40代ロスジェネの明るいブログ

2020年1月11日からリスタート

感想文18-28:安楽死を遂げるまで

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※2018年7月30日のYahoo!ブログを再掲

 

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定年後 - 50歳からの生き方、終わり方(感想文17-41)を読み、定年後の生き方について考えることがあった。40歳を目前にし、定年、老後、そしていつか迎える死について、気が早いと言われるかもしれないけれど、考えてみる機会を持ちたいと思い至った。

本書を読み終えるまで、私は安楽死には賛成の立場だった。死のタイミングを自ら選べるのは良いことだし、そういう権利が認められても良いと考えていた。だが、今は違う。強く否定はしないまでも、かといって日本で安楽死を合法化してくれと要求することにためらいが生じた。

今よりもずっと若い頃は、ドライで、怜悧で、合理的に生きたいと望んできたが、どうにも世界はそんなに単純に作られているわけではないということを思い知るようになった。世事に疎く、社会性に欠いた生活をいつまでも続けることはできないし、そういった姿勢が自己保身でしかないと身に染みて分かってきた。

かつて脳死者からの臓器移植についても、助かる見込みがなく、本人が生前同意していればそれで良いと考えてきたが、その認識も変わった。生きること、死ぬこと、それらを本人だけが判断し、選び、決定することは、正しいのだろうか。誰にとって正しいのだろうか。正しさって何?という感じで、割り切って考えることができなくなってしまった。

人間が一人で生きているわけではなく、誰かに助けられ、誰かを助け、影響を受け、与え合っている。子どもが生まれ、親になり、子どもらの成長を見ていくと、私自身の考えが変わっていってしまった。

本書で紹介していく安楽死や自殺幇助とは、自然な死を迎える前に、医師の手を借りて死期を早める行為である。スイス、オランダ、ベルギー、ルクセンブルクアメリカの一部の州と、ここ最近ではカナダでも患者は自らの意思で死を決定することができる。それは「自然な死」ではない。(p.7)

そもそも本書を読もうと思ったきっかけは、「104歳豪科学者、スイスの専用診療所で安楽死」というニュースを見たからだ。

国内では禁止されている、あるいは規制が厳しい医療行為を受けるために、合法化している、あるいは規制がゆるい国に渡航し受けるケースがある。代理懐胎や小児の臓器移植などが代表例だ。(医療行為とするかどうかはさておき)安楽死もツーリズム化している現実を知り、驚き、困惑した。

死ぬために、わざわざ遠い海外へ渡る。そうまでして死にたい人がいる。経済学的には死にたいという需要があると言える。しかし、おいそれと死や死に方を供給できるものではない。法的に認められている国であっても、お金さえ払ってくれれば、あなたの望む死を供給しますよという制度では決してない。

本書は、骨太の取材記録である。ヨーロッパ、アメリカ、そして日本。著者は実際に臨終の場に同席し、安楽死を受ける人、残されたパートナー、家族、施術した医師、周りの人たちなどから多くの生の声を聞きまとめている。

それらを腑分けし、調理し、提示したものではなく、むしろ素材そのままを読者に与え、考える余地を幅広く残している。多くの安楽死の事例が載っているが、いずれも重く、読み進めるのに辛さが伴う。読者でさえそうなのだから、直接的に多くの死に触れた著者は、書き上げることに相当のエネルギーを費やしただろう。

この取材を通し、早い段階で実感したことは、世界の医療関係者も安楽死について、意外と知識を持ち合わせていないという事実だった。生きるための医療を進歩させてきた人類史上、死ぬための医療が認められてから、数十年に満たない。(p.343)

衛生・栄養状態が改善され、医療技術が発展するに伴い、人間は長生きできるようになった。かつて不治の病とされてきた感染症生活習慣病を治せるようになり、今ではいよいよがんを克服できるようになるかもしれない。

そして私たちは「選べる社会」に適応し、馴致し、先鋭化し、正しいことであるとすら思うようになってしまった。毎日の食事や余暇の過ごし方だけでなく、職業、人生のパートナー、子どもをもうけるかどうか、様々なライフイベントも選べるようになった。もちろん、選べない人も、選ばれない人もいるのは事実であり、それは別の問題かもしれないけれど、選べる社会であるという前提だからこそ、悩みがより深まったと言える。

「条件付き」ではあるが、生と死についても一部、選べるようになってきている。人工妊娠中絶、男女産み分け、脳死者からの臓器提供、延命治療の拒否(消極的安楽死)など。いずれも議論の尽きないテーマではあるが、自己決定権が所与のものとされる社会において、自分で選択することが良しとされつつある。

(日本では)「迷惑の文化」が根ざしているように私は思った。何らかの理由で病を患った人間が自らの看病や介護を周囲の人間にさせたくない、人の手助けを借りなければ生活できない自らを恥だと思う心理である。終末期の生き方を個人の人権として考える欧米とは違って、日本には最期まで集団意識がつきまとう。(p.339)

迷惑をかけたくない、恥を晒したくない、晩節を汚したくない。こういった心理、つまり自己決定であるかのようでいて、他者からの視線を慮った結果の判断ということに根付いた安楽死は、本当に「正しい」のだろうか。

終末期の患者も国民の一構成員だ。働けない、動けない、何も生み出さない、医療費がかかる、という観点だけで、不要という烙印を押され、圧力をかけられ、死を選ぶ。これとどこがどう違うのか。

一方で、耐え難い延命の苦痛から開放され、家族に囲まれながら穏やかに死を迎えたいという甘美な妄想も私を縛る。同調圧力は関係なく、自らの手で自らの人生に幕を下ろすことの何が悪いと強弁されると、返す言葉もない。

それでもだ。私は「生きる」というより「生かされる」という考えにシンパシーがある。死に方やタイミングは選べない。いつか死を迎えるまではただ「生かされている」のだ。

もちろんこの考えを他者に強要するつもりは毛頭ない。安楽死の合法化を求める人に賛同もしないが、否定もしない。ただし、私の家族に対しては、私自身の考えを伝えることになる。そのうえで、改めて家族で結論を出せればいいし、場合によっては決裂してしまうこともあるだろう。

いつかかならず来る死の前に、意識したくはない死について、あるいは生きること、生かされることについて、こうして整理できないままであっても、「今の」考えを残しておきたい。

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(感想文の感想など)

2年ちょっと前の自分の意見に圧倒される。よく考えられているなと。

結婚式よりもお葬式の機会が増え、死が迫ってきていることを実感する。

死を選べてしまうことへの誘惑と抵抗。年に1度くらいは死について考えてみるのも悪くないかな。死について考えられるくらい、齢を重ねたのかもしれない。