40代ロスジェネの明るいブログ

2020年1月11日からリスタート

感想文20-43:日本が生んだ偉大なる経営イノベーター小林一三

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小説、阪急電車(感想文08-14)の感想文を書いたのはまだ20代後半で、長男が生まれてちょうど1年になるくらいの頃。その頃はまだ父親は働いていた。まだ現役だったこともあって当時のブログで言及していないのだと思うが、父親は阪急電鉄株式会社の社員だった。ちなみに父方の祖父は満州鉄道の社員だった(流転の子(感想文17-35)参照)。鉄道家系に生まれたが、私はあいにくその道を進むことはなかった。

京都在住の父親はまだ健在だが、昨今のコロナ禍のため久しく会っていない。別段、懐かしいわけではないが、本書を読んだきっかけは、そういえば父親は小林一三を尊敬(あるいは崇拝)していたなと、最近になって思い至ったからだ。

これまでも経営者に関する本を読んできた。ナイキのフィル・ナイト(感想文20-05)カルピスの三島雲海(感想文18-40)IHIの土光敏夫(感想文18-36)アサヒビールの樋口廣太郎(感想文18-21)出光興産創業者の出光佐三(感想文15-49)川崎製鉄(現JFEスチール)の西山弥太郎(感想文15-16)カシオ社の樫尾4兄弟(感想文17-43)といったところ。

その当時の多くのサラリーマンと同様に、父親の心には愛社精神なるものが確かに存在し、また会社も社員を家族のように扱う幸せな時代に働いた。仕事について多くを語らなかった(ほぼ毎日、酔っ払って帰ってきてた)が、阪急ブレーブスを愛し、阪急電車が関西私鉄で最も優れている電鉄と公言し(この点については同意いただける方も多いだろう)、休日に家族で阪急デパートで買い物したり、宝塚ファミリーランドに行ってはホワイトタイガーを見た。自社株があったので、株主優待券で阪急電車をタダで乗ることができた。私の大学進学時には、自転車で通えるか阪急電車で通える国公立にしろと言い、事実、阪急沿線の大学へ進学した。

そんな父から何度か小林一三という名前を聞いたことがある。創業者くらいにしか思っていなかったが、本書を読んで凄まじい経営者であることを初めて知った。小林一三(1873-1957)と父は生きている時代は重なるが、面識があったかというと、全く無かっただろう。父が就職するずっと前に亡くなっていたからだ。しかし、小林一三に薫陶を受けた方やあるいはご子息とであれば、もしかしたらお会いする機会くらいはあったやもしれない。

小林一三と同い年生まれは、与謝野鉄幹、下村観山、泉鏡花、朝河貫一。ん?、朝河貫一?って維新の肖像(感想文18-07)の?なんとまあ、実在する人物だったとは。また一つ学びが増えた。

小林一三は偉大で傑出した人物であるため、関連書籍も山ほどある。全部読むほどの時間的余裕はないので、2018年出版でそこそこ分厚い本書を読んでみることにした。そうすると、私が知らないことがたくさんあり、そうして幼少時には謎だった父親の行動の意味がわかってきた。

謎①「映画は東宝にこだわる」・・・ドラえもんゴジラシリーズは東宝だったのでよく家族で見に行った記憶がある。一方で東映まんがまつりを見たくてお願いしたけれど、なかなかOKをもらえなかったのも覚えている。東宝東映の違いを知らないので、なぜこの映画には連れて行ってくれないのだろうと不思議だったが、東宝は東京宝塚の略で、小林一三が創った会社だったのだ。なるほど。

謎②「ビールはサントリーへのこだわり」・・・まだプレモルとかなかった頃、サントリーはさほど人気のあるビール会社ではなかった。いつしか私も社会人になり、会社の系列とビール会社の関係をそれとなく知るようになり、三菱の系列会社にお世話になっていた頃はキリンビールしか飲まなかったものだ(今では味でプレモル選んでるけれど)。なぜか父はサントリービールにこだわっていた。小林一三の次女である春子はサントリー創業者鳥井信治郎の長男・吉太郎に嫁ぎ、その息子の信一郎が3代目サントリー社長となっていた。そういうことだったのか。

謎③「父親の再雇用先」・・・定年退職となった父は再雇用となって、たぶん5年くらい働いた。それは池田文庫という図書館だった。たいして本を読まない父がなぜ図書館に?と疑問だったが、そこは小林一三が開館した企業図書館だったのだ。ちなみに池田というのは池田市にあるからで、私は池田にある公的な図書館で働いていると思っていたが、どうやらそうではなかったのだ。そもそも企業図書館なるものが存在することも知らなかった。

改めて小林一三の濃密な人生をざーっと振り返ると、山梨で生まれ育ち、上京を経て慶應義塾に入学し、三井銀行に就職(その当時に渋沢栄一と接点あり)し、阪急電鉄の前身となる箕面有馬電気軌道へ転職。沿線の土地を買収して、郊外に宅地造成開発を行い成功を収める。同時期に宝塚歌劇団を創る。阪急電車は神戸まで延ばすことに成功(競合する阪神電鉄と確執発生)し、社長に就任。ターミナル・デパートとなる阪急デパートを生み出し、ホテル事業を手掛けた。さらに劇場経営を行い、東宝へと発展。関東では東急電鉄の経営に携わり、五島慶太が経営を引き継いだ。さらに阪急ブレーブスという球団まで創り、プロ野球の発展に貢献した。

電力会社の東京電燈の経営を立て直し、電気の超過需要状態だったので、大量の電気を必要とする会社として、昭和肥料株式会社(後の昭和電工)と日本軽金属を設立。

日本が戦争へと突入する前には、商工大臣に就任し、次官として官僚トップだった岸信介安倍晋三の祖父)と激しく対立し、岸ら革新官僚が進める統制経済に猛反対した。
戦後は公職追放の憂き目に会うが、東宝労働争議でアカを排除し、そしてコマ劇場の設立を最後の仕事とし、84歳で亡くなった。

最小限に書き出しただけでこんな感じになるが、それぞれの事業への理念や創業時の苦労や競合との戦いや事業拡大時の借り入れや政情不安や戦争といった予期せぬ環境変化とそれへの対応が、本書では事細かに描かれている。しかも、きちんと傍証となる資料を用いてのことなので、これ以上に小林一三を描く作品が本書以降に登場しないのではないかと思うほどだ。

小林一三という実業家が今日でも研究の対象となりうるのは、その商業理念(良いものを安く大量に売る)が近代的であるばかりではなく、商業理念を介して(つまり自らが商業的に成功を収めることで)理想社会を日本にもつくりだすことが可能だと堅く信じていた「思想家」でもあったからである。(p.234)

小林の描く理想社会は全てではないにせよ、実現したように思う。そして、阪急電鉄に勤めた父(あいにく阪急沿線に住まなかったが)の子として生まれ、小林一三が手掛けた事業サービスの恩恵を受けた私も、その理想社会で育てられたと言っても過言ではあるまい。

小林一三を私が尊敬する人物の一人に追加したい。誰を尊敬しますかと問われれば、高橋是清(感想文13-29)後藤新平(感想文12-40)そして小林一三と答えることにしよう。