40代ロスジェネの明るいブログ

2020年1月11日からリスタート

感想文18-45:選べなかった命 出生前診断の誤診で生まれた子

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※2018年10月25日のYahoo!ブログを再掲

 

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本書を読んだ後に、2012年に私が書いた出生前診断についてという文章を改めて読み直してみた。その当時と今との違いは、新しい子をもうけないと夫婦間で決着したという点だ。妻は既に2人を産みノルマを果たしたと強く主張し、私はそれに押し切られた。

正直なところ娘が欲しかったという思いは今でもある(妻は娘は生まれないと主張した)。

妻の説明では高齢出産となるため、生まれてくる子が障害を持つ可能性にも言及があった。お互い40歳になるのだから、障害があった場合に体力的に厳しいのではないかと言われ、それは事実だと納得した。出生前診断を受けるかどうか、受けて障害がわかった場合に中絶するという判断ができるかどうか、そこまで踏み込んでの議論はできなかったが、そういうことで思い悩み苦しむのであれば、そもそも妊娠を避けた方が良いであろうという暗黙の了解的な着地点に落ち着いた。

本書は大変重いテーマを扱っている。当事者の真の思い、ロングフルライフ訴訟の論点、大勢の人が感じるであろう訴訟への違和感、強制不妊手術という歴史の暗部、法と実態の乖離、そして見えにくいダウン症当事者の思いへと至る。複雑なテーマを丁寧ではあるが描き切っている。重すぎるため一般ウケしそうもないが、ノンフィクション作家である河合香織さんの熱意と決意を感じられる良書だ。

人生は選択の連続であるが、我が子の「生」や「死」を選ばされる状況に陥った時に、何を選んでも深く強い悔恨が残る。不可逆的に人生が変質してしまうことさえあるだろう。人魚の眠る家(感想文18-44)のように小児の脳死を巡る、臓器提供せず心臓死か臓器提供するための脳死判定も同様に厳しすぎる選択だ。

医療技術・科学技術の発展によって、例え重度の障害があっても生きながらえることが可能となり、他方で生まれる前に障害の有無を知ることが可能になった。なってしまった。

「人の命を選ぶことが許されるのか」と問われれば、多くの人は「許されるべきではない」と答えるだろう。しかし、現実では規範は無力だ。中絶そのものの是非が問題視されていない(カトリックを中心とした中絶は殺人だ!とする中絶反対運動がほとんどない)日本では、各家庭の決定だから中絶は仕方ないけれど、障害を理由に中絶することに障害者団体が強く反対している。とはいえ、中絶の理由の実態はほとんど明るみになっていない。

本書の端緒は、日本初のロングフルライフ(Wrongfull life)訴訟が提訴されたことである。

この裁判が特異なのは、すでに生まれた命に対して、生まれてこなかった方が良かったかどうかが争われている「ロングフルライフ訴訟」という点である。(p.135)

この訴訟の争点や経緯、さらにはこの訴訟にまつわる多くの非難や批判について興味のある方は、本書を是非お読みいただければと思う。

優生政策の主な柱の一つは、不妊手術によって障害を持った子どもが生まれないようにすることである。優生保護法が廃止された現在は、カップルによる出生前診断によって行われているともいえる。(p.96)

優生政策や強制不妊手術は現在とは関係のない遠い過去の誤った政策であると思っていたが、その考え自体は現在も実質的に維持され、出生前診断という新たな技術に引き継がれている。もちろん国家による強制とは仕組みが全く異なるが、誰かが不要だと考える命は、誕生前に摘まれているのだ。

確かに9割が中絶という数字は強烈で翻弄されてしまいそうになる。けれども、最初から出生前診断を受けない人も多く、NIPTに興味はあっても問い合わせ窓口で説明を聞いて検査をやめる人や遺伝カウンセリングを受けた上でやめる人たちもいるのだ。それをくぐり抜けた、障害があれば中絶せざるを得ないという思いが強い人たちが母集団の中で9割なのではないだろうか。(p.214)

この主張には首肯する。そして私が考えに至らなかったことだ。計量経済学行動経済学的にも興味深いテーマである。NIPT(新型出生前診断)の結果、中絶を選択するかどうかだけでなく、時間をさかのぼると、遺伝カウンセリングを受けるかどうか、NIPTを受けるかどうかまで射程に含めると、異なる状況が見えてくる。

「命の選別」の是非は裁判で決定できる問題ではない。政治的に決着できる問題でもない。法整備で解決できるというわけでもない。「命」についてきちんと正面から向き合い、議論を積み重ねることからを始めるほかない。

しかし、そんな余裕があるのだろうか。国家財政が傾き、経済政策が優先されると、弱者やマイノリティや声を上げられない人は無視され、救済されない。かといって、平等に思えるような社会主義的な政策にシフトすると、ベネズエラのようにあっという間に国家が破綻する。

こころみ学園奇蹟のワイン(感想文17-53)でのこころみ学園の事例が参考になる。どんな重い障害の人であっても、その人には周りの人に良い影響を与えることができる。経済的価値としてカウントしにくいかもしれないし、経済指標に反映されないかもしれない。それでも、健常かどうか、障害の軽重、年齢、性などに関係なく、全ての人に価値があるのだ。そう信じている。

そう遠くない未来、命の選別どころか、命の操作が行われているだろう。重度の遺伝性疾患の治療を皮切りに、軽度な疾患に適用され、能力向上に資する強化にも適用されるかもしれない。

技術は進む。しかし、その歩みや適用を国家が規制することについて、私は強く謙抑的であるべきという立場だ。倫理観は絶対ではなく、たゆたう。辛い選択に迫られないようにすること、選択の精神的負担を軽減すること、どんな選択をしても救いがあること、そういう社会を皆で作っていくしかないのではないだろうか。

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(感想文の感想など)

2020年11月4日の毎日新聞社「新型出生前診断 国は議論で主導的役割を」では、日本産科婦人科学会の自主規制では限界があるから、国で指針を策定しろという主張になっている。

厚生労働省が主体的に指針を策定すると実効性が担保されるかというとそうでもない。罰則規定を設けられないからだ。指針が法に基づけば行政処分できる(法定指針)が、法的根拠のない指針(行政指針)は学会指針とたいして違いはない。ただし、国に逆らえばどこで不利益処分を受けるかわからないという理由で事業者は指針を守ろうとするだけだ。

お上が決めたことにみんなが従うのは理由があって、どこで意地悪されるかわからないというだけで、従わないのは本当に信念のある事業者か、日本のお上信仰に染まっていない外資系の事業者ということになる。

左寄りの新聞社があれだけ現政権に対して批判的に言っているわりに、本件のような新しい技術の適用への規制を国に期待するのは、どういう感覚なのか理解に苦しむ。とはいえ、新型出生前診断というマニアックな事業に紙面を割いてくれているだけマシなのかもしれないが。