40代ロスジェネの明るいブログ

2020年1月11日からリスタート

感想文10-57:新聞消滅大国

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※2010年8月4日のYahoo!ブログを再掲

 

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インターネットの到来により、射陽となりつつある新聞業界。

本書は、日本よりも一足先に新聞が消滅しつつあるアメリカの現状を丹念に描いている。

タイトルは、ルポ貧困大国アメリカをモジっている。

少し前まで、○○大国アメリカの○○には、「経済」とか「映画」とか「スポーツ」とか、いかにもポジティブな用語がピッタリだった。

最近では、貧困とか新聞消滅とか、あるいはちょっと調べてみると、「肥満」とか「訴訟」といったネガティブな用語が入れ込まれるようになった。

大きいことは良いことだ的なアメリカ人的発想を逆手にとった、見事なネーミングだと思う。

貧困大国には、経済大国なのに国民の半数以上が貧乏、肥満大国には、スポーツ大国なのに国民の半数以上がデブ、という逆説のメッセージが込められている。ネガティブ大国というネーミングには、これまでの固定化したポジティブな大国イメージの影にある真の姿を映しだすという効果がある。

さて、本書では、09年だけで50紙も消滅したアメリカの姿を描いている。

本当に新聞が消滅しつつあるのだ。

実際に地方では新聞が無くなっている。その地方についてのニュースが入ってこなくなる。するとどうなるか。実証的に調べた学術論文(Do Newspapers Matter?)がある。

その地方の選挙の投票率が下がり、新人候補者が出なくなり、現職が有利になる、とのこと。これがさらに何を引き起こすのかは、さらなる調査が待たれる。

ピューリッツァー賞として有名なジャーナリストであるピューリッツァーは、「我が共和国の興亡は、新聞とともにある」と言っている。まさしく新聞が消滅したら、国は滅ぶかもしれない。

しかしながら、現在の新聞の在り方は、現代のビジネスとしては成功しない。インターネットに広告が奪われ、記事は無料で読めるようになり、新聞の価値は落ちてしまった。本書にあるように

真の意味でのジャーナリズムはいまや贅沢品になっている

のだ。

新聞というビジネスは今や失われつつある。しかし、新聞の死がすなわちジャーナリズムの死を意味しているというわけではない。特定の機能を有するシステムが壊れれば、新しいシステムにより補完される。

今のアメリカは、新聞消滅大国であるが、将来的にはまたポジティブな大国になっているかもしれない。

さて、アメリカと日本の新聞の違いについても示されていた。

アメリカの新聞社が収入の8割を広告に依存しているのに対して、日本の新聞社は、その割合が3割程度となっている。残りの7割は、いわゆる「販売収入」、つまり新聞を売って読者が支払ってくれる対価だ。

ということで、ある意味、日本の新聞社は安泰な状態ではある。新聞社の経営状態はあんまり芳しくはないものの。しかし、販売収入で持っているからこそ、アメリカとはまったく逆の状況に行き着くかもしれない。

つまり、新聞は生き残るけれど、ジャーナリズムは消滅するという事態にだ。実際に新聞に対する信頼度は低下しつつあるという調査もある。

近くのスーパーや、不動産情報や、アルバイト募集といった地域の情報がパッケージされた新聞が毎日届くが、メインである新聞で書かれていることは、信用されていない。こういう状況にならないことを祈りたい。

儲からないビジネスは廃れる。これがアメリカだ。政府が介入して、資金を支援してまで延命させている状況は、ある種の驚きだった。それほど、新聞が果たす役割は大きいと、ビジネスにドライで、報道と政治との距離感に敏感なアメリカですら、そう認識している。

大事なのは新聞の存続ではなく、政治への監視機能を有する適切なジャーナリズムだ。
新聞が消滅しつつあるアメリカよりも、官房機密費や記者クラブといったジャーナリズムの根幹を揺るがしている問題を放置している現状において、日本のジャーナリズムの未来は明るくないのかもしれない。

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(感想文の感想など)

なるほど。改めて自分の感想文を読んで、考えが整理された。つまり2つの問題が混在しているが、混同してはいけないということだ。2つの問題とは何か。1つは新聞社の経営、もう1つは記者のジャーナリズムだ。

よく言われていることだが日本の新聞社の経営状況は決して悪くない。本業の新聞ではなく不動産収入が潤沢だからだ。景気が良かった頃に蓄積した資産で食いつなげていけている。新聞を購読する人が減っていこうが、収益構造にさほど影響はない。新聞を売る不動産屋と揶揄されても気にすることはない。

一方で、ジャーナリズムについてこれまであんまり深く考えたことはなかった。大学でジャーナリズムについて学んでますとか、新聞記者を目指してますとかいう人間に会ったことはないし、きっと合わないだろうなと想像する。

現在、ジャーナリズムや新聞記者に対して反発が強まっているのは、マスメディアが第4の権力なんて呼ばれたりして構造的に調子こいたことが根本原因だろう。早い話が権威への反発と失墜への同調だ。何偉そうにしてるんだと。偉そうなやつは地に落ちればいいというシャーデンフロイデだ。

政治家や官僚の汚職を白日の下に晒そうとする正義感、愚かな国民に真実を伝えなければならないという高い意識、記者クラブという既得権益、雑誌記者やネットメディアを下に見る不遜な態度、こういったことが少しずつだが確実に知れ渡ってしまった。

政治家と記者の関係は弛緩と緊張で揺れ動いている。最近だと現役首相によるパンケーキ記者懇談会とかいうナゾ企画が話題になった。過去には「今の最後の言葉はオフレコです。(中略)書いたらもうその社は終わりだから。」とか言い出す政治家がいて、その発言をしている映像を見た瞬間、こいつの政治生命は終わったなと確信した。未だに「100点」「0点」「出入り禁止」「論外」などと書かれた主要新聞6紙の記事を貼り出す現役政治家(元NHK記者)もにいて吐き気をもよおす。

政治家にも政治家に忖度する記者にも政治家を追求する記者にも、同調しない国民は多い。権力者同士が仲良くしようが反発しようが実生活に関係ないので、どうでもいい感情になるのだ。むしろ喧嘩している方がエンタメ性があって相対的にポイントが高いくらいだろう。

政治への監視機能を有する適切なジャーナリズムをどうすれば維持できるだろうか。ジャーナリズムへの監視と報道の検証だろうか。となると、アカデミアの仕事なのかもしれないが、監視の主体と対象の関係性がこれまた問われる。難しいな。