※2016年4月5日のYahoo!ブログを再掲
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義貞の旗(感想文16-05)に続く安部龍太郎さんの歴史小説。しかも南北朝時代のことなので、完全に重なっている。タイトルの道誉と正成とは、佐々木道誉(1296-1373)と楠木正成(1294-1336)のこと。
佐々木道誉については私はその名を存じあげなかった。ウィキペディアによると
初めは執権・北条高時に御相伴衆として仕えるが、のちに後醍醐天皇の綸旨を受け鎌倉幕府を倒すべく兵を挙げた足利尊氏に従い、武士の支持を得られなかった後醍醐天皇の建武の新政から尊氏と共に離れ、尊氏の開いた室町幕府において政所執事や6ヶ国の守護を兼ねた。
とある。それから
ばさらと呼ばれる南北朝時代の美意識を持つ婆沙羅大名として知られ、『太平記』には謀を廻らし権威を嘲笑し粋に振舞う導誉の逸話を多く記している。
ともある。ばさら。戦国BASARAのばさらなのか。時代が違うけれども。
こうして2つの南北朝時代を異なる側面から描いた小説を読んで、それなりにこの時代のことが分かってきた気がする。そもそも話がややこしいのだ。
ことの発端は、『神領興行法』だ。これは、『神仏の所領を正当な持ち主に返して再興』するという意味だ。
日本はもともと神仏の国であり、寺社を尊重してこそ夷狄を撃退できる、という信仰を前面に出した復古政策だった。(中略)楠木家のような商業的武士団がこれに反発して自力で所領や船を守ろうとすると、神仏に反する謀叛人という意味をこめて「悪党」と呼び、武力によって弾圧するようになった。
この政策によって、武士団が所有する土地を幕府が奪おうとした。その結果、商業的武士団が反発して後醍醐天皇を見方にして討幕運動につながり、元弘の乱(1331-1333)を引き起こす。
後醍醐天皇&楠木正成VS鎌倉幕府という図式で、結果としては後醍醐天皇は捕まり隠岐島へ流刑となる。正成はうまく逃げる。
後醍醐天皇の息子である護良親王と正成は協力し、鎌倉幕府に反撃開始。後醍醐天皇が隠岐島を脱出。幕府側だった新田義貞が天皇側につき、勢いづき、統幕成功。こうして鎌倉幕府は終わる。
これでハッピーエンドにならないのが、南北朝時代の面白いというかややこしいところ。
後醍醐天皇が天皇親政を開始するが、武士の働きを評価しない。これに武士である足利尊氏たちがキレて離脱。こうして、後醍醐天皇&楠木正成&新田義貞VS足利尊氏という構図になるが、結局、足利尊氏が九州を手に入れ、勢力を増大し、後醍醐天皇を京都から追い出す。
尊氏は光明天皇を新しい天皇にして京都朝廷(北朝)をつくる。一方で後醍醐元天皇は奈良で吉野朝廷(南朝)をつくる。こうして南北朝時代になるが、尊氏が勝利し、後醍醐元天皇は病死する。
義貞の旗(感想文16-05)と同様、後醍醐天皇を無能に描き、息子である護良親王を優れた人物として描いている。
天皇親政の世をきずきたいという後醍醐天皇の理想は、道誉も承知している。その強い信念があったからこそ、鎌倉幕府を倒すことができた。だがこの3年間の親政は、目をおおいたくなるほどひどいものだった。主上が権力をほしいままにし、天下万民の平安よりご自身の理想を実現することを優先されたからだ。(中略)後醍醐天皇はあまりに強い信念を持っておられたがゆえに、それが執着となってこの国に災いをもたらしたのである。
理想や信念さえ執着になる。後醍醐天皇は権力の虜となり、現実より理想を追求した。現代の政治とも通じるものがある。
本書の主人公である佐々木道誉は、本書が終わる物語の後、長生きし、晩年は室町幕府の最高権力者となる。その頃を描いた小説も読んでみたい。
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(感想文の感想など)
新田義貞も楠木正成も40前後で若くして戦死するが、佐々木道誉は76歳まで長生きした。婆娑羅大名であり、知略・計略に長け、今風に言えば足利尊氏というか室町時代のフィクサーって感じだろうか。フランス革命のタレーラン的な。違うか。