40代ロスジェネの明るいブログ

2020年1月11日からリスタート

感想文08-11:スキャンダルの科学史

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※2008年3月21日のYahoo!ブログを再掲

 

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図書館で借りたこの本。結構面白かった。

色々と書きたいことはあるけれど、今回取り上げたいのは、「医学博士号売買事件‐勝矢信司」。理由は、ウェブ上では情報がさっぱり載っていないこと。その他の事件はわりと有名になっているかもしれないけれど、これはかなりマニアックらしく、あまり誰も取り上げそうになかった。そして、最近、横浜市大で同じような事件が発覚したこともある。

さて、勝矢教授の事件は1933年(昭和8年)の12月に新聞沙汰になった。舞台は長崎大学。背景には同大学の東大派と京大派の対立があり、博士号の審査が両陣営の代理戦争と化していたことが、賄賂の温床となった。要するに東大側の学生が博士号を取ろうとしたら、京大派の教授に賄賂が必要ということになり、ごたごたして裁判になり、学位売買が明らかになった。

事件が明るみになった時に、助手ら100人が集会を開き、「関係教授の即時自決と学長の退任」の決議をしたとある。「即時自決」とは非常に強烈苛烈。

結果的に勝矢教授は「公務員の贈収賄」で起訴され、教授職を退くことになった。この長崎大にとっての黒い歴史は、その後もあまり取り上げられることなく、70年以上も経過した。

そして、今も似たような事件が起きている。横浜市大しかり、ディプロマミルしかり。かの寺田寅彦昭和9年に、勝矢事件に関連して、テクスト「学位について」を書いている。

こういうのが簡単に読めるようになったのは本当にスゴイといつも感心する。その中から一部紹介。

学位などは惜しまず授与すればそれだけでもいくらかは学術奨励のたしになるであろう。学位のねうちは下がるほど国家の慶事である。紙屑のような論文でも沢山に出るうちには偶(たま)にはいいものも出るであろうと思われる。

なるほどね。博士号授与をもったいぶっているから、こういう事件が起きる、と。博士号が今も昔も研究者の通行手形としての価値があるので、こういう事件が後を絶たない。博士号なんてたいしたことない、という風になれば、それが商売にはならない。

うんうん。当時これだけ思い切ったことを言ってたんだね。多くの大学がカルチャーセンター化している。子供の数が減ったから、それだけ生徒数も見込めない。社会人入学者の数を増やして、授業料を補おうとする。古色蒼然とした講義よりも、新鮮で注目を浴びるようなお話をして、修士号なんかを授与する。

これは一つのビジネスモデルだろうし、今も「学」に価値があると考えられているからだ。

ぼくは学問の荒廃を危惧しているのではない。中身よりも器を欲しがっているだけなのかもしれないけれど、何かを学びたがっているというのはそれだけ社会が裕福な証拠だと思う。学問への参入者が増えれば、それこそたまには大当たりが出るかもしれない。

学位の売買事件は、ごく限られた学位神話が通じるところでしか起きないのだろう。カルチャーセンター化した大学はむしろ寺田寅彦が望む時代になってきているとも言えるだろう。

その他、大変興味深かったお話は文末の通り。脚気菌、伝研、森鴎外は三点セットで読むと大変楽しいお話であると思います。千里眼、血液型、男女産み分けは現代にも通じるエセ科学の話がずいぶん古くから続いているんだなとしみじみ感じます。心臓移植は今でもその苦い経験が残っている事件で、これが書かれた当時から根本的な医療専門家集団が抱える問題は全く解消されていないのがよく分かる。最後の文部大臣自決事件は、こんな骨のある人が当時は大臣をしていたんだなぁと感慨深く読みました。

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(感想文の感想など)

改めて寺田寅彦「学位について」を読み返してみた。

現代風に言えば、博士号安売りのディプロマミルや博士号を人質にしたアカハラのようなマイナス面より、学問に興味を持って博士号を取ろうとする人のマスが増えることのプラス面が大きいんじゃないかという感じだろうか。

昨今の日本学術会議への一般国民の冷たい視線は、権威への反発もあるだろうけれど、大学で受けたハラスメントへの意趣返しという面もあるんじゃなかろうか。結構、大学でアカハラパワハラモラハラアルハラ受けたって話はよく聞くんだよね。そういう言葉がなかった時代も含めてね。