに気づけたのが唯一の救いかな。