40代ロスジェネの明るいブログ

2020年1月11日からリスタート

感想文21-03:未熟児を陳列した男 新生児医療の奇妙なはじまり

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本書の主人公は、マーティン・アーサー・クーニー(1870-1950)。同じ年生まれは、本多光太郎、ジョーゼフ・ピューリツァー西田幾多郎など。クーニーは第一次世界大戦世界恐慌第二次世界大戦の時代を生きた。

本書の副題にあるとおり、新生児医療のはじまりは現代の感覚からすると「奇妙」であった。未熟児を救うための保育器を開発し、実用化したのだが、クーニーは医師であるという確たる証拠はなく、その保育器に未熟児を入れて展示して収入を得ていたため、興行師の側面っていうか、興行師そのものの人物だ。

うちの長男は生まれた時点で2500グラムに達しておらず、低体重児だった。体重が増えるまでのしばらくの間、保育器で過ごした。本書を読むまで、そんなお世話になった保育器が、一体どうやって実用化されたのか考えることなど全くなかった。

第一次世界大戦頃の)出産に対する取り組みは、全面的な変革期にあった。産科学という分野が専門性を高めるにつれ、中産階級アメリカ人女性は自宅ではなく病院で出産するようになっていた。だが、産科医には虚弱な未熟児にかかずらう暇も意欲もなく、はじまったばかりの小児科学のほうは、未熟児を扱うところまで至っていなかったのだ。未熟児は両分野のはざまに落ち、そこで息絶えた。(p.189)

本書で興味深かったのは、子どもを無事に産むための産科学と、子どもを健康的に育てるための小児科学が存在していたものの、その両分野の間にある未熟児のケアはないがしろにされていたという事実だ。「自称」医師である興行師クーニーの保育器が唯一と言える救いであり、それにすがる親は決して少なくなかった。

マーティン・クーニーの患者たちは重い障害があったわけではなく、たんに早産で発育不全だっただけだ。だが、この時代の潮流には明確な思想がひそんでいた。欠陥のある子、成長時に障害を抱えるおそれがある子は、救う価値がないと思われていたのである。(p.195)

もう一つ忘れてはいけない。当時の思想に、「優生学」がある。

不妊手術の強制という恐るべき方策は、最終的に27カ国の6万人を襲うことになり、アフリカ系アメリカ人ネイティブ・アメリカン、メキシコ人、軽犯罪者、障害や精神疾患のある個人などが犠牲になった。(p.192)

アメリカでは不死細胞ヒーラ(感想文11-29)に載っていたミシシッピ虫垂切除術、日本では田中一村(感想文20-35)にあったハンセン病強制隔離が有名な事例だろうか。

未熟児医療が優生思想と同時期に生まれたのも大変興味深い。

マーティン・A・クーニー医師は1950年3月1日に死亡し、妻のメイが眠るブルックリンのサイプレス・ヒルズ墓地に葬られた。彼がつけていた記録簿は見つかっていないが、命を救った子の数は6500人から7000人と推定される。墓には彼の業績がうかがわれるどんな文言も刻まれていない。(p.271)

7000人近くの命を救ってきたクーニーであるが、その生涯はよくわかっていなかった。本書の原文はどうなのかわからないが、訳がなかなかわかりにくい。クーニーの混沌とした生涯のようである。

当時、人の命は現代に比して相対的に軽かったのだろう。未熟児は捨て置かれ、優生思想のもとで摘まれた命も数多くあった。そんな時代に(おそらく)医師ですらないヨーロッパからやってきたクーニーは、多くの命を救った。保育器とそこで育つ未熟児を展示し、観客の支払う入場料で、設備やスタッフの給与を支払い、そして赤ちゃんの親にはお金を請求しなかった。

親からすると無償で人の命を救う聖人のごとく思えるかもしれないし、実際に生き延びることのできた子どもはクーニーに恩を感じるかもしれない。一方で、そのビジネスモデルに異議を唱える医師がいたのも事実だ。

また、優生思想も超未熟児への医療の是非も現代まで議論は続いている。前者は選べなかった命(感想文18-45)にある新型出生前診断による命の選別、そして後者はどこまで未熟な赤ちゃんを救えるのか(救うのか)ということになる。

複雑なのは、命を奪う行為も救う行為もともに医療が行い、しかも奪われる命と救える命の分岐点である「妊娠22週」が技術の進展によって、周産期が22週によりも早い超早産児でも赤ちゃんの命を救えるかもしれない。生殖医療の衝撃(感想文16-32)の感想文の感想で書いたように、人工子宮システムが開発されつつあるからだ。

捨て置かれていた未熟児を救った保育器の歴史と、それに情熱を注いだクーニーという人物とその関係者たちについて書かれた本書は非常に貴重な資料といえる。そして、この問題は現代でも地続きであり、今でも生を受けることのできない命とギリギリのところで救われる命があるという現実を思い知らされた。