40代ロスジェネの明るいブログ

2020年1月11日からリスタート

感想文08-15:死因不明社会

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※2008年4月7日のYahoo!ブログを再掲

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本書は、言わずと知れたチームバチスタの栄光の著者である海堂尊さんが書いている。そしてこれは小説ではない。新書で、しかもブルーバックス(自然科学をやさしく紹介するシリーズ)なのだ。

バチスタではAiが紹介され、この技術が最終的に犯人を突き止める鍵となった。本書ではAiを死因究明のために不可欠なツールであるとし、そしてAi不在の現代医療、つまりなぜ患者が死んだのか分からないという状況は、現代社会の大きな問題の一つであると主張している。

日本の解剖率はわずか2%である。これが何を意味しているのか。なぜその人が亡くなったのかは死亡時検索をしないと分からない。生きている間に様々な医療が施されるが、死んだ時点ではどうして死んだのか分からない。つまり、これまでの医療が効果的であったのかどうか、死というエンドポイントで検証されていないことを意味する。

Aiがどういう役割を果たすか、そして解剖とどういう相互補完関係にあるか、Aiを導入することで現在の医療がどのように改善されるかが、本書に丁寧に記されている。バチスタに登場する厚労省官僚の白鳥氏も登場する。架空インタビューが掲載されていて、鋭い毒が描かれている。

ぼくは以前解剖制度について調べていたことがあった。著者とは観点・目的が違うけれど、調べていくうちに、日本では愕然とするほど解剖が実施されていないこと、そしてまともな死亡統計もなく医療が行われていることを知った。

病理解剖の分野では、解剖の大切さを知っている一部の現場の医師たちは、大学に掛け合い、独自の解剖制度を設計していた。

東京都監察医務院では、東京都23区だけでしか行政解剖がまともに行われていないことを危惧しながらも、それでも必死に毎日懸命に解剖を行っている現状を知った。

さらに解剖の分野自体に全くと言っていいほど資金が投入されていないこと、そして今後もその状況は変わらないだろうと関係者は皆考えていることを知った。

この件については色々と書きたいことがあるけれど、読書感想文という趣旨をあまりに逸脱してしまうので、改めきちんとまとめて書こうと思う。本書で改めて知ったこと、そして考えたことを書いてみようと思う。

「医療事故調査は死因究明の中でごく限られた範囲でしかない」ということだ。さらに突っ込んで言うと「死因究明制度という大枠の議論なしに、医療事故(診療関連死)だけ制度設計するのは問題を矮小化させている」ということになる。

これは(も)「厚労行政の不作為」であると著者は言う。確かにそういって差し支えないと思う。ただし、これが即罪として問われるかには議論があるだろう。

書いているうちに困ってきた。本書で書かれている趣旨があまりに正当なので、つけいる隙がない。あまりに正当であるからこそツマラナイ本もあるけれど、本書は制度設計についても提案している。ここまで死因究明制度について語っている新書はなかっただろう。書くことが無くなってきたので、ちょっと逸脱。

役所の仕事に経済効率や経営的観点は馴染まない。なぜなら、儲けの出る業務であるなら役所がやらなくて良いからだ。国が関わる業務は、儲けが出ないけれど国民のために必要であると考えられる業務だ。これは一つの思想(小さな政府論)であるから、これが最善とは断定できないけれど、その方向で現在日本は動いている、と思う。

ただ、今の世論は、役所も民間を見習うべきだとか、民間ではこんなことにならないとか、さも民間が最善であるかのような(役所は酷いという実態は一先ず置いといても)ストーリーになっている。民間がやらないような、できないような、それでも誰かがしないと回り回ってみんな困るんだよという仕事「だけ」を政府がしましょうという方針になっている中で、経済効率を求められることによっていろんな所に歪みが生じている。

その好例が医療だ。医療費が膨大にかかっているという。もっと経済的に医療にお金を使おう。医療費を抑制しよう。正しいのかも知れない。でも結果、医療は崩壊しつつある。リスキーな医療には手を出さないし、お客の少ない地方の病院は潰れていく。

ぼくはそれでも楽観的に未来を想っている。日本はこれ以上の大きな経済成長が見込めない。(ぼくよりももっと)若い世代はクールにドライに現実を見つめていて、そのことを知っている。そういう人間が舵を握るようになって、新しい時代が来るのだと思う。

「無知は罪」と著者は最後に述べている。無知であることはもはや罪であると糾弾される時代になりつつある。息苦しいかも知れないが、「知らなかった」では済まされない事態に陥ることもありうるのだ。

でもぼくはもう一言付け加えたい。「知っているよ」という態度で失敗することも間々あるということを。むしろ「知っている」と高をくくった態度でいる時の方が、「知らない」でいる時よりも、エラい目に合うリスクが高い。「自らが知っていることをいかに疑うか」、そして「知らないでいることをいかに知るか」、この2点を常に意識していることが、これからを乗り切る大事な二つの舵になると思う。

日々感じる閉塞感は、新しい時代の予兆かもしれない。今日より明日がほんの少しだけでも良くなっていることを祈って。
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(感想文の感想など)

死因究明等推進基本法が2020年4月1日より施行している。

同法の第15条(死因究明のための死体の科学調査の活用)において死亡時画像診断への言及があり、オートプシー・イメージング(Ai)の有用性が認められるようになった。
しかし現在のコロナ禍に死因究明制度は対応できていない。そもそもこういった新興感染症への対応として制度設計されていないように思える。

「死」の把握は今でも制度的に脆弱だ。感染が広がることについて敏感に反応するが、アウトカムである死の実数が判然としないことに鈍感だ。
公衆衛生学と法医学は近いようで随分と距離がある。両分野を統合していくのは面白いのではなかろうか。