※2015年5月19日のYahoo!ブログを再掲
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機械との競争(感想文13-49)は、コンピュータの発展によって、今の雇用が奪われると説いた。また同時に新しい雇用も生み出されるということも指摘していた。
機械と雇用に関して私が考えつく範囲だと、例えば車の自動運転がより正確に、より安全になると、タクシーの運転手(雇用の調整弁とよく言われている)の仕事はなくなるだろう。そして、さらには車を所有する人は減り、免許を持たない人が増えるだろう。
結果、教習所の教官たちの雇用も減るだろう。
仕事を失った人はどうなるのだろうか。そもそも車を運転できる、あるいは車の運転技術を教えることができるという技能が、機械に代替できる程度のものでしかないのだから、職を失っても仕方がないのだろうか。他の仕事に就くために、職業訓練を受けなければならないのかもしれないが、短期間で習得できる技能に高い給料が支払われることはないだろう。他方で自動運転の仕組みを生み出した技術者には多額の給料が支払われる。こうして格差は広がっていく。
念のため付け加えておくけれど、私は車の運転ができない(免許は持っているので、資格はあるけれど能力がない状態)。よって運転できるという技能は羨ましい。また希少価値のある技能を持っているわけでもない。私が失職したら、雇用の調整弁と言われるタクシーの運転手にすらなれない。このまま格差が広がると私は下層に位置付けられることになるだろう。やべぇ。
本書では、技術の進展により、現在の格差はより大きくなると予言しているが、その結果、恐ろしいディストピアが待ち受けていると予見していない点が面白い。
気になった箇所を挙げておこう。
賢い機械がもたらす革命は、仕事の世界をいっそうチーム志向に変えつつある。
機械が人間の協力を促す。一人の天才が新しい分野を切り拓くということは、無くなっていくのかもしれない。
労働市場を取り巻く環境の変化により、マネジメントに携わる人の給料がさらに高くなり、職場の士気がいっそう重視されるようになり、真面目で従順な働き手に対するニーズが高まる。高所得層の中で所得の格差が拡大し、知的能力の高いエリートの収入が大きく伸び、サービス分野でフリーランスとして働く人が多くなる。そして、技能の高くない人たちは職探しに苦労する。これが労働市場の未来像、新しい仕事の世界だ。
そういえば、うちの会社にも新入社員が来た。うちの部署には配属されていないけれど。新人歓迎の飲み会で少し話したけれど、真面目で従順な働き手のようだ。
博士を採用できない企業の“病”という記事で『採用の段階で重視されるのは、自社文脈を受け継ぐ人材に育つ“素直さ”と社内の秩序を壊さない“社会性”』とあり、日本企業側の問題点として指摘している。
他方で企業の気持ちも分かる。チームプレイが大事になっているのに、そういうことに適さない異能な人が来ると、職場の士気が低下する。
いやいや、よくよく考えるとそもそも研究分野も連携が重要視されていて、チームプレイできない人は研究者にすらなれないかもしれない。よって、博士の多くは社会性はあるはず。素直ではないかもしれないけれど。
多くの地域では、少なくとも高学歴・高所得層の「空洞化」が進む。(中略)観光客向けの土地、引退生活者向けの土地、家族の支援や政府の支援に頼って生活する人向けの土地という性格を強めていく地域も出てくるだろう。
格差が広がり、多様な層の人間が同じ地域で生活するような状況から、同じ層の人間が同じ地域で生活するようになる。当然、地域によって受けられる行政サービスにも格差が生じるだろう。
誤解を恐れずに言えば、科学は「理解困難」という点で宗教や魔術に近いものになるだろう。(中略)それでも、私たちは消費者として、そして働き手として、その魔術の産物に触れ続けるのだ。
科学についての言及もあり、興味深く読んだ。先端の物理学は、もはや頭で想像することは困難であり、現実世界に基づく直観から大きくかけ離れている。イギリス出身のSF作家であるアーサー・C・クラークの言葉『充分に発達した科学技術は、魔法と見分けが付かない』を思い出す。
私たちは次第に、データ処理中心の退屈で官僚的な科学を目の当たりにすることが増えるだろう。一方、科学が生み出す製品やサービスの水準もいっそう向上する。しかし、非専門家の知識層が世界を理解するための手段としての科学理論は、21世紀のいずれかの時点を境に、存在感を弱めていくことになりそうだ。
データ処理中心の退屈で官僚的な科学とはよく言ったもので、とにかくデータを集め、分析し、結果を出すような科学研究が横行している。そこに仮説はもはやなく、よって理論も失われていくのかもしれない。私は根っからの実証主義者だが、大量データ解析と言い訳のような理論構築は、高い知性が要求されるような仕事ではなくなっていくのかもしれない。
既存の学問分野の枠を超えて、実証的社会科学の統合が進んでいると言っても過言ではない。その統合された「社会科学」の研究者たちは、実証研究のテクニックの習得に多くの時間とエネルギーを費やし、副次的に、自分の選んだ研究テーマに関わるシンプルな理論を学ぶ。そしてそのうえで、データを探したり、さまざまな調査やラボ実験、フィールド実験によりデータを生成したりする。
特に経済学は理論から実証へと大きくシフトしている。実証研究のテクニックの習得はそんなにも難しくない、と思う。なぜなら、もはや簡単に分析してくれるようなソフトを安価に手に入れることができるのだから。むしろデータを探し出すことが難しく、逆にデータを持っている企業に優位性はある。また、仮説もさほど重要でなくなるだろう。なぜなら、機械がデータの山から仮説を見つけ出すようなことすらできるようになっているのだから。
「知性」という社会的地位の源泉をもっている知識層と、「富」という社会的地位の源泉をもっている富裕層は、社会における敬意を奪い合う関係にあるからなのかもしれない。
知識層と富裕層の飽くなきバトルは、日本でも頻発している。株式会社という病(感想文11-47)にあるように『知に対するマナーを見失った』のかもしれない。圧倒的な情報量とデータ、検索機能や人工知能の存在により、私たちが本来抱いていたはずの知性や知識に対する畏敬や憧憬のような感情を失いつつあると思う。改めてアメリカにおける反知性主義についての本を読んでみたい。
アメリカに訪れる最も確実で重要な変化は、高齢化が大幅に進むことだ。高齢化が進行すれば、社会は保守化する。
日本も同じ。じいさんばあさんばかりの国になる。
その未来は奇妙に平穏な時代だ。社会の高齢化と安価な娯楽の増加がそういう時代をもたらす。(中略)共産主義ではなく、資本主義がつくり出すユートピアである。
格差が大きくなっても世界はディストピアにはならない。なぜなら荒れたりはたまた革命を起こすようなエネルギーを抱えた若者が相対的に少ない(絶対的にも少ない)からだ。自爆する若者たち(感想文13-43)にあるように若者の人口比が高いと暴動や虐殺が起きる可能性が高くなる。仕事が減り、格差が拡大し、貧困者が増えても、老人ばかりでは暴動は起きない。管理する側にとっては都合の良い世界になるかもしれない。
たまたま先日、飲み会の席で老後に何をして過ごすかという話になった。本を読んで、ゲームでもして過ごせれば、それでハッピーだなぁと思う。たいして費用はかからない。それなりに幸せかもしれない。
アメリカは資本主義がつくり出すユートピアへと移行していく。格差に怒れる人々が革命を起こし、多くの血が流れ、新しい制度設計の下に新しい世界秩序が生み出されるということはない。
しかしながら、ゆっくりとだが確実に死へと近づいているのかもしれない。若者たちは自爆し、老人たちは自滅する。自爆する世界と自滅する世界が同時代に存在しているのだが、自滅は緩慢に進むので、その世界の中にいても変化には気づきにくいだろう。
私たちを取り巻く世界はどう変わっていくのだろうか。殺されたりしないのであれば、楽しく看取っていきたい。
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(感想文の感想など)
先日、都内を自転車で走っていたら、たくさんのUber Eatsの配達人を見かけた。コロナの影響で外食でお客さんが来ないから食べ物を運んでほしいという需要が増えたと同時に、コロナで仕事がなくなり食いつなぐためにUber Eatsで働きたいという労働者も増えた。
タクシーが雇用の調整弁と呼ばれた時代は過ぎ去り、Uber Eatsが調整弁を担っている。本書を読んだ2015年当時には思いもしなかったことだ。
科学がデータ処理中心の退屈で官僚的になっているかというとそうでもない。データ処理のその先、社会科学であれば介入やビジネス展開であり、生物学であれば工学的に生物や生命をハックする方向へとシフトしている。
本書ではなく感想文しかを読んでないけれど、なかなか未来を予想するのは難しいなと感じるところ。