※2013年8月14日のYahoo!ブログを再掲
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タイトルが気になって、ちょっと前から読みたかった本。テクノロジーと雇用の問題について書かれた、ちょっと珍しい視点の本。
コンテナ物語(感想文13-04)にあったように沖仲仕という仕事がコンテナによって失われた。確かに考えてみるとテクノロジー(あるいはビジネスモデル)によって失われた仕事は多いだろう。移動手段で言えば、籠屋とか馬車の御者とかはほとんどいない。音楽もレコードショップどころかCDショップも珍しくなっている。
コンピュータの発達によって、例えば車の自動運転が可能になれば、教習所の数はもっと少なくて済むし、自動翻訳の機能がさらに向上すれば、通訳という仕事もぐっと減るだろう。
私たちは、コンピュータリゼーションが根深い変化をもたらすとする点で、雇用喪失説に与する。
というようにコンピュータの発展によって、今の雇用が奪われるという説を著者は支持している。非常に興味深かったのが、
「チェス盤の法則」という用語で、
倍々ゲームでの増加すなわち指数関数的な増加は人を欺く
という考えを示している点だ。コンピュータリゼーションのまだ半分くらいでしかなく、ここからの指数関数の増大は、人間の想像力をはるかに超えるものではないかと著者は考えている。
振り返ると凄まじい勢いで、新しい道具が生み出されている。そして、ほとんど利用しきれていない。せいぜいコミュニケーション・ツールとしての活用であり、私の(願わくば他の多くの人間の)能力は追いついていない。追いついていないながらも、はっきりと何かとんでもないことが起きようとしているということは分かる。
汎用技術とは、経済学者の定義にしたがえば、通常の経済発展を加速(あるいは阻害)させるような、きわめて影響力の強い一握りの技術革新のことである。蒸気機関、電気、内燃機関などは汎用技術に該当する。
そして、ITやコンピュータも汎用技術であると考えられる。電灯がガス灯に取って代わったように、蒸気機関が馬車を駆逐したように、ITも何かの存在を歴史や思い出に変えてしまう。その一つが雇用かもしれない。
とはいえ、著者は悲観的になってはいない。
私たちはデジタルフロンティアが約束する未来を信じている。テクノロジーはすでに広大な面積のゆたかな土地を切り拓いたし、これからも切り拓くことだろう。
確かに失くなった仕事は多いが、新たに生まれた仕事も少なくない。雇用の進化論的な側面を感じてしまう。技術=環境が大きく変化し、適応できない雇用は死滅する。しかし、新しい環境に適した雇用が誕生し、再び豊かな雇用多様性が保持される。こういったダイナミックな雇用の変貌が起きているのだろう。
子どもたちが思い描く仕事は、自ら大人になったら存在しないのかもしれない。反対に子どもの頃にはなかった仕事に将来ついているのかもしれない。
本書で雇用についての記述について印象的なところを書きだしておく。
経済学者のエド・エルフによれば、1983~2009年にアメリカで創造された富の100%以上が世帯の上位20%で生じており、残り80%の世帯では同時期に富が減っているという。
(株)貧困大国アメリカ(感想文13-47)にあったようにアメリカではべらぼうな格差が生まれている。むしろ、現代版奴隷制度を合法的に策定しており、富を吸い取っているのだろう。
スキルの高い労働者に対する相対需要の増加は、技術の進歩とりわけデジタル技術の進歩と密接に相関すると報告されている。これが、「スキル偏重型技術革新(SBTC)」と呼ばれる所以である。
雇用(=需要)と考えれば、雇用が減れば、労働人口は減り、給与は下がる。しかし、スキルの高い労働についての需要が増えれば、反対に労働人口は増え、給与は上がる。対応できる労働者が希少であればあるほど、奪い合いが起こり、給与はぐんと上がる。こうして、格差は生じる。
一体どういう分野のスキルが希少で貴重になるかは予見することは難しいだろう。長期的には、参入規制などがなければ、労働者の供給量が増え、給料は下がるだろう。しかし、過渡期では雇用を喪失する人がいる一方で、非常に高い給与であちこちから引き抜きの誘いがある人の両方が混在することになるだろう。
所得の中央値が伸び悩んでいるのは、イノベーションが停滞しているからではない。まったくの逆で、人間の側のスキルや組織制度が技術の速い変化に追いついていないのである。
イノベーションは十分に起きすぎているのかもしれない。必要なのはイノベーションではなく、慣れるまでの時間なのだ。というよりもイノベーションが完遂していないとも言える。組織制度が追いついて初めてのイノベーションであり、単なる技術の革新は、初期段階にすぎない。
ラッダイト運動(Luddite Movement)は、イギリスで1811~1817年頃に起きた機械破壊運動である。産業革命によって登場した機械に職場を奪われた靴下職人が靴下製作機を破壊したり、農民が脱穀機を壊したりしたとされている。
人間とロボットの戦いは何だかSFチックであるが、200年以上も前に起きている。農民が脱穀機を壊す様は、愚かしい悲しさを感じるが、当時は切実だったのだろう。
仕事はその人のプライドと密接にリンクしている。その仕事を機械に取って代わられるのは、根本的な自分自身の存在価値を否定されることに近いのかもしれない。
技術は生産性を高め、余剰を増やした。これは確かにそうだ。ただし、全体として、という限定がある。ごく限られた幸運な人にとって技術は自らの価値を高めるのに寄与している。他の多くの人にとっては、価値を減らしたばかりではなく、価値を否定された場合すらある。
しかしそれでも私たちは機械と共存せねばならない。そこには競争という側面だけでなく、協力という側面も含まれているだろう。人間同士の協力を高めるために機械を活用することが、これからの人間に求められているのではないだろうか。
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(感想文の感想など)
公立小学校の状況は現代版のラッダイト運動に思える。
コロナ禍でオンライン授業は開催されない。体温を毎朝測り、そこに親がハンコを押して追認する管理方法。教育委員会からは落語が配信される。
家庭に押し付けられた教育には道徳まで含まれる。課題となった内容は、子どもが親に伝えず自由研究で遠出し、帰りが遅くなって、親が心配し、先生に連絡し、心配したじゃないかと怒られる、という話。
「どうすればよかっただろうか」と小3の次男に問いかける(そう問いかけろと教科書に書いてある)。事前に親に伝えておくとか、遅くならないように戻るとかが正解かなと思ってたら、「スマホかケータイ持っていけば連絡取れるよ」という現代っ子の解答で目が覚める。ホントそう。テクノロジーを使わない手はない。テクノロジーで解決するような問題を道徳で問うようなことは滑稽であり、時間の無駄である。
学校が再開されたら、社会科の授業で地図記号を覚えさせられる。地図記号は一体いつどこで使うんだろうか。発電所も果樹園も桑畑も見渡す限りどこにもない。
それからローマ字。本屋をhonyaと書いたらバツにされる。正解はhon'ya。honyaと書くとホンヤかホニャか区別がつかないからということだろうが、ホニャなんて日本語はない。そして本屋をhonyaとローマ字で書くようなシチュエーションもない。英語を嫌いにさせるがための教育にしか思えない。
どうやったら変わっていくんだろうか。頭が痛い。