40代ロスジェネの明るいブログ

2020年1月11日からリスタート

感想文20-25:人工培養された脳は「誰」なのか

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タイトルはキャッチーだ。とはいえ、本書の内容とタイトルは乖離している。こういうときは、原題をチェックするに限る。表紙に載っているとおり、原題は『How to grow a human -Adventures in Who we are and How we are made-』で、ヒトの培養法-私たちは誰でどうやって作られるのかの冒険-という感じだろうか。

本書はたしかに、細胞の培養と生命に関係性について書かれている。本書が書かれるきっかけとなったのは、著者の皮膚細胞をiPS細胞化し、それを神経細胞へと分化させたことだ。題名のような「脳」を人工培養しているわけではないし、現実の科学はそこまでできてない。

本書は決して現代の生命科学研究を否定したり、批判したりしていない。むしろ丹念に研究の歴史を整理し、関連する様々な出来事(多くはその応用事例や社会の反発や受容)について丁寧に解説している。そして本書で面白いのは、わかりやすさのための「物語」に警鐘を鳴らしていることだ。

物語は、決して悪いものではない。それどころか必要不可欠で、光明をもたらしてくれることもある。物語は、人間が世界を理解する方法、因果関係や物事の背景にある理由を探り出そうとする本能に、うまくはまるからだ。ただ、そこには危険性もある。物語を、物事のありかたを説明したものと取り違えてしまう危険性だ。(p.10)

生命科学によって私たちは新しい知識を得ることができたのだが、その新しい知識は生きている私たちに直結しているので、往々にして本能的に「物語」を求めてしまう。学生時代に遺伝学について学んだ私も物語に支配されていた。物語がある方が安心できるのだ。そして一度、刷り込まれた物語は拭い去ることは極めて難しい。

問題なのは、あまりにも不穏で気味の悪い目に浮かぶような可能性に向き合わせれると、人はそれを自分の思考の枠にはめるために物語を必要とするらしいことだ。(p.22)

生命についての科学が進展する一方で、その研究成果に困惑することもある。原理的に何ができて、何ができなくて、そして倫理的に何をしてはいけなくて、何をすることは許されるのか。

科学でできることは拡張していく。しかし規制の線引きは宗教観や倫理観で左右される。その規制も禁止なのか、許可制なのか、届出制なのかで異なる。許可制であってもその手続が煩雑なのか簡素なのかでも異なる。

そしてその宗教観や倫理観は、求めてしまった「物語」に引きずられてしまう。私は生命科学の規制は謙抑的であるべきという立場であり、実際に現状は過度に規制されていると考えている。とはいえ、宗教観や倫理観を否定しないし、一般の方がいだく生命科学に対する不信やおどろおどろしさについてもある程度は理解できる。

しかし、科学者とメディアがわかりやすさのための「物語」を利用してきたことが、現状を生み出してしまったとも言える。「ヒトゲノムは人間の設計図」というわかりやすい物語が、ゲノム情報を過度に保護し、その利用を制限してきた。ヒトゲノムが個別の表現型と一対一対応するようなケースは極めて限定的なのだが、そういう理解に至るまで長い時間を要した。エピゲノムがあんまり浸透しない原因でもある。また、遺伝子検査のビジネス展開はこの物語を付加価値へと変えたとも言える。

他の「物語」はどうだろうか。ES細胞やiPS細胞を「万能細胞」と呼称したこと、受精卵を「生命の萌芽」と位置づけたこと、原始線条の形成が痛みの感覚を生み出すと言い出したこと、もっと前では体外受精児を試験管ベイビーと名付けたこと。

物語、日本ではキャッチコピーに近いかもしれないが、安易な簡略化やわかりやすさが、生命現象の複雑や説明のつかなさを希釈し、結果的に社会の受容やビジネス展開にまで影響を与えてしまっている。

一度、広まった物語は固着してしまう。新たな研究によって例外が見つかったとしても、その例外によってさらに根幹に重要なメカニズムが見つかったとしても、物語は残ってしまう。

さて、もう一つの本書の重要なポイントは、細胞が分裂することが生命の根幹だと主張している点だ。

細胞・分子生物学者や遺伝学者たちは、細胞が自ら増殖する仕組みを現象的に理解している。しかし細胞がなぜそうするのかの説明はとてもむずかしく、ほとんどの生物学者は考えたこともないと言っていいだろう。しかし、細胞のその“衝動”が、ダーウィン的進化の原動力であり、ひいては生物学のあらゆる重要な出来事の根本を成しているのだ。(p.41)

細胞は、単に存続しているだけではない。きわめて重要なことに、細胞は複製できる。自らのコピーをつくれるのだ。結局のところ、細胞の複製と増殖が、進化を促した。生命とは、この細胞の繁殖を可能にしている何かではない。むしろ、それ自体が生命なのだ。(p.42)

90年代後半から00年代前半にかけては、生命の本質はゲノム情報と捉えられていたように思う。まさに「設計図」であり、ATGCの共通コードが生命を描いているという物語が吹聴されていた。その後、トランスクリプトーム、プロテオーム、メタボロームへと広がっていくのだが、解析される情報量が増えていく一方で、情報は生命からは遠ざかっていくように感じられた。

そのような中で、多能性幹細胞の研究が進展し、ゲノム編集による合成生物学(感想文18-20)が盛んになり、細胞それ自体を統合的に捉える研究が進められた。もちろん全貌は見えていない。オルガネラと呼ばれる細胞小器官があり、エネルギー生産、貯蔵、輸送をしている。しかし、詳細な機能やメカニズムははっきりしないし、最近ではメンブレンレスオルガネラという膜のないオルガネラ(分子の凝集)というコンセプトが生まれるなど、エキサイティングな研究領域も登場している。細胞内共生説(感想文19-01)との関係が気になってくる。
 

生物の中の悪魔(感想文20-15)では『生命と非生命を分け隔てるのは、「情報」』と主張し、さらに量子効果へと展開していく。著者が理論物理学者ということもあろう。要素還元論的に分解し、情報と統合する、これが一つの方向性として考えられる。
生命をどのように科学していくかに正解はない(流行り廃りはあるだろうが)。しかし、本書のように進化を射程に入れると、細胞とその分裂(複製の形成)が生命の本質と見ていくのは興味深い。

染色体異常の蓄積が-そのせいで原理上でさえ、たとえばヒーラを使ってヒトのクローンをつくることは不可能だが-細胞自体の生命力をまったく減少させていないらしいことだ。染色体異常に対するこの回復力は、ヒーラ細胞がゲノムのほんの一部しか使う必要がないことを示している。必要なのは、分裂し続けることだけなのだ。(p.146)

HeLa細胞のゲノムはエラーだらけ!ではヒーラ細胞がエラーだらけでこれからも研究に使い続けることに疑問を呈している。多くの染色体異常が見られ、これがヒトのモデルとなる細胞かと言われれば確かに、ちょっとあかんなとうなずける。

一方で、こんなに染色体異常が起きていても、分裂する能力は衰えていない。これは逆に興味深い。じゃあ、分裂能力に染色体やゲノムはあんまり関係ないのか。分裂し続けることが生命の本質だとしたら、染色体やゲノムのエラーなんて気にする必要ないんじゃないか。(ヒーラ細胞の歴史的経緯や倫理問題については不死細胞ヒーラ(感想文11-29)をご参照)

「物語」と「細胞増殖(あるいは培養)」の2つの側面からこれまでの生命科学の歴史を考えていくというのは、新鮮な経験だった。1951年ヒーラ細胞樹立、1977年ヒトEC細胞樹立、1978年体外受精の成功、1998年ヒトES細胞樹立、2007年ヒトiPS細胞樹立、2018年ゲノム編集によるヒトの誕生、というのがざっっくりのヒト限定での流れ。

本書で驚きだったのが、ヒトの発生や分化の研究で良くも悪くもアジアの存在感が大きいことだ。iPS細胞が日本で生まれたことは喜ばしいニュースだが、その少し前には韓国での研究不正、iPS後の日本での研究不正、そして中国でのヒトへのゲノム編集の適用とその後のゴタゴタだ。

本書では、議論を巻き起こしてきた様々な研究や生み出された技術の適用について書かれている。体外受精と凍結受精卵、受精卵の研究利用、卵子の採取、研究目的での胚作成、多能性幹細胞からの生殖細胞の作成、作成された生殖細胞による胚作成、着床前診断(PGD)、iPS細胞からの胚作成とPGDによる胚の選別、トランスヒューマニズムなどなど。そして邦題のように神経細胞の培養へと到達していく。

無邪気に受け入れてしまいがちな「物語」に注意しながら、生命科学の行く末をこれからもウォッチしていきたい。