40代ロスジェネの明るいブログ

2020年1月11日からリスタート

感想文21-21:土偶を読む

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jbpress.ismedia.jp

この記事を読んで、関心を持ち、本書を読むに至った。早速、結論を載せておこう。

そこで私は宣言したい。-ついに土偶の正体を解明しました、と。結論から言おう。土偶縄文人の姿をかたどっているのでも、妊娠女性でも地母神でもない。<植物>の姿をかたどっているのである。(p.004)

土偶とは植物の人体化なのである。信じるか信じないかはあなた次第ではあるけれど、本書を読み進めていくと、なるほどと納得させられる理屈の力強さはある。

小学生の頃に、粘土で土偶を作る機会があった。記憶が曖昧でもしかしたら埴輪を作ったのかもしれない。そもそも土偶と埴輪の違いを認識していなかった。

土偶縄文時代(約1.5万年前~紀元前3世紀ころ)に現れた土製の人形であり、埴輪は古墳時代(4~7世紀)に登場した素焼きの土製品である。なるほど、作られた時代は大きく隔たりがある。

本書の主役である土偶縄文時代に登場し、その正体は謎に包まれていた。私は考古学に興味を持てなかったのだが、その要因ははっきりしている。小学生の時に発掘調査を見学する機会があり、近くで見たいなと近寄ったら、砂が削り落ちてしまって、それについて酷く叱られたからだ。物凄い剣幕で怒られた記憶があり、怒られたその事実しか覚えていない。それ以来、考古学に近づくのはやめようと誓ったのだ。

考古学で思い出すことと言えば、もう1つある。旧石器捏造事件、通称「ゴッドハンド事件」だ。ウィキペディアでは、『日本の前期・中期旧石器時代の遺物(石器)や遺跡とされていたものが、それらの発掘調査に携わっていたアマチュア考古学研究家の藤村新一が事前に埋設しておいた石器を自ら掘り出すことで発見したように見せていた自作自演の捏造であることが2000年に発覚した事件』とある。

スクープとなり、連日報道され、大いに盛り上がっていた。そうか、20年以上も前になるのか(遠い目)。件のアマチュア考古学研究家の藤村さんは、今どうしているのだろうか。

話が大きくそれたが、本書との出会いは、これまであまり関心を持ってこなかった考古学について考える機会となった。著者の竹倉史人さんは、実際に遺跡を訪れたり、土偶のレプリカを購入したり、縄文人に近い生活をしてみたりと、土偶の謎に迫るアプローチが面白い。

古代人や未開人は「自然のままに」暮らしているという誤解が広まっているが、事実はまったく逆である。かれらは呪術によって自然界を自分たちの意のままに操作しようと試みる。今日われわれが科学技術によって行おうとしていることを、かれらは呪術によって実践するのである。(p.030)

土偶は芸術作品ではなく、実用品であり、呪術の道具なのだ。土偶は当時の最先端の「テクノロジー」であり、自然界を操作しようとする欲望の化身でもある。

土偶の変遷は重点的に利用された植物資源の変遷を示しているのである。(p.280)

縄文時代土偶の姿形の変遷がある。土偶デザインに流行りと廃りがある。土偶=芸術作品という前提に立てば、ファッションのトレンドとみなせる。他方で、本書のように土偶=実用品という前提に立てば、全く違ったものに見えてくるから面白い。つまりは縄文人は何を食べていたか、どの植物資源を大事にしていたかの傍証となる。

人間の知性の特性は演繹や帰納にあるのでもない。われわれの現実世界を構成し、意味世界を生成させ、あらゆる精神活動の基盤をなすものは、アナロジーである。(p.332)

ウィキペディアによるとアナロジー(類推)とは、『特定の事物に基づく情報を、他の特定の事物へ、それらの間の何らかの類似に基づいて適用する認知過程』とある。

残念ながら、「土偶=植物の人体化」説に明確な根拠があるわけではない。当然のことながら批判されるウィークポイントとなる。ぱっと見、土偶は植物と似てるよね、とする仮説はあくまで類推であり、その仮説が計測データや観察された事象ときちんと整合するかどうかを本書では丁寧に検証していく。

アナロジー(類推)はファンタジー(思い込み)と裏腹で、特定のアカデミズムからは忌避される手法かもしれない。他方で、本書に掲載されている椎塚土偶は、頭が貝の形をしてると誰もが直感するだろう。不可思議かつ不可解なのは、貝をモチーフにして土偶が作られたのではないかという仮説をこれまで誰も検証しなかったどころか、誰も提示しなかったことだ。

本書も出版に至るまで苦労があったそうで、門外漢の人類学者が異なるフィールドである考古学で新説を発表することの難しさがうかがい知れる。

考古学は古色蒼然とした閉鎖的なアカデミズムとする批判もあるだろうが、残された謎という未解決性が神秘性とつながり、考古学の価値を維持する役目を土偶が果たしてきたのかもしれない。解決されては困るアンタッチャブルな存在としての土偶

そこに知ってか知らずか暗黙のルールを破り、土偶の正体を解明し、華々しく発表し、美味しいところをかっさらっていった掟破りの人間として白眼視される。

しかし、閉ざされた蓋は空いてしまった。土偶=植物説がファンタジーである可能性も十分に残されているが、否定するためにはきちんとした証拠を出さなくてはならない。逆に新設が定説として定着していくと、そこを起点とした新たな謎が生まれ、新たな研究領域が広がっていく。

すると、土偶学あるいは土偶研究がにわかにホットな学問フィールドとして脚光を浴びるようになる。本書に影響を受けてこの学問に新規参入する若い人たちが増えていく。考古学以外の専門家も参入してくる。

逆にこれで盛り上がらず、健全な議論がなされなければ、土偶学だけでなく考古学の未来は暗いものとなるだろう。学問の新たな展開はいつもスリリングで面白い。そしてその瞬間に立ち会えるのは大変貴重だ。