40代ロスジェネの明るいブログ

2020年1月11日からリスタート

感想文20-44:絶滅できない動物たち

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絶滅動物は甦らせるべきか(感想文20-36)に続く、絶滅に関連する本。私は動物が好きだし、絶滅しそうな動物をなんとか救いたいという気持ちがある。

本書は、『絶滅できない動物たち』という逆説的なタイトルだ。原著では「Resurrection Science: Conservation, De-Extinction and the Precarious Future of Wild Things」となっており、日本語タイトルがやや煽情的なのはわりとよくあること。本を売るためだから、致し方ない面があることを否定しない。

これらの物語は、現在、生命維持装置につながれているごく一部の動物、すでに姿を消してしまった動物と、その動物を発見し、研究し、追跡し、捕獲し、愛し、執着し、哲学的に考察し、救いだし、復活させようとする人間の物語だ。(p.xiii)

本書では、キハンシヒキガエル、フロリダパンサー、タイセイヨウセミクジラ、アララ、キタシロサイといった実在する絶滅危惧種とその保護について取材し、詳細に記述されている。そこには環境保護や種の保全が、別の問題との比較されること、優先順位をどう決めるのかということ、保全活動そのものの価値について、はたまた技術の進展によりDNA情報だけを保存する意味などについて考察がある。ケースバイケースだし、すっきりとした答えはどこにもない。

本書は現存する生物から、リョコウバト、ネアンデルタール人の復活へと歩みを進めていく。iPS細胞とゲノム編集技術により、恐竜は難しくとも、リョコウバトやネアンデルタール人の復活は現実味を帯びつつある(実際には技術的に達成への道のりはまだまだ遠いが)。

脱絶滅(De-Extinction)が今後の環境関連で重要なキーワードになりつつあるが、それをポジティブに捉えるか、ネガティブに捉えるかで意見は分かれることだろう。私個人は、技術が未熟な状況で近未来について過度に危惧したり、その危惧に基づいて技術を規制するのは反対という立場だ。しかしながら、危惧やリスクを予め考えて議論しておくことは重要だと思う。

とはいえ、なんだか落ち着かないのも事実だ。そもそも、環境を破壊しまくり、人類同士がひっきりなしで殺し合っている状況において、脱絶滅がいったいどこまで地球環境に影響をもたらすのだろうか。また、一個人からすると巨大すぎる地球というフィールドに生きる生物の多様性について、ビビットにイメージを持つことができない。こんな大きすぎる問題をどう捉えれば良いのだろうか。

臆面もなく告白すれば、私はこれまで環境保護についてきちんと学んだこともなければ、深く考えたこともない。言い訳すると、環境問題は学んだり考えたりする対象として、その輪郭を捉えられそうにないなと、どこか敬遠してきた。また、因果関係(例えば地球温暖化二酸化炭素)や誰にとっての環境なのかについて考えていくと、途方に暮れてしまう。最近、ニュースになった瀬戸内海がきれい過ぎて漁獲量が減っていると言われると、ダイバーにとってはきれいが良くても、魚にとっては棲みにくいのかと驚かされる。

地球はかつてわたしたちの歴史、生活の起源であり、生存の源だったが、今や抽象的な概念、わたしたちの日常体験の背景になった。現在、54%の人間は都市部に居住している。(中略)現在、身の回りの動植物に詳しいと自信をもって言える人間はどれくらいいるだろうか。おそらくこれが、種の消失の物語にわたしたちが一瞬しか関心を示さない最たる理由だろう。その価値が、わたしたちには抽象的なのだ。(p.317)

本書の主題を煮詰めていくと、「種の価値」とは何かほとんど分からないということになる。生物多様性は重要であり、そのために環境を保全することは重要だという意見に私は同意する。しかし、絶滅しそうな動物をいったいどのくらいコストを掛けて保護し、また絶滅した動物を復活させるプロジェクトの意義については、こういった本が多く出るくらい議論が尽きない。

ハイパーオブジェクトはあまりに巨大な時間次元・空間次元で、物体(オブジェクト)とは何かという今までの定義のどれにも当てはまらない。非局所的で壮大で、人間では複数の世代に、もっといえば数十億年に及ぶ。(中略)地球温暖化はハイパーオブジェクトだ。天候も海洋もタイセイヨウセミクジラもそうだ。(p.319)

改めて環境をどう考えればいいかどうか分からないという私個人の悩みに立ち返ると、私にとって思考の寄る辺となっている科学あるいはミクロ経済学の2つだけでは、環境問題を取り扱うのは不十分ではないかという、根本的な原因を考える必要が出てきた。
では何が必要なのか。かつて袂を分かった倫理学なのだろうか。あるいは哲学なのだろうか。40歳を過ぎてそこに改めて足を踏み入れる時が来た(来てしまった)のだろうか。

そのあたりをもうちょっとインプットしないと、本書の感想を書くのは難しいなと気付かされた一冊。