40代ロスジェネの明るいブログ

2020年1月11日からリスタート

感想文18-54:一発屋芸人列伝

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※2018年12月5日のYahoo!ブログを再掲

 

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一発屋芸人」と聞いてあなたは誰を思い浮かべるだろうか。私にとっては「くまだまさし」かな。

芸人として定常的に稼げる人はごく一部であり、一発どころかかすりもせず、華やかな世界の余韻を味わう機会もなく、消えてしまった芸人がほとんどだ。親しい人を除いて、ほぼ認知されることなく儚く消えていく。どこよりも厳しい競争社会だ。

そういえば、新高円寺駅付近の焼肉屋でも自称芸人がバイトしていた。私のバスケ仲間でも芸人になると言って、いなくなった人もいた。今でも芸人として活動しているのだろうか。

一発屋芸人という言葉には、尊敬と侮蔑の念が入り混じっている。本書の著者は、山田ルイ53世。言わずとしれた「ルネッサ~ンス」で一世を風靡したあの芸人である。調べないとすぐにコンビ名「髭男爵」が出てこないほど、私の中で記憶は風化しているのだが。

さて、ウィキペディアで著者を調べてみると、『兵庫県三木市出身で、六甲中学校に進学するが、中学2年生の夏頃から引きこもりになり、中途退学。引きこもりは20歳まで続く。大学入学資格検定を経て愛媛大学法文学部の夜間主コースに入学。』とある。六甲中学校は兵庫県では名門校として知られている。著者は思春期にいろいろとこじらせて引きこもりになってしまったが、芸人として短期間ではあるものの成功を経験し、こうして文筆業としての仕事に活路を見出している。

本書は芸人による芸人分析が披露されている。極めて興味深い。この芸人がなぜウケるのか。なぜ売れるのか。ただお笑いを見ている側ではそこまで深くは考えないし、見えてこないような、プロの視点、解析、類型化、因果関係の究明が行われている。お笑い学とでも呼べば良いのか、アカデミックな色彩すら感じさせる一冊である。

本書で描かれるのは、サクセスストーリーではない。一度掴んだ栄光を手放した人間の、”その後”の物語である。(p.12)

着眼点も面白い。一発屋芸人の成功譚ではなく、かといって「あの人は今」的な忘れられた懐かしい人物の現在を探る物語でもない。一発屋芸人として成功(成功度合いは多様であるが)した後の姿を描いている。新しいビジネスを始めたり、ツイッターなどのSNSを活用して生存証明をしたり、営業で大活躍したり、沈んだままだったりと、その後の物語は一様ではない。

詳しいことは本書を読んでいただくとして、私が特に興味深いと感じたのは、「芸人比較」だ。

ムーディ勝山と天津・木村。二人の芸人は似ている。それぞれ、ムード歌謡と詩吟という、芸人も客も誰一人見向きもしなかった間口の狭いジャンルをお笑いのネタ、芸に昇華させ、見事一世を風靡した稀なる才能の持ち主だという点。相方を持つコンビ芸人でありながら、ピン芸人で世に出た点。そして言うまでも無く、二人揃って一発屋である。(p.127)

ムーディ勝山と天津・木村の芸が近いとは全く考えもしなかった。類似した芸風を持つ2人の一発屋のその後は悲しいかな、ロケバスの運転手というこれまた絶妙なポジションを奪い合う顛末になる。

”安心感”の安村と、”緊張感”のアキラ…全裸界の門を守る、阿形像と吽形像。裸芸という、ともすれば、アングラな匂いを放ちがちなパフォーマンスを、安村はアイデアでポップに、アキラはその卓越した技術でアートの域にまで高めた。(p.185)

これまた裸芸人の2人。確かに裸という共通点はあるが、2人について対比するような鑑賞をしてこなかった。一視聴者からは存外わからない、2人の芸人の共通点や類似点を本書で初めて知らされた。いわれてみれば確かにそうだなと納得できる。

さて、先日の海外出張の帰りに日本のお笑い番組を機内で見て、大いに笑い楽しませてもらった。その番組の中で、いわゆる一発屋芸人たちはスタジオに呼ばれることなく、ひとまとめにされ、盆踊りをしながらネタを一つ見せるという構成になっていた。

既に賞味期限は過ぎており、消費期限すら怪しいネタを眺める。最盛期には子どもたちが学校でマネをし、社会人が忘年会の余興で披露した芸の数々。この感情は何だろうか。視聴者目線では悲哀や憐憫が含まれていることは否定しないが、何か爪痕を残してやろうという野心、こういう粗雑な扱いをされることへの憤りと諦観、久しぶりのテレビ出演への興奮など、一発屋芸人たちの複雑な感情がないまぜになって、このネタができあがっている。

はっきり言って、ネタ自体に笑える要素はほぼ感じられなかった。でも笑えるのだ。すっかり全盛期を過ぎ去ったネタを不遇な境遇で、かつてあった動きのキレもなく披露する。だだすべりでも笑える。不思議なものだ。

これからは一発屋芸人不遇の時代が来るかもしれない。世の変化は早く、芸人だけでなく、Youtuberといった新しい競合とポジションを奪い合うことになるだろう。他方で、事務所やテレビといった昔のビジネスモデルではない方法で、稼ぐ手段を見つけることができるようになるかもしれない。

いずれにせよヤクザな商売だったお笑いがポップな職業になって久しい。メディアは移ろうかもしれないが、これからも才能ある人が引き続き流入してくるだろう。

そういえば、一度お笑いライブに行ってみたいな。

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(感想文の感想など)

意外にも、とにかく明るい安村をまだ見かける。必死さが一周まわって面白い。

Youtubeがテレビ出演のためのコンテストの場になりつつある。他方で、テレビでできないことをYoutubeでやろうとする芸人も出てきたし、そこに大御所も参入しつつある。いい意味で、棲み分けができつつある。

お笑い芸人に第○世代とかつける意味があんまりわからないが、笑いの取り方は大きく変化しつつある。端的に言えば、自虐ネタ(デブ、ブス、ハゲなど)はアウトで、誰も傷つけない芸風がウケている。

これはお笑いの歴史として大きなパラダイム・シフトとも言える現象で、私が物心ついた頃から関西地方では、肉体的特徴や顔の造形のユニークさは笑いの対象であり、それを笑いとして使わないことはそれを授けてくれた神様への冒涜くらいの勢いだった(言いすぎかもしれない)。

一方で、先天的であれ、後天的であれ、見た目や表現型をイジることは、徐々に笑いにくくなったのも確かだ。多様性が認められ、マイノリティや病気や障害や出自を笑いにすることは、チャレンジングでありながらも、笑いに変えてほしくないという同じ悩みを抱える人たちのお気持ちを汲み取らざるを得なくなり、そんなお気持ち表明を知ってしまったら、笑うこと自体=加害に思えてしまって視聴者は笑いにくいのだ。

潮目の変化をはっきりと私が感じたのは、「ちょうどいいブス」叩き事件だ。そうか、世間はこれで炎上するのかと驚いた。着眼点は面白いし、これを男性が言うと当然アウトだけれど、女性芸人が言うのであれば容姿に劣等感を抱く女性へのいくばくかの救いになるのではと思っていたからだ。

男性にウケるかどうかの価値判断をはさむことが炎上の端緒ではあるが、今では美醜のラインを引くことも、美醜に言及することもアウトとなっている。最近になって新たに多くの女性芸人が誕生しているが、容姿が特徴的(平均から大きく外れている)としても、そのことをひけらかさない。特徴的な容姿の芸人が漫才なりコントなりをしてネタで笑わすのであって、特徴的な容姿を笑われるような仕組みにしていない。視聴者を共犯者にしないのだ。

とはいえ、これが優しい世界と言えるのかは別の話だ。見た目で差別される社会は全く変わっていない。もちろんどんな容姿であっても、その人のことは尊重されるべきだ。だが、見た目で差別していることを巧妙に見えなくしたことは優しさではないだろう。

って、思ったより長く書いてしまったなぁ…。