40代ロスジェネの明るいブログ

2020年1月11日からリスタート

感想文20-27:相分離生物学

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私は高校時代に理科は化学と物理を学んだ。大学は理系に進もうと思っていたが、あいにく男子校生活に嫌気が差し、男子割合の高い理学部や工学部は早々に選択肢から外した。残るは医学部系か農学部という感じで、残念ながら血と病院が嫌いという理由だけで、農学部を選択した。

あいにく農業に強い関心はなく、まあ動物が好きかなと言うことで畜産関係の学科に進むことになったが、そこで小さな挫折を味わう。生物学の基礎的な知識がなかったのだ。DNAもRNAセントラルドグマも(当然、同年代の女性との接し方も)知らない。そんな大学1年生だった。

90年代後半でヒトゲノム計画が進み、ヒトES細胞が樹立され、生命科学がもてはやされつつあった時代の頃だ。DNAが化学物質であることを知り、それが二重らせんであることを知り、アミノ酸をコードしていることを知り、アミノ酸が連なってタンパク質になることを知る。DNAが折りたたまれて収納されたのが染色体であることを知り、ヒトには染色体が23対あることを知り、性染色体の存在を知り、減数分裂によって生殖細胞が作られることを知る。

自分の体でも同様のことが起きていることを知り、学生実験でDNAを抽出して、PCRで増幅して、一部を解読して不思議な気持ちになる。4年後に別の大学の医学系の院生(病院嫌いだったのに!)になり、分厚くて重くて高い書籍「ヒトの分子遺伝学」で勉強し、分かった気になり、分からなくなり、また分かった気になるを繰り返した。

生物学を一通り学んだ気になっていたが、そうではなかった。私が学んだのは生物学全体のごく一部であり、ウイルスや免疫や植物についてはさっぱり門外漢だった。社会人になり、仕事で関係するので勉強するが、自分自身の知らなさや理解の足りなさに失望すると同時に、新しく知ったことで世界の認識が変わることに驚き、興奮した。

いつものようにムダに書き出しが長い。

本書は、新しい生物学の方位磁針となる書籍だ。聞き慣れない「相分離生物学」という新しいカテゴリー。この名称が定着するかどうかはもう少し時間を経ないとわからないが、この新たな切り口の生物学が今現在、極めてホットになっているのは確かだ。

この分野を“相分離生物学”と名付けたい。英語で表現するなら、Molecular Biology(分子生物学)とCell Biology(細胞生物学)の間にあるという意味を合わせて、Phasing Biology(相分離生物学)とよぶのがふさわしいだろう。(中略)分子と生命現象にはかなりのギャップがあった。その間をつなぐのが、この相分離生物学である。(p.5)

生物を知るためには、様々なフェーズがある。原子<分子<高分子<オルガネラ<細胞<組織<臓器<個体<個体群<生態系。開発された設備や機材で見える粒度が変わり、フェーズも細分化していく。

最近の技術の進展によって、高分子とオルガネラをまたぐところが見えるようになってきた。要するに分子と細胞を架橋する「何か」だ。細胞を見ていくと、細胞は細胞膜で覆われ、細胞核と細胞質がある。卵で言えば卵黄と卵白みたいなものだ(実際には卵黄が一つの細胞なのだけれど、あくまでたとえね)。細胞質にはオルガネラ(細胞小器官)と呼ばれる、小胞体、リボソーム、リソソーム、ゴルジ体、ミトコンドリアなどがある。植物細胞だったら葉緑体がある。進化の観点で言えば細胞内共生(感想文19-01)が関わってくる。
300年前のレーウェンフック(感想文09-29)の頃から格段に顕微鏡の性能は良くなり、さらに画像処理技術が合わさることによって、細胞の細かいところまで、しかも生きたまま見れるようになってきた。そうなってくるとオルガネラの概念が拡張していく。

膜のないオルガネラは、液-液相分離(liquid-liquid phase separation, LLPS)して形成されているのが共通した特徴だ。液-液相分離とは、溶質が均一に交じり合わず、2相に分離する現象のことをいう。(p.3)

膜のないオルガネラ、つまりはメンブレンレス・オルガネラだ。膜がないけれど、液-液相分離によって液滴(ドロップレット)を形成して、それが生命現象に関わっている。これが本書の主題となるポイントだ。

生物学的相分離による“区画化”と、アクティブマターによる“動き”がリンクしたものが、物理学から理解する生命現象である。このようなミクロとマクロの間にあるメソスコピック領域を見る視点が生命の理解には不可欠だ。(p.8)

生物の中の悪魔(感想文20-15)では、生命は化学と情報の融合体とされた。他方で人工培養された脳は「誰」なのか(感想文20-25)では、細胞とその分裂(複製の形成)が生命の本質という説明だった。生命の捉え方は多様で良いと思うが、生命現象を科学的に記述しようとした場合、2つの本の主張に隔たりがあった。つまり、分子(情報と化学)と細胞ではまだ遠いのだ。

相分離生物学は誕生し、分子を観察する装置の解像度を上げるだけでは生命現象の本質には迫れないことに気づき始めた人が増えたのはよいことである。現象とは、分子と状態との組合せだからである。(中略)つまり、これまで生命現象をよく説明してきた構造機能相関とともに、状態機能相関という見方があわさることで、新しい生物学が展開されていくことになる。(p.160)

そうして新しい生物学の勃興しつつある。化学、情報科学、画像処理だけでなく、ドロップレットやアクティブマターといった物性物理学とも融合していく。

あえて誤解を恐れずに言えば、ようやく生物学が科学になってきたと言える。生物を物理現象として記述し、それが生命現象に等しくなる。いや、時期尚早かもしれないけれど。

さて、これから短期的に成果が出るのは、タンパク質関連の研究だろう。特定のタンパク質の立体構造(一つの構造かもしれないし他構造かもしれない)と機能の関係を研究する構造生物学に加えて、タンパク質の状態、つまり分散、ドロップレット、凝集体と機能の関係性が研究されていくだろう。

特に長年、分かっていなかった病気関連、例えばアルツハイマー病におけるアミロイドβプリオン病のプリオンタンパク質などは医薬品開発といった実用化への期待もあり、激しい競争があるだろう。基礎研究の観点では、オートファジーとの関係、特異的タンパク質の分解制御、代謝経路や新規酵素の設計といったところだろうか。他にもたくさんテーマを作れそうではある。

いずれにせよこのホットな分野が今後どうなっていくか楽しみだ。研究のすべてを理解しているわけでは到底ないが、新たな地平が拓かれていく予感に触れられるだけでも幸せなことだ。