40代ロスジェネの明るいブログ

2020年1月11日からリスタート

感想文08-13:鳥人計画

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※2008年3月27日のYahoo!ブログを再掲

 

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たまに小説を読みたくなる。しかもミステリー。

東野圭吾ファンには申し訳ないけれど、初めて彼の本を読みました。理系ミステリーって感じ。素直に面白い。

舞台となるのはスキーのジャンプ競技鳥人とはジャンパーのことなのだ。

近代スポーツには最先端科学が取り入れられつつある。その過渡期、つまりあまりに不完全なまま科学を取り入れた結果、殺人事件が生じるっていうストーリーなんだ。

時代設定は昭和の終わり。確かにこの頃はまだ科学トレーニングなどがそれほど取り入れられていなかっただろう。

個人競技は限界のギリギリで常に戦っていて、記録を1センチでも1秒でも(競技によっては単位が変わるけれど)伸ばしたり縮めたりするために訓練している。適切に筋力をアップしたり、怪我を治したり、集中力を高めるために科学が応用されている。スポーツ科学に関心が向けられ、大学で講座が設けられ始めたのはここ10年くらいだろう。新しい方法が開発され、検証され、改善される。この繰り返しによってスポーツ科学は発展していっている(たぶん)。

人間の限界に挑むのが個人スポーツだ。世界記録は更新される。破られない記録はない。これは人間の可能性が無限に広がっていくことを示している。

ほんの小さな工夫で記録を伸ばすことができるケースがある。むしろそれはその競技におけるパラダイムシフトだろう。背面跳びであったり、バサロ泳法であったり、V字飛行であったりする。

人間は柔軟な生物であり、機械でない。だからこそ最適のモデルというのがないが、環境の変化に対応できる。他方、記録は常に一定ではないし、揺らぎがある。競技においては常に最高の結果を出すことが理想だ。つまり、人間の生物性を維持しつつ、機械的に訓練すると、最高の結果を得ることができるといえる。

いや、この考えは正しくないのかもしれない。

揺らぐのは個体の身体性だけでない。金、名誉、期待、将来なども大きな影響となる。個人は複数の組織(チームであれ、企業であれ、国であれ)に属し、そこから逃れることはできない。メンタルという一言では片付けられない。

ルールがシンプルであり、勝敗が明瞭であることは、すなわちその背景もシンプルで明瞭であるということにならない。人間だからこそ、苦しみ、悩み、そして新たな記録を生み出す。記録されるは個人名だが、記録を作り出すのは個人ではない。

考えていくと、そもそもスポーツとは何か、という問いに辿り着く。記録とも勝利や栄光とも関係がない。「自分を超えること」ではないか。過去の自分を越え、新しい自分を生み出す。その行為の集積がスポーツであり、様々な形態、表現があるのだろう。

トップアスリートのパフォーマンスを見ると、人間の広い可能性を知り、感動する。そして、自身が新しい自身を発見したときには、また違う感動がある。自分を越えること、それ自体が尊いのであり、そして難しいことなのだ。

本書では、スポーツに純粋が故に殺し、純粋が故に殺される。そしてそれを招いたのは、近代スポーツとはもはや切り離せない様々な不純物だった。悲しくも面白い一級のミステリー小説だ。

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(感想文の感想など)

東野圭吾さんの小説を長らく読んでない気がする。脳内で伊坂幸太郎さんと重なるんだよな。ぜんぜん違う作家なんだけれど。