※2018年10月25日のYahoo!ブログを再掲
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東野圭吾さんの小説。容疑者X(感想文08-61)の献身以来だから、10年ぶり。容疑者Xの献身と同様に、本書も妻から勧められて読んでみた。
でもね。特に序盤が重い。読み進めるのが辛い。
本書は、小児の脳死と脳死臓器移植が抱える困難さ、複雑さ、そして矛盾を描いている。脳死者の子を持つ母親、父親、脳死臓器移植しか助かる見込みのない子の親、その支援者、医師など、様々な視点で描かれる。
さらには脳死者への殺人やその未遂といった、臓器移植に同意しなければ脳死判定が行われないという間隙に存在する、法で定めた生と死の矛盾点をまざまざと読者は見せつけられる。
生きることの素晴らしさ、生き続けられることの貴重さの裏側にある、脳死という新たな死を発明してしまった人類とそれを法制度に組み込んでしまった国、日本という暗部を直視してしまい懊悩する。
臓器移植については、日本の臓器移植(感想文10-42)、人体部品ビジネス(感想文13-03)、移植医療(感想文14-43)といった感想文でこれまで取り上げてきた。
臓器が足りない(超過需要)ので、臓器の提供先ごとに様々な問題が発生しているということは明白だ。「臓器が足りない」から、パートナーや親族からの生体移植があり、それでも足りないから、病気腎移植を生み出し、それでも足りないから死者(心臓死)から提供を受け、やっぱり足りないから脳死という新たな死を作り出し、まだまだ足りないから海外に渡航し、根本的に解決したいから再生医療によって臓器丸ごと人工的に作り出すような研究が行われる。
「臓器移植には脳死が人の死かどうかは関係なかったとでも?」「まさに、そうです」(p.352)
脳死は、死を定義づけるものではなく、臓器提供に踏み切れるかどうか、ポイント・オブ・ノーリターンを見極める基準だった。本来的に用いる用語は、脳死ではなく、回復不能や臨終待機状態といった表現が妥当だったのだ。
また、本書は残された者による生と死の受容の物語とも言える。死とは何か。できることであれば、我が子にこういったことが起きないことを祈るほかない。脳死の選択を迫られるのも、脳死の選択を待つのも、どちらも辛いことこの上ない。
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(感想文の感想など)
1997年に臓器移植法が施行され、脳死判定&移植手術がスタートした。2010年に同法が改正され、家族の承諾があれば提供可能となるよう要件が緩和、移植実績は増えていき、2017年で500例に達した。
誰かの死が誰かの生につながる脳死移植。すっきりした答えなどありはしない。