40代ロスジェネの明るいブログ

2020年1月11日からリスタート

感想文11-47:株式会社という病

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※2011年12月7日のYahoo!ブログを再掲

 

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こちらもタイトルだけで買ってみた本。最近、本を買わないようにしようと思っていたけれど、ちょうど図書館で借りてた本がなかったので買った本。

著者の平川克美さんの本は初めてだけれど、なかなか面白かった。気になった箇所を挙げてみよう。

希望の中にいるとき、技術も金も問題を解決するよりは、新しい問題を発生させることのほうが多いかもしれないとは誰も考えない。 

確かにそうだ。希望は人を楽観的にさせる。いや楽観的な状況にいること自体が希望と言えるのかも知れない。

マネーやテクノロジーに対する無批判な信憑とでもいうべきものである。マネーも、テクノロジーも前世紀を牽引する文字通りのエンジンであったが、それはエンジンに過ぎず、万能性を有するものだといった信憑とは無縁のものであったはずである。

お金と技術に対するこういった冷水を浴びせるような辛辣な意見は、311以降の日本の現状からすると、しっくりくる。しかし、通常時にはどうしても無批判な状況になってしまいがちだと思う。

「人間とは、自分が意思することと別のことを実現してしまうような存在」であるということである。

禅問答のようだけれど、これも感覚的によく分かる。ずいぶん、タイトルと違うことが書かれているように思うだろうけれど、そろそろ本質に入っていきます。

問題は、株式会社はどうあるべきかというところにあるのではなく、株式会社というものが本来的に持っている限界についての認識を共有することである。(中略)そして、マネー神話や、テクノロジー神話と同様に、株式会社神話を、神話から解き放って本来の役割に落ち着かせる。

株式会社の限界。これは本来的に持っているものを意味している。そして、株式会社神話からの開放が本書の大きな目的になっている。

昨今の市場主義の隆盛や、それに伴う拝金主義的な風潮を見ていると、人間が会社に与える影響よりも、会社が人間に与える影響の方が、あまりにも大きくなり過ぎているように見える。(中略)私たちのものの見方が、じつは会社が作り出す価値観を色濃く反映したものになっている。

ホリエモン拝金(感想文11-04)を思い出す。哲学のない会社、違うな拝金主義を哲学とする会社が多い。拝金主義がすなわちダメとか言えないような相対主義的な世相の中で、価値観は多様化していない。株式会社という制度の性質上、拝金主義からは逃れることができず、結果的に拝金主義的な人間を生産しているのかもしれない。

そして、本書では、話が知性に変わっていく。

かれが同書の中で論じている、「不特定多数無限大の知が結集する巨大なデータベース」という考え方そのものが、新しい「反知性主義イデオロギー」でしかないように思えてきたのである。

かれっていうのは、梅田望夫さんのこと。同書っていうのは、あの有名なウェブ進化論。ぼくも読んだことがある。グーグルが目指しているのは知の再構築っていうことが書いてあって、たいそう刺激的を通り越して衝撃的。ところが平川さんによると「反知性主義イデオロギー」に思えてくるらしい。

情報を知と読み替えることこそ、市場化された「現在」を特徴づけている本質なのではないかと思っているのである。

どういうことかというと、そんなの知性でなくって、単なる情報の集合じゃないかと。検索でき、体系化され、再構築される。それって知性なのか。その読み替えが現在の本質ではないのか。うーーむ。

むしろインターネットの出現とそれに続く情報の氾濫によって、確実に人間は知性的であることの意味と知に対するマナーを見失ったとさえ考えるのである。

知性の意味とは。ぼくの考えでは、知らないことを知っていること、知っていることを疑えること、だと思っている。膨大な情報を集めて、体系化したものが知性と思ってしまっていることが、まさに反知性主義になっている、というのが著者の主張だろうし、これには同意する。

グーグルで検索すれば色んなことが分かる。魔法のように。でもこれが知性と思ってしまうと大間違いのとんちんかん。知性について意識的でなければ、きっと見失ってしまうだろう。むしろ、それを見失わせる性質があるように思える。

さて、本書は徐々に身体性の方にも話が広がっていく。内田樹さんのように。

一生かかっても付き合いきれない友人をつくること。一生かかっても使い切れない金を手にすること。一生かかかっても読み切れない情報にアクセス可能であること。これらは、合理性の名の下に、テクノロジーがそれを支援し拡大していった欲望の極めて現代的な形式である。それは、ヒューマン・スケールというものをどこかで、人間の欲望自身が追い越し一人歩きしてつくりあげた未来の幻想なのではないだろうか。

鋭く辛辣。ツイッターとかしてないけれど、1万人のフォロワーがいるとかそりゃすごいと思う一方で、1日3人と会っても10年かかるんだと考えるとちょっと虚しい。考え方によっては、技術がもはやヒューマン・スケールを拡張しているとも言える。1日3人と会っても10年かかるような人数に同時に連絡できるとも。

光を求める生活はそれだけ深い闇をつくり出すだろう

資本主義の高度化、都市化、利便性の向上、金融経済の発展といったものは、すべて

「光を集める生活」を人々が求めてきた結果である。

深い闇とは何か。ちょっとずつ顕在化してきてるんじゃない?って思いつつある。ウォーラーステイン史的システムとしての資本主義(感想文09-56)を思い出す。そろそろ資本主義は限界じゃない?

本書は株式会社の限界について本だったはず。でもそれは今の世界システム、つまりは資本主義の限界を指摘していることに等しいのだろう。

ぼくたちはどこに向かっているのだろうか。

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(感想文の感想など)

「大学改革」という病(感想文18-08)のように「○○という病」は一つの書籍タイトルのフォーマットになっている。

闇と病みのヤミが病という言葉にうまく内包されているイメージ。タイトルからどういうスタンスかは明白だけれど、病気になぞらえるのは個人的にはあんまり好かない。