40代ロスジェネの明るいブログ

2020年1月11日からリスタート

感想文16-06:アウトサイダー・アート入門

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※2016年3月24日のYahoo!ブログを再掲
 
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反アート入門(感想文10-85)に続く、椹木野衣さんのアートについての入門書。

私はアートや美術の世界に詳しいわけではないし、普段の仕事もアートに関連してはいない。しかし、全く知らない世界だからこそ、アートに惹かれ、そして同じ人間でありながら考えもしないような作品を生み出す芸術家たちの生き様や考え方に惹かれる。

アウトサイダー・アートとは何だろうか。本書ではアウトサイダー・アートが何かということを説明するのではなく、この問いを突き詰めていくことによって、現代のアートの世界を整理しようとしている。いつもより丁寧に(引用が多いということに等しい)気になる箇所を挙げておこう。

美術をめぐってアウトサイダーとインサイダーを分ける考えは一種の差別であり、両者の間に垣根を作って、外道が内輪に流れ込んでこないよう、しっかりと築かれた壁のようなものだからだ。(中略)アウトサイダー・アートの担い手たちが社会的にはつねに弱者の側に身を置き、なんらかのかたちで世間からの誤解や差別、迫害を余儀なくされてきたことは、まぎれもない事実だからだ。

アウトサイダー・アートという言葉の裏には、当然、インサイダー・アートというものがある。アートの世界の中と外。中では公的で認められたアートの世界があり、外には非公認で評価の対象とならないアートがある。アウトサイダー・アートにはそもそもそういうアートの世界観を投影した意味合いが含まれている。

日本の純粋美術(ファインアート)そのものが、もとより欧米から見た「アウトサイダー・アート」の極東での一変種であるかもしれないことは、十分に心に留めておく必要がある。

具体的な日本人アーティストの名前も挙がっていたが、西洋文化であるアートの中心地から見たら、日本のアートはどれもアウトサイドにあると言われても仕方ない。

アウトサイダー・アートという考えを突き詰めていったとき(中略)究極的には現行の美術をめぐる「インサイド」と「アウトサイド」といった暫定的な区分など、完膚なきまでに消え去ってしまうということだ。

アウトサイダー・アートの事例を見ていくと、もはやアートの世界に中も外もないということに気づく。

真っ当な美術教育を受けた健常者であっても、アウトサイダー・アーティストとしか呼びようのない存在はれっきとしてこの世界に存在する。もっといえば、私たちが一対一で真剣に対峙しなければならないアーティストは、そのことごとくがアウトサイダー・アーティスト以外ではありえない。

人間の活動である芸術の根源は何か。美術教育によって身につくものではないし、かといって精神に異常を来たすことが十分条件ということでもない。

貧困であったり、親しい者の死であったり、絶望的な孤独であったり、大災害だったり、戦争だったり、と何かしら大きな体験があり、何かを生み出すことでしか自分自身を律することができない、あるいは自分自身もなぜ何かを生み出すことをしているのかすら自覚できていないケースもあるだろう。

社会的に認知された芸術のなかに局所的にアウトサイダー・アートの閉域があるのではなく、かえって芸術そのものが社会からのアウトサイダーたちによる営みなのである。

芸術そのものが社会からのアウトサイダーたちによる営みである。そもそも芸術家たちは奇人・変人のような印象を持っている。そうでなければ平穏にサラリーマン人生を全うして、幸せな家庭を築けば良いのかもしれない。

人の心を動かすような作品を生み出す。この営為は、どこかしら人間の心の闇や悪の部分と不可分であり、あるいはそのものであり、生み出された作品には怨念や呪いさらには激烈な攻撃性をも包含しているものもある。作品から発揮される作者の痛み、苦しみ、そういう言葉で簡単に片付けられない地獄の人生そのものの発露が人の心を否応なく動かす。

鑑賞者たる私たちの心が動く。その根源には人間の業がある。日常的に意識しない暗い部分に触れてしまう。そしてそれは日常のすぐ側にある。たまたま平穏な人生を過ごしているだけで、いつ自分自身がアウトサイダーになるかは分からない。
こうして考えていくとアートとは危険なものといえる。できれば触れたくなもの、知りたくないもの、感じたくないものに向き合うことになる。

美しく繊細な宗教画や風景画を展示した美術展が人気を博すことがよくあるが、そこに危険性は伴わない(たぶん)。椹木さんが言うところのこれからのアートは、私たちが考えているよりも大きな射程で捉え、社会から外れた、外された人たちの苦悩の発露や結晶であり、自ずとそれは私たちの生き方や社会の在り方を揺さぶり続けるだろう。

そういった社会のアートへの捉え方そのものが評価と近似する。そしてそれが価値の源泉にもなるのだろう。とアートに詳しくない私は考えてみた。現代アートの美術館に行ってみたいな。

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(感想文の感想など)
あいちトリエンナーレ2019の企画展「表現の不自由展・その後」は良くも悪くも話題になった。この騒動の経緯や顛末はよく知らないけれど、賛成派と反対派でアートの捉え方が違っていたのだと思う。

反対する側はなぜ税金を使って政治的なメッセージ性の強いアートを展示するのかという主張をし、賛成する側はそういう声で表現を規制されてきたアーティストの展示なので当然批判は覚悟の上でだからこそ税金で開催するのに意義があると主張する。

個人的にはアートに政治的中立性を求めるのは筋違いだし、税金の出せるアートとそうではないアートがあるのはおかしいと思う。

本展示はこういった社会に内在している分断を可視化したという点でアートとして評価できる。しかしながら、分断をより深めてしまったという点は残念に思う。

会田誠Chim↑Pomの作品に激烈に拒否反応を起こすような方もいらっしゃるだろう。アートといえば西洋の古典絵画という認識だと、本書のアウトサイダー・アートの広さと深さを理解できまい。ましてや表現の不自由展・その後はさらに理解できまい。

でも理解できないことが悪いのではない。拒否反応を起こす、怒る、恐怖する、驚く、そういった原始的な反応がどこに起因するのか、考えるいいきっかけになるだろう。
あいにく私は見に行くことはなかったが、だいたいどういう展示なのかはイメージできる。荒療治的なイベントであり、鑑賞者の炎上含めて、主催者の狙い通りになったように思う。

今度は逆に韓国で炎上するようなアートイベントを開催すると、互いの理解がより深まるのではないだろうか。たぶん、できないだろうけれど。