40代ロスジェネの明るいブログ

2020年1月11日からリスタート

感想文20-36:絶滅動物は甦らせるべきか

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マンモスを再生せよ(感想文18-42)では、マンモスの再生を目指す野心的なプロジェクトを刺激的に描いていた。なぜマンモスを再生させるのかについての議論はあったが、本書のタイトルのような、そもそも絶滅動物を再生しても良いでしょうか?というような根本的な問いかけはなかった。

本書は、ディ・エクスティンクション(逆絶滅)を目指す科学研究の理想と現実を描いている。そして、理想と現実のギャップが惹起する懸念、コストと優先順位、甦らさせられる(日本語がややこしい)生き物とどう共存していくのか、環境も生き物も思うがままに操ろうとする人間の業が描かれている。

こういった懸念や倫理的・社会的な問題は、10年前であれば夢物語への杞憂として一笑に付されていたことだろう。ところが、発生生物学や遺伝子工学や合成生物学やデータ科学が進展し、ディ・エクスティンクションにわずかばかりではあるが現実味が出てきて、本書が誕生した。

本書では考えさせられる部分もあったが、まだなんというかモヤモヤしている。若い頃の私もそうだが、なぜ人は絶滅した動物を復元したいと思ってしまうのか。夢想するだけでなく、なぜ行動に出てしまうのだろうか。

生存者罪悪感というのは、ショッキングな出来事によって他者が不幸に見舞われたときに、自分が不幸を免れたことが過ちであるかのように感じてしまう心理現象だ。災害や感染症の流行、戦争を体験した人に多く見られるが、人間以外の種の絶滅でこれが起こるのかどうかは、難しい問題だ。(p.405)

生存者罪悪感を調べてみると、英語ではSurvivor's guiltだそうな。奇跡的に生き残ってしまったことへの後ろめたさの重たい版って感じだろうか。

個人差はあれど、私たちは絶滅させてしまった動物への後ろめたさや申し訳なさを感じるだろう。ステラーカイギュウやリョコウバトの絶滅に私自身が直接的に加担したわけではないが、多くの動植物たちを人間の欲望の犠牲にして、今の生活が成り立っているということは否定できない。確かに罪悪感かもしれないが、ヒトという種が奇跡的に生き残ってしまったというわけではない。生存者罪悪感を持つのは、繁栄しているヒトではなく、絶滅の危機にひんしている他の動物たちであるなら分からなくもない。

この感覚は、トランスヒューマニズム(感想文20-08)で言及された生存することの恥ずかしさ(エグジステンシル・シェイムじゃないだろうか。欲にまみれて環境をめちゃめちゃにしてしまって恥ずかしい、っていうのが近いんじゃなかろうか。

こう考えていくと、環境を破壊しながらも、テクノロジーを駆使して復元しようとする動機が理解できそうになる。要するにトランスヒューマニズムの環境版だ。トランス・エンバイロメンティズムとでも名付けようか。

永遠の寿命を求めたり、脳と機械をつなげたり、人間というコンセプトの拡張を目指すトランスヒューマニズムと、絶滅動物を復元し、害をなす動植物を根絶するのは、どこか似ている。うまく説明できないけれど。ディ・エクスティンクションは、穏健な環境保全活動よりもはるかに大きく自然に介入するので、たしかに議論を巻き起こすのだろうが、環境を壊すも、復元するも欲が絡んでいるのだから始末が悪い。

拡張、つまり、できなかったことができるようになる、その結果、本質的にコンセプトが土台から変わってしまうということが起こる。

身近な例で言えば、クリーンミート(感想文20-20)のように、動物を育てなくても、食肉や革製品が手に入るようになるのだ。これによって産業構造が変わり、市場を牛耳っていたプレイヤーが変わるのだ。

絶滅動物の復元は何を根本から変えてしまうのだろうか。環境は思うがままにコントロールできると錯覚させてしまうことだろうか。あるいは命を選べるということだろうか。

私たちが過去に絶滅させた種と、彼らの預かり知らぬところで、私たちが生態学的な正義を掲げて存在せしめようとしている種。私は、その違いを心にとめ、尊重する必要があると確信しているからだ。(p.427-428)

私は著者のナイーブな感性を理解するが、真なる動機を直視していないように思える。

一部の人々にとって、珍味を食べることは権威付けとして重要な意味がある。珍味と見なされることで、ただでさえ危機にある絶滅危惧種がさらに危機的な状況に陥りかねない。そう考えると、「絶滅からよみがえった」という売り文句の肉より珍しい食べ物はないのではないだろうか。(p.321)

まあ、そうかもしれないが、個体としてのマンモスを復元して、それを解体して、食肉にするといったビジネスは現実的ではない。ゾウiPS細胞の遺伝子をマンモス風に改変して、それを培養して、3Dプリントでもしてマンモス肉のステーキとかハンバーグにするのだったら、技術的にさほど遠くはない。そこそこ売れそうな気もするし、倫理的に問題視されるようなこともなさそうだ。

ということで、何が言いたいのか自分でも混沌としてきた(本書の内容も主張も同じように混沌としている)が、繊細な感性による絶滅動物の復元プロジェクトへの懸念表明は、ちょっとしたことで木っ端微塵になってしまうということだ。

著者の言うことはよく分かる。技術的に成熟してきた今の段階でこういう本が出版されるのに意義はある。でもね、鮮度はものすごく短いと思う。

著者は生物学の分野で博士号も取得しているし、この業界に大変詳しいのだと思う。でもね、やっぱり知識が使える時間は短く、最先端はどんどん進んでいく。

そして意図的なのかもしれないが、本書ではビジネスへの言及がほとんどない。特許性の有無については言及しているが、特許として認められてもビジネスになるかはわからない。特許以外に知財で戦うこともできる。

もう一つは中国の存在だ。著者の懸念は中国では全く相手にされない。たぶん、本書は翻訳もされないだろう(されてたらすみません)。異常なまでに科学技術とビジネスが一体化した中国、そして倫理的課題なんて検討しない中国。環境破壊の最前線で手を緩めない中国。

中国が悪いという話ではなく、中国を無視して、バイオテクノロジーとビジネスと環境の話はできないよということだ。そしてその点については誰も踏み込めていない。香港を見てればわかるよね。悩ましい問題だな。