40代ロスジェネの明るいブログ

2020年1月11日からリスタート

感想文20-16:小さな地球の大きな世界 プラネタリー・バウンダリーと持続可能な開発

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これまで環境問題についての本を読んでこなかった。直視したくなかったからだろうか。科学で取り扱うには大きすぎると思ったからだろうか。

エネルギーや感染症や食糧問題といった個別の課題については、さほど多くはないにせよ本を読んできた。それらは本質がはっきりしている。突き詰めればそれらが何であり、どうすれば良いのか、少なくとも方向性は明快に示せると思う。そんなことは誰にでもができる。具体的にどうすれば良いかはまた別の話になるけれど。

一方で、気候変動や生態系といった問題は、その本質がさっぱり分からない。言説がたくさんあるが、指し測るパラメーターがはっきりしないし、因果関係も証明しにくい上に、政治が絡むし、時間スケールが大き過ぎて、人生と間尺に合わない。

地球そのものが大きな一つの生命体とみなすガイア理論という有名な理論があるが、提唱するのは構わないけれど、これがサイエンスかというと眉唾だなと思ってしまう。

10年以上前に読んだほんとうの環境問題のような、『地球温暖化はたいした問題ではない』とか『二酸化炭素排出削減は意味がない』といった言説は、真偽はさておき、現代では通用しなくなっている。

私は、感想文を書くことで思考を整理してきたので、10年くらい環境問題についてアップデートしていなかったことになる。本書は、多くの示唆を与えてくれたと同時に、環境問題への認識を改めさせてくれた。

つまり、本書のキモは、

・要素還元論的に地球環境問題は語れない

閾値があって、そこを過ぎると地球環境は回復しない(かもしれない)

ということになる。

世界には発展のための新しいパラダイム、つまり、「安定的で回復力のあるプラネタリー・バウンダリーの範囲内で、貧困の緩和と経済成長を追求するという発展のパラダイム」が必要であるということを、最新の科学に基づいて提示したのである。(p.2

総体として世界経済は発展しているのかもしれないが、環境からの搾取によって富めるものは富み、貧しい者は悪化した環境で生きる他ない。人類が直面している課題であり、ナショナリズムが強まり、争いが起こり、協力から分断へと突き進んでいる。

気候変動について取り組むべき最重要の分野として、排出量の削減から、生物圏の管理に焦点が移りつつあることが明らかになってきている。(中略)気候システムへの人類の影響は、地球システムそれ自体が引き起こす温暖化フィードバックと比較すると、実はたいしたものではないからだ。(p.81

火力発電や自動車などで二酸化炭素をたくさん排出しても、そこまで影響は大きくない。ヤバいのは、閾値を超えてしまい、地球が今とは異なる安定フェーズに入ってしまったら、地球自体が温暖化を促進するようになってしまう(かもしれない)のだ。そこに至ってしまったら、人類は滅亡してしまう(かもしれない)。

これがプラネタリー・バウンダリーが指し示す新規な説であり、もう戻れない分岐点が合って、だからそこに至る前になんとかしましょうということになる。

私たちは、環境を「保護する」という考え方に基づいて全体の運動を進めてきた。そしてそれは大きな成功を収め、多くの人々の考え方を「汚染」した。自然が一方にあり、社会が他方にあるという世界観を広めてしまったのだ。(中略)経済学者は、地球への影響を「外部性」として扱うという時代遅れの概念に執着している。(中略)すべての富の源泉である地球の上に立ちながら、どうしてそれを外部性だと主張できるのだろうか。(p.136

経済学で学ぶ外部性。この場合は負の外部性だ。例えば炭素税はピグー税であり負の外部性を内部化する仕組みというのが、経済学における一般的な説明だ。

しかしながら、経済学を学んだ際に、『ピグー税とは汚染する権利に価格をつけることである』という説明があり、目からウロコであると同時に、結局、環境汚染は避けられないのか、と疑問に思った。集めたピグー税は汚染の回復に用いなくても良くって、トータルで収支があっていれば良いというこれまた経済学的なドライな理屈を聞くと、さらにもやもやしたものが心に沈殿した。

環境には回復力があるけれど、そこが及ばない閾値があるとするならば、外部性のコンセプトは破綻してしまう。閾値を超える環境負荷を与えるような活動をする権利に価格をつけようもないからだ。まあ、そもそも環境負荷を与えるような活動の権利に価格をつけること自体どうなのよという主張もあるだろう。

各国が利益追求に走り、地球環境を悪化させ続ける方向に向いている今日ほど、利己的かつ所与のルールを前提にすれば「合理的な」行動によって共有資源が浪費される「共有地の悲劇」が顕著になったことはない。(p.163

本書が書かれたのが2015年(邦訳版は2018年)で、トランプ政権もブレグジットもなかった頃だ。今や、事態は悪化していると言って差し支えないだろう。

各国は合理的に行動することによって、共有地の悲劇が起きてしまっている。明らかな市場の失敗であり、各国の利己的かつ合理的な行動を規制しなければならない。とはいえ、誰がどうやって規制するのか。たとえ条約のようなルールができたとしても、どうやってそれを守らせるのだろうか。

プラネタリー・バウンダリーの枠組みにおける最も重要な洞察の一つは、環境への対応をコストや社会の負担として考えることをやめ、それらを本来の姿でみるようにすることだ。つまり、富と繁栄を創造するために自然に長期的な視点で投資するベンチャー・キャピタルだと認識することである。(p.193-194

これが本書の答えの一つである。現在ではESG投資があり、活発化している。ピグー補助金に近いかもしれない。もうちょっとドラスティックで、持続可能なビジネスには投資するということになるし、持続可能ではないビジネスは潰してしまえということになる。

これをチャンスと捉えるかピンチと捉えるか。まだ時間は残されていると信じたいのだけれど。