40代ロスジェネの明るいブログ

2020年1月11日からリスタート

感想文21-19:経済成長という呪い 欲望と進歩の人類史

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「人新世」の資本論(感想文21-06)で話題になった「脱成長」というコンセプト。本書は、経済成長は至上命題なのかという根本的な疑問に挑んでいる。

本書が掲げるおもな疑問は次のとおりである。経済成長が停滞しても、現代社会は存続するのだろうか。日本は1990年代の金融危機以来、力強い経済成長を取り戻そうと努力してきただけに、この問いは日本にとってきわめて重要だろう。(p.1)

私を含むロスジェネとして生きた人たちは、経済成長の波に置いてきぼりにされた。バブルが崩壊し、甘い汁を吸った人たちの後始末を押し付けられる。生まれた時代のせいで、就職先はなく、不安定な非正規雇用で糊口をしのぎ、結婚や家庭を持つことができなかった人も少なくない。

今、コロナですっかり忘却の彼方に霞んでしまったアベノミクスの記憶はアベノマスクに上書き保存され、株価だけは上昇し、実体経済を反映していない。

経済成長を実感したことはないが、身の回りの技術の進展は華々しい。ポケベル、PHS、携帯電話、スマホへとモバイル端末が劇的に進化した。ゲノムシーケンスが安価かつ高速になり、iPS細胞が登場し、ゲノム編集が可能となった。人工知能が再び脚光を浴び、今は量子技術が話題になっている。ゲームと映画の区別はつかないほどになり、VRで没入できるし、ドローンは飛ぶは潜るはで、カメラはどんどん小型化&高解像になった。

技術革新が起きているのに、私たちはその恩恵を受けているのに、経済は成長していない。なぜだろうか。

テクノロジーが急速に発展しているにもかかわらず、なぜ経済成長率は低迷しているのか、という疑問だ。私の見解は次のとおりだ。それまでの産業革命は人間の労働を内包できたのに対し、現在の革命はそうではないからだ。現在の革命により、社会はこれまでにない二極化構造になる。社会の頂点に立つ指導者たちは、スマートフォンを用いてほぼ自分たちだけで組織を動かせるようになった。一方、価値連鎖の末端に位置する対人サービス業などでは、雇用は創出されるが、生産性が低く、低賃金を強いられる。中位所得層では、強烈な圧力が生じ、逆に雇用が大量に破壊された。これはコンピュータと人間が競合した結果だ。(p.3)

富む者はますます富む一方で、コンピュータが人間の仕事を奪い、特に中位所得層の仕事は減り、低賃金労働者が増え、格差が拡大する。この流れは今後も変わらないだろう。

改めて原著のタイトルを確認すると、LE MONDE EST CLOS ET LE DESIR INFINI(閉じた世界と無限大の欲望)である。発刊は2017年9月。ピケティの「21世紀の資本」(*読んでません)が話題になった2013年から少し後だ。

訳者あとがきでは、

マルサスが警鐘を鳴らした人口爆発が人口転換という奇跡によって回避されたように、環境問題や労働強化による人間疎外も、上から押しつけられる政策ではなく、人々の心境の変化によって解決される。それは、われわれが現在の経済成長という無限大の物質的欲望から解放される、そして解放されなければならないことを意味する。現在、われわれはそうした精神的な岐路に立つという見通しだ。(p.204)

とあるように、やや楽観的な見通しを示している。まさか感染症が世界の在り方や人間の行動を、さらには歴史までもを不可逆的に変えてしまうことを予見していたわけではないが、今まさに「精神的な岐路」に立っていることに同意する人は多いだろう。

本書には重要な示唆が多くある。いくつか列挙しておこう。

現代社会の逃れられない根源的な問題は、富をこれまでとは別の方法で考察することにある。経済成長率という統計の数値に囚われることよりも、社会が生み出すべき基本的な財について考えをめぐらせることのほうが急務だ。すなわち、医療、教育、環境である。それらの財は、統計にはコストとしか表れないが、われわれが何としても守るべき最も重要な財なのである。(p.4)

コストとしてカウントされがちな医療、教育、環境こそが、最も重要な財という主張に改めて首肯する思いだ。ここにさらに、「防災」も追加したい。昨今の気候変動いや気候緊急事態とも呼べる現状を鑑みると、自然災害に如何に対応していくかは極めて重要だ。

経済成長の枯渇を心配する先進国社会には、経済成長を失速させる恐れのある措置を講じる意欲はほとんどない。新興国は、これまで先進国が物質文明の恩恵をふんだんに享受してきた様子を蚊帳の外から眺めてきたため、物質文明が自分たちから奪われることに納得しないだろう。環境危機に対処しうる道徳的および政治的な方策を見つけるには、すべての社会の間で、共通の未来を構築するのだという信頼関係を(再び)築くことが、確固たる前提条件になる。はたしてそのようになるのだろうか。(p.130)

現実世界の環境危機を目前にして国際連携が進んだかというとそうではない。むしろトランプ大統領の出現やブレグジットといった自国第一主義が先鋭化した。しかし、自国第一主義も一時的な現象かもしれず、環境危機に加えてコロナ・パンデミックが流れを変えるかもしれない。

状況への「馴化」と、常に適応しながらも期待値自体を下回るのではないかという心配の二つを組み合わせると、不快な結論が得られる。すなわち、われわれは常に不足という心配に悩まされ続けるのだ。どんなに注意しても、不足の心配は人間の心を常に苛む。人間が欲求から逃れるためにどんなに豊かになっても、その新たな状態がすぐに新たな基準になり、すべては振り出しに戻るのである。(p.152)

かくて行動経済学は生まれり(感想文18-09)で導き出された、効用を最大にするのではなく、後悔を最小にしようとする人の特性のために、不足を恐れ、その恐れが欲望に結びつく。

欲望の源泉について私は考えたことがなかったので、ハッとさせられた。欲望の源泉が人の特性から来るのだとすると、欲望のコントロールは人の性質そのものをコントロールすることに等しいからだ。

現時点で私は賛同していないが、もし脱成長を志向する場合、欲望をどうするかという問題と対峙することになる。欲望が人の性質に根付いているなら、そこに介入することは原理的に可能であるが、その方法や帰結は人道性を問われる。いや介入するほうが人道的とする意見もあるだろうか。いずれにせよそこまで踏み込まないといけない状態にまで人間の欲望が肥大化し、地球環境を損ねているとも言える。

経済成長により、人々は社会の一員になり、社会は人々を保護すると約束し、社会的な敵対関係は緩和される。不況になって経済成長が消え失せると、暴力が再燃する。その犠牲になるのは、しばしば少数派だ。(p.189)

脱成長が地球環境への負担を軽減させるかもしれないけれど、暴力を生み出す蓋然性が高い。過激な排斥運動や特定民族への弾圧はすでに現実に起きている。脱成長のためには、暴力へのケアも同時にしないといけないとなると、とても悩ましい。思った以上に、人という生き物は厄介だ。

今後、人々は、自分たち自身や自分たちの子供たちに、自分が最高と思う社会を約束するために働く。族内婚は、社会的な病理以上に深刻だ。なぜなら、族内婚は、物質的なモノという普通の意味での商品よりも社会的なつながりを消費する社会の存在形式であるからだ。(p.192)

族内婚とは、

toyokeizai.net

で示された、「横の旅行」とも連関する。社会にはレイヤーがあるのだが、そのレイヤーを意識できず、レイヤーが社会の全てだと思ってしまう。似た価値観、似た経済観念、似た生活様式の族内だけでの婚姻(≒より強固なネットワーキング)が行われる。

玉の輿や逆玉のようなレイヤーを乗り越える婚姻が起きない。格差でも分断でもなく、断絶であり、レイヤー外の人間の存在を認知できないほどだ。そしてその断絶状態には欲望が関わっている。

本書は、経済成長が果たしてきた機能だけでなく、経済成長が人の欲望をさらには生物的な性質を源泉とすることに言及し、さらには経済成長を放棄することの危険性についても明らかにしている。

経済成長は、邦題にある呪いというよりも、抗不安薬として役立つ側面が強く、だからこそ依存性があり、抜け出すのが難しい。呪いはむしろ人の特性であり、呪いがもたらす苦しみを紛らわせるために経済成長が利用されている。

日本では経済が停滞して久しい。私たちは苦しみに慣れたのだろうか。呪いを解き放つのは何だろうか。人類史が変わる転換期に私たちは生きているのだろうか。