40代ロスジェネの明るいブログ

2020年1月11日からリスタート

感想文10-79:これが「教養」だ

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※2010年10月20日Yahoo!ブログを再掲

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なんでこの本を手にしたのか、そのきっかけは全然憶えていないけれど、「教養」という言葉には独特な重みがあるように感じる。酔っ払った上司から「君は教養がないね」と教養の欠片も感じさせないコメントを頂戴した経験のある人は決して少なくないだろう。

辞書を引いてみよう。

「社会人として必要な広い文化的な知識。また、それによって養われた品位。」

この定義によって、教養がないというサジェスチョンは、社会人として失格という烙印を押されたに等しいほどの破壊力を有することになる。こんなことを言われると、はっきり言ってショックだ。

もう一つ他の定義があった。

「単なる知識ではなく、人間がその素質を精神的・全人的に開化・発展させるために学び養われる学問や芸術など。」

ちょっと高尚すぎてよう分からない。知識ではなく、もっと体系的な学問といった、大きく立体的で流動的な感じだろうか。広く学問を把握し、また自分の分野を探求していれば、教養があるということになるのかもしれない。

さて、本書は、こういった「教養」にまつわる誤解を解こうとしている。

何?今の辞書的な説明は嘘なの?というツッコミに対しては、はっきりと「誤解です」と言わざるを得ない。この本ではそう書いてある。

そもそも教養というのは、18世紀後半に登場したわりと新しい概念だ。18世紀広範に何が起きたかというと、これはもうフランス革命にほかならない。フランス革命によって「自由」と「平等」の制度が設計され、仕組みは連綿と現代にまで引き継がれている。

自由で平等な市民による社会が形作られるようになって、困ったことになってきた。公的な役割と私的な役割の衝突を巧みに回避する能力が求められるようになった。現代で言えば、仕事と育児だったりするわけだ。こういう状況で生まれたのがまさに「教養」というコンセプトだ。

公的な生活と私的な生活のこのような衝突という難問を巧みに解決する能力こそ「教養」と呼ばれるべきものであると私は考えます。(中略)一人の人間が帰属している複数の社会集団、組織のあいだの利害を調整する能力ということになるでございましょう。

教養とは、「公共圏と私生活圏を統合する生活の能力」のことであります。

教養とは決疑論的な問題解決の能力であり、決疑論的に問題を解決するこのとできる人間

うーむ。教養=組織の利害調整能力ってなると、ずいぶんと辞書的な意味とは異なっている。っていうか、全くの別物だ。組織の利害調整能力がある人に対して、教養があるね、という評価が下されることはないだろう。ということで、

教養について語る作業の多くは、教養を教養でないものから切り離す作業というものによって占められることになります。言い換えますと、教養について語る言葉の大部分は、教養をめぐる誤解について語る言葉ということになってまいります。そして、教養の歴史とは教養の誤解の歴史であることが否応なく明らかになってまいります。

教養って言葉が完全に間違って日本では定着してしまっているこの現状を本書では明らかにしている。どこでどう間違ってきたかというと、フンボルトだそうだ。ドイツっていうか正確にはプロイセンで、大学改革を断行したのが、ヴィルヘルム・フォン・フンボルト。その理念が教養と呼ばれるものになっていった。

ちなみに、フンボルト海流とかフンボルトペンギンで有名なのは、ヴィルヘルムの弟であるアレクサンダー・フォン・フンボルト。全然働いた分野が違う兄弟だったんだね。

「大学と専門学校の違いはパンキョーの有無にある」という考え方、つまり、一般教養のない大学は大学の名に値しないという主張は、フンボルト以来の「大学の理念」、具体的には、大学教育の目的を、社会に役立つ専門家を育てることではなく、教養を完成させることに求める考え方にもとづくものなんであります。

そういえば、あったなパンキョー。ほとんど何を話しているかさっぱり理解できなかった。ずーっと、これって何かの役に立つんだろうか、と思いながら単位のために受けていた。辞書でいう二つ目の定義だね。

フンボルトが考えます大学の教育と申しますのは、それ自体が目的であり、まあ、「人格の陶冶」でありますとか、「人格の形成」でありますとか、そのようなもの、つまりヘルダーやその同時代人の理解した意味での教養というものが、最終的な到達点に定められているんであります。

人格の陶冶…。今どきさっぱり流行りそうにない。大学の教育が企業のニーズにフィットしないのは、そもそもフンボルトの理念が、金持ちで貴族のごく一部の上流階級層だけが大学に入学していた時代だからだ。大卒者率が50%を超える今となっては、人格の陶冶といった高尚な思想は、もはや受け入れられないだろう。

その結果、一部を除き、大学そのもの価値は失われつつある。大学に入る能力だけが評価対象となり、大学で学んだことについては一部の理系以外ではほとんど考慮されないといって良いだろう。

フンボルトの教育改革、それは、教養と古典という二つのものを学校教育に取り込むことを目指すものでありました。そして、それは教養をめぐる深刻な誤解、そして、古典をめぐる深刻な誤解、この二つの誤解を前提とし、また、これを強化するような役割を担うことになりました。

この感想文では古典のことは取り上げないけれど、フンボルトの教育改革は、何とも二つの深刻な誤解の上に成り立っていて、現代になってどうも変な風に教養が崇高なものとして認識され、そして大学の役割が完全に社会から浮いたものになってしまっている。

真の意味での教養、つまり組織間の利害調整能力は、現代社会では結構求められるし、ピースミール的にしか問題を解決できない状況において必須だ。古典を読んだり、実学を忌避したり、そういったことは、教養を身につけるということではない。なので、迂闊に酔っ払った上司の言葉を真に受けてはいけないのだ。

とはいえ、いまや「真の教養」は、査定の対象にすらなりつつある。生きにくい世の中ではあるけれど、サバイブするために野性的な教養を磨いていくことが必須になるだろう。

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(感想文の感想など)

本書が出版されて以降、教養についての誤解は解けることはなかったようだ。よって、「教養」という言葉は今でもあんまり好きになれない。