40代ロスジェネの明るいブログ

2020年1月11日からリスタート

感想文20-40:我々は生命を創れるのか

f:id:sky-and-heart:20201029042204j:plain

ブルーバックスの本書の著者は、藤崎慎吾さんという方だ。ノンフィクションライターであり小説家らしい。初めて著作をお読みした。

「そもそも生命とは何か?」という問題に、真正面からぶち当たらざるをえなくなった。何をもって最初の生命とするかは、研究者によって意見が分かれる。それによって「どこで誕生したか」も変わってくるのだ。(p.11)

軽妙な文章でわかりやすく書かれた本であるが、取り扱っているテーマは重厚かつ長大だ。「生命とは何か?」という問いについてシンプルに答えるなんてことはできないし、かといってきちんと丁寧に答えようとすると膨大な資料が必要となるだろう。しかも明確な答えはないのだ。

本書の主要なテーマは「生命の起源と未来」である。(p.24)

生命の起源も未来の生命も想像力を掻き立てる。生命はどこからきて、どこへいくのか。すっかりジャンルとして存在感を失いつつあるサイエンス・フィクションの王道たるテーマの一つとも言える。

本書では生だけでなく、死も取り扱っている。生命の「生きる」を説明するのも難しいが、「死ぬ」を説明するのもまた難しい。受精卵、胎児、ES細胞着床前診断、中絶といった「生命の誕生と死の境界線」と、心臓死、脳死(と判定)、死者からの臓器移植、安楽死といった「生命の終焉と死の境界線」があるが、それらの境界線は曖昧だ。なぜなら生物学として観察する現象だけでなく、(この場合ヒトに限定しているが)生体組織や臓器といったヒトの一部を医療に利用することにまつわる社会の受容や法規制があり、現実には生者側の都合だけ(死者側の都合をどう勘案すればいいんだろう)で境界線を動かしてきたからだ。

さらに「何を生命として認識するか」の境界線がさらにはっきりとしない。ES細胞や臓器を生命と捉えるかどうかも意見が異なるだろうし、臓器の中でも脳は生命そのものと感じるかもしれないが、膀胱はさすがに生命じゃないなとか、臓器の中でも意見が分かれるだろう。

「状態としての生命」ではなくなった「属性としての生命」を死体だとすると、その逆は何だろう。つまり「属性としての生命」ではないのに「状態としての生命」を得ているものである。前者が後者を維持するシステムだとすれば、少なくとも科学的にはありえないわけだが、それを「ある」とするのが幅広い生命認識の裾野であり、いわばアニミズムではないか。(p.42)

アニミズムとは、生物・無機物を問わないすべてのものの中に霊魂、もしくは霊が宿っているという考え方だ。生物学的な定義の生命(これもはっきりしない)だけでなく、認識としての生命にまで話が広がると困惑してくる。ヴァーチャルな電子的存在にも生命を感じることができるのが人間の能力の素晴らしさだ。ラインでやり取りしていても相手が人間なのかボットなのか実のところわかりようもない。

本書の初版出版は2019年8月だが、令和になって改めて死生観のややこしい話をしようぜということではなく、合成生物学の勃興が大きく影響している。

合成生物学による生命起源の研究は、「工学的」あるいは「構成的」な手法をとる。つまり、40億年前の状況がどうだったかを念頭に置きつつも、今ある材料や道具をガンガン使って、生物(的なもの)全体やその一部をつくり、できてしまったら、あらためてその意味を過去にさかのぼって考える。(p.98)

合成生物学の衝撃(感想文18-20)にあるようにまさに生命とは何かについて人類は迫ろうとしている。

しかし、科学技術が進展してもなお、やっぱり分からないよという話へと収束していく。

「生命観」や「生命性」は、それ自体が生命のように、人類の誕生とともに生まれ、歴史の中をたゆたい、やがては死に絶えるか、別の形に進化していく。不思議であり、また当然でもあるような話だ。(p.251)

生命感や生命性もまた生命のように振る舞うというメタ的な結論めいた言説で本書は締めくくられてしまうが、なかなかに歯がゆく物足りなさを感じる。

本書では生命を持っていない液滴が生命のように振る舞うという実験の紹介があり、それについてはネット上で動画も公開されており、「生命」と「生命っぽいの」と「生命と認識してしまう物体」にはっきりとした違いがあるわけではないということも伝えてくれている。そしてそういう疑似生命体の研究があることも興味深く、いろいろと考えさせられる。

先日、『World for Two』というSwitchのインディーズゲームをクリアした。原始生命体からDNAを操作し、より複雑な生命体を生み出し、最終的にヒトの男女を生み出すというストーリーだ。

ゲームの中で生みだした生命体はデジタルで、予めプログラムされたものだけれど、科学技術の進展に伴い生命への考え方もまた変わっていくことに個人的には興味を持っている。あるいは、小説や漫画や映画やゲームといった創作物から、新たな生命感が提示され、そして今の生命感の土台が揺らいでいくのもまた興味深く感じる。

万物に魂があるとするアニミズムから拡張して、想像上の創作に登場する機械生命体や人工生命体といった観念にまで魂があると思えてしまうヒトの可能性に驚くとともに同調できる。

生命を人工的に生み出すという科学者の営みはもちろん科学の世界でピア・レビューされ、非科学者に刺激を与える。同時にその先にある未来や帰結について少なくない人たちが想像を膨らまし、描き、受け入れられたり忌避されたり、そういった様々な反応を通じて、新たな生命感が生み出されていく。またその生命感が今の科学の営みに刺激をもたらしてくれる。

科学と創作の世界が互いに刺激を与え合う状況を好ましく思うし、面白くもある。著者の藤崎さんもまた、そういう刺激の与え合いのさなかで仕事をされているのだろう。

本書のタイトルに戻ろう。我々は生命を創れるのか。答えはイエスだ。誰でも生命を創れる。あなたが生命だと認識すれば生命であり、そのことが社会の生命感をアップデートとする刺激となっていく。でも逆にこれは生命ではないよと決めつけるのは大変恐ろしいことである。生命を創るよりも壊す方が遥かに簡単だが、自分の思い込みや独善で生命を奪ってはいけないからだ。