40代ロスジェネの明るいブログ

2020年1月11日からリスタート

感想文20-42:生産性とは何か

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この冴えないブログのタイトル通り、私はいわゆるロスジェネ(1990年代後半から2000年代前半の「就職氷河期」に社会に出た世代)だ。全く恩恵を受けることなくバブルが崩壊し、日本経済が低迷し、停滞し、とにかく世情が暗い時期に社会に出た。

裕福とは言わないが(東京に来て本当の金持ちは世界が違うことを知ったのだけれど)、小学校教師の母親と鉄道会社勤務の父親のダブルインカムで、良くも悪くもバブルの影響を受けずに済み、私立の高校を経て、国立の大学に合格し、その後、別の国立大学の大学院へと進学した。

関西でトップの国立大学の大学院だと、景気が絶不調だった当時であっても、ほぼ面接だけで就職できる雰囲気で、どの社からもウェルカムな雰囲気だった。そして急激に就活という仕組みに萎え、ゴールデンチケットと呼ばれる新卒採用の切符を自ら手放し、たいして考えもせずスタートアップしたばかりのコンサル会社(みたいなところ)で働くことを選択した。年収は手取りで200万円くらいだった。

結局、その会社は5年で廃業となり、私は4年目で運良く今の会社へと転職できた。まだ20代後半だったから、なんとかなったのだろう。新卒で小さい会社で何でもやったという経験は私にとって大きな糧になったし、そこで構築されたマインドセットは、私自身の人生をより良いものにしてくれたと感謝している。お金がなかったけれど、好きに勉強できた4年間は、世界への認識の在り方を拡張してくれた。

今でも不思議で、なぜあの時にそういう選択をしたのだろうか分からない。合理的な理由はあるようなないようなはっきりとはしない。端的に言えば働きたくなくて、もっと広く世界を知りたかったということになるかもしれない。でも後付けの理由のようにも思える。

あの時、大企業に普通に就職していたらまた違った人生になっていたことだろう。今の妻と結婚できていただろうか。別れていたら今でも独身である蓋然性は極めて高いと思う。心を病んで、仕事を辞めて、高学歴ワーキングプアこども部屋おじさんになっていたかもしれない。人生はわからない。

ロスジェネについて社会を俯瞰してみると暗澹たる気持ちになるが、せめてブログぐらいは明るい話題にしようという初心を思い出すことにしよう。何の話だったか、そう生産性の話だ。

日本経済の低迷は生産性の低迷とイコールで語られる。バブル崩壊の後始末だったり、IT化への乗り遅れだったり、既得権益層と岩盤規制だったり、少子高齢化による社会全体の活力低下だったり、海外に比べて起業数が少ないことだったり、アカデミアの応用研究への軽視だったりと、いろいろな原因とそれへの対応策があり、うまくいっているような雰囲気を政府は出すけれど、株価くらいしか結果は出てない。

働く環境も大きく様変わりした。1人1台スマホを持つようになり、メール以外の連絡手段が増えた。テレビ会議で遠隔地とも打合せができるようになった。昨今のコロナ禍でさらに激変し、外勤も出張も、場合によっては出勤すらなくなりつつある。コロナでなくともできていたはずの変化だが、外的要因がないと変化しないのは日本の特徴だろうか(日本の特異性を過度に強調したくはないのだが)。

前置きが長くなった。生産性とは何か。まずは答えを書いておこう。

生産性向上は、この一人当たりGDPの上昇とほぼ同じだと考えてよい。GDPは一国全体の生産量だが、国民一人一人が、どれだけこの生産に貢献しているかが、マクロの意味での生産性である。(p.018)

2019年データで、日本は40,256USドルで25位。しかしながら、上位国は小国寡民が多い。日本よりも人口が多いのはアメリカ(7位:65,254USドル)だけだ。そう考えると健闘しているとも言えるが、アメリカとの差はなんだろうか。

日本の長期停滞について2つの原因を支持する説がある。一方が日銀日記(感想文19-07)岩田規久男さんらによる不十分な金融拡張政策による需要喚起策の不足であり、他方が潜在成長率の低下でありTFP(Total Factor Productivity)成長率としている。ざっくり言えば、需要と供給であり、緩やかにインフレするという期待感をもたせてお金を使わすか生産効率を上げるのかということになる。本書はもちろん後者側を重要視しているが、日銀の立場であれば岩田さんの主張も分からなくはない。結果が出てないのが残念だが。

日本の場合はIT投資が堅調な増加を示しているのに対し、人材投資は全く逆方向の動きを示している。この点は研究開発投資と人材投資の関係についても同様である。(中略)この点が先進国の中でも日本の生産性上昇率がひときわ低い一因と言えよう。(p.129)

人材を人財とか言っているわりには、人材を育成する費用が減らされている。新規採用を削り、非正規雇用を拡大し、オン・ザ・ジョブ・トレーニングと称しては社内のローカルルールだけに詳しくなるような教育をしていると言える。人材育成投資を怠りながら、大学には産業界のニーズに対応した教育をしろと要望している。

一方で、企業が人材育成しない理由も分からなくもない。育ったら、ステップアップして別の会社に移ることを恐れている。結果、長期的な戦略なく、その場しのぎで人材を雇用し、使い捨てる構図になる。生産性は上がらず、国際競争に勝てず、企業のプレゼンスは落ちていく。不幸なことだ。

企業レベルので新陳代謝は進んでいないかもしれないが、財レベルでの新陳代謝が進行している可能性は残っているのである。(p.143)

日本は起業が少なく、企業の新陳代謝が起きていないという指摘はよく耳にする。本書で興味深かったのは、企業は残っているけれど、もはや違う事業をしている会社が多いのが日本の特徴ということだ。確かに富士フィルムが化粧品を作り、日立造船が環境・プラント事業へとシフトしたように、既存のビジネスが陳腐化すると、その会社を畳むのではなく、別のビジネスへと技術を転用してピヴォットする。もちろんスムーズにいかない場合もあるだろうけれど、その昔、トヨタだって機織り機メーカーだし、任天堂だって花札メーカーだったのだから、企業の生き残り戦略として見てみると面白い。

競争性、合理性、多様性は、生産性向上に不可欠の要素だが、それを個々の企業の努力で終わらせないためには、やはり政府の長期ヴィジョンが欠かせない。(p.221)

本書では、スポーツ(メダル数など成果が出てる)と観光(海外からの観光客の増加)が好例として示されていたが、今現在、コロナ禍でどちらも苦境に喘いでいる。

近年の少子化の顕在化を日本経済にとって深刻なショックと受け止め、危機感をもって生産性向上に取り組めるかどうかが、今後の日本の経済社会の行く末を左右すると言えるだろう。その意味で日本経済は正念場を迎えている。(p.225-226

すでにヤバかった日本経済が、コロナ禍でオリンピック特需も観光産業のどちらも失いかねない緊急事態に陥っている。今だからこそ、在宅勤務&オンライン会議の普及、無駄な押印廃止、デジタル・トランスフォーメーションが進む良い契機になって欲しい。今は、そうならないと生き残れないぞというくらいの危機だよね。