40代ロスジェネの明るいブログ

2020年1月11日からリスタート

感想文10-85:反アート入門

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※2010年11月13日のYahoo!ブログを再掲
 
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著者である椹木(さわらぎ)さんは、美術評論家

これまでのぼくの人生において、アートっぽいことは全くと言っていいほど触れていない(そりゃ美術の授業はあったし、美術館に行ったりはするけれど)し、アーティストといった類の人種とのつながりはほぼ皆無だ。

本書を読んだのは、タイトルが気に入ったのと、表紙を飾る奇妙な像が興味深かったからだ。

反アート入門というのは、なかなか言い得て妙だ。本書は、実質的にアートの入門書、アートの歴史を振り返っている。しかし、行き着く先は、現在のアートではない。うーん、うまく言えないな。現状とは違う、別の方法の可能性を模索しているし、そこにしかもはや道はないと著者は主張している。

ちょっと本書によるアートの歴史をまとめてみたい。

・神あるいは神の代理人(王侯・貴族)への捧げ物としてアートができる
※あくまでプライベートなもので、『ポルノまがいに見えることがある』
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フランス革命とかでアートはパブリックなものに
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・アートが展示されるようになる(=美術館の誕生)
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・戦争があって、アートの中心地がアメリカへ
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・抽象表現主義(1940年代後半~1950年代)
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ポップアートミニマリズム(1960年代)

ってこんな感じ。

ミニマリズムっていうのは、全然知らなかった。ウィキペディアによると、『装飾的な要素を最小限に切り詰め、シンプルなフォルムを特徴としている』そうな。本書で紹介されていた作品は、実際にはよう分からないもの。フランク・ステラのブラック・シリーズとかって、なんやらよく分からない。ほかにも鉄板をただ置いただけとかっていう作品もあった。

とはいえ、解説があると分かった気になる。絵画の背景や情報をそぎ落としていった先にミニマリズムという手法があったという。でもそんなの観に行ってもなんも楽しくなさそうだったりする。

神がこの世の絶対的存在であることをやめた近代以降では、作品の価値を保証するのは作品自身にほかなりません。けれども、同時にこの価値を生み出すのは「作家」でしかないのです。(中略)言い換えれば、作品とは作家による一種の自己発露(エクスポージャー)(表現(エクスプレッション)ではなく)的な現象ということになったのです。

捧げる対象である神がいなくなり、アートが何のために作られるのか不明瞭になった。だからどういった価値があるのか分からない。そういう事情を考えると、ミニマリズムはひとつの挑戦だったように感じる。

本書のキモの部分に入っていこう。

アートはもはや目で見、手を使ってなにかを作り出すことよりも、情報をコントロールすることによって得られる、ヴァーチャルな価値のゲームと化しました。

どういうアートにどんな価値があるか分からない時代になっている。

わたしたちが一枚の絵を見る体験というのは、実際にはそうした文脈にとても多くを依存しているのです。純粋に見ると言っても、現実には作者が誰であり、何年頃の作品で、その人がどんな影響下にあるのかということを、絶えず意識させられている。

しかしながら、見る側は文脈に依存している。これはアートに限った話ではないけれど、見る側は単純に作品だけを見たいのではないし、そんなことはできない。価値があると思えるような情報を欲しがっている。

アートは評価するにせよ手に入れるにせよ、本質的に少なからずリスクを帯びており、その点では本性的に投機的な性質を持ったものだからです。

そして、アートは完全に投機の対象となる。崇高な芸術的な感性は、お金とは切り離せるというのは間違っているのだ。紙幣もアートの一種であり、アートは価値を生み出す源泉だ。だから、今やアートはヴァーチャルな価値のゲームになってしまっている。

世界はどんどんと仮想化されていっています。(中略)人間が人間である条件下に、いやおうなしに現前してしまうわずかな存在論的なギャップにこそ、アートを復権することができるのでなければなりません。

仮想化というキーワードは、小説家という職業にも登場した。音楽や本は電子化し、実際のモノは存在していない。しかし、著者はだからこそアートに残された可能性を信じている。この辺から、なかなか理解することが難しい。

「作る」のでも「残す」のでもない芸術のあり方が、現状のアートや美術というのとは別に、たしかにあると予感してもらえれば、それだけで十分です。

ふうむ。作ったり、残したり、売られたり、そういう作品があって、作者がいるのに、情報をコントロールして価値を生み出すためにヴァーチャルに扱われてしまっているアートではない、反アート。これがこれからのアートの可能性になると著者は言っている。

そこで本書の表紙に立ち返る。やせ細った人の体の像で、Chim↑Pom(チンポム)っていうアート集団による作品。うろ覚えだけれど、大量の食品サンプルを前において、断食するっていう(反)アート。それでやせ細って、その体を像にしたっていうもの。

音楽や本といった情報はあくまで電子化できる。ところが食べ物は電子化できない(食品サンプルは食べ物のバーチャルで、そんなのがいくらあっても食べられないというパフォーマンスだろう)。これが人間の条件の一つなのかもしれない。ヴァーチャル化できないものにアートの可能性がある。

芸術の批評というのはすごく難しい。これからの芸術の行き先を示しつつ、言葉によって現在地を説明しなければならない。

先日、「これも自分と認めざるをえない展」に行ってきた。これもきっとアート。キーワードは属性だった。指紋だったり、網膜だったり、筆跡だったり、そういったバイオメトリックな情報が個人を形成するし、個人を特定する。これは人間の条件とも言えるし、ヴァーチャル化する情報にも思える。

分かりやすいアートの可能性としては、「痛み」とか「空腹」とか「痒み」とか「味」だったりするのかな。その一方で、同じく脳の働きである無意識とかっていうのもアートの可能性になると思う。自己認識の欠如とか、見えているのに見えていないとか。

現代におけるアートの可能性は極めて厳しい(らしい)。本書はそういう現代において光明を探す批評家としての仕事を全うしている(のだと思う)。

現代アートを見る際に、人間の条件をどれだけ反映しているか(意識的に、無意識的に)というのが、これからのアートを見る上でのキーワードになるのかな。ちょっと難しいです。

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(感想文の感想など)

どうやら失敗したらしいが、1億5000万円で落札直後にシュレッダーで裁断されるというバンクシーのアート作品があった。こういうのは実に現代アートっぽい。色んな含意があり、失敗含めて大変面白い。

コロナでなかなか美術館に行けないのが寂しいところ。