40代ロスジェネの明るいブログ

2020年1月11日からリスタート

感想文21-23:文部科学省

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直球のタイトル。初版が2021年3月であり、「今の」文部科学省を知る上での最良の一冊と言える。

私は諸般の事情で2.5年間文部科学省で働いたことがある。今から15年前近くで、丸の内時代と今の所在地である虎ノ門時代の両方を経験した。

私はたったひとつ部署を経験しただけなので、文科省の全貌を知る由もなかった。本書を読んで、なるほどそういうことだったのか!と初めて知ったこともたくさんあった。宮仕えしたのはまだ20代後半で中央省庁や国家公務員がどういうものなのかさっぱり知らず飛び込み、上司とソリが合わず帯状疱疹になるなど精神的に苦労もしたが、トータルで大変良い経験になったし、今でもその時の人的ネットワークは貴重な財産になっている。

感想文を見直すと、当時、公務員、辞めたらどうする?(感想文08-03)公務員クビ!論(感想文08-08)さらば財務省!―官僚すべてを敵にした男の告白(感想文09-19)を読んでいたようだ。懐かしいな。

文部科学省(とそれに関連する政策等含む)の歴史をざっとまとめておこう。

私がいたのは内閣人事局設置前で、省益と国益のコンフリクトが問題視され、公務員改革が非常に話題になっていた時期と重なる。

内閣人事局の設置など一定の公務員改革が果たされ、教育と科学技術を所管する文科省はどうなったのか。今、どうなっているのか。

本書で示されているキーワードは、「間接統治」「政策の包摂」である。まずは前者の間接統治とはどういうことか。

文科省は「内弁慶の外地蔵」という二面性を備えている。筆者たちの調査でも官邸や他省庁に対してたいへん脆弱であるのに対して、教育委員会や国立大学にはたいへん強い姿勢をとっていることが明らかになった。(中略)さらに、この文科省の二面性を利用することで、官邸や他省庁が巧妙に文科省の担当分野に介入していく新たな状況を「間接統治」として描いていく。(p.6)

文科省で働いた経験から実感できる。国立大学の先生たちは文科省の職員に対して大変気を遣っていたし、現在でもその関係性は大きく変わっていないだろう。当時も今も、国立大学に対して横柄な態度をとる文科省職員がいるかもしれないが、科学や技術への畏敬の念をもって接していた方が大多数だった。

一方で、官邸や他省庁、特に経産省に対しては弱腰だ。国立大学の先生たちは文科省の言うことをよく聞く。そんな文科省をコントロールして、国立大学の先生たちを間接的にコントロールしているのが現代の姿だ。

学術政策は科学技術政策に、科学技術政策はイノベーション政策に包摂され、イノベーション政策の背後には産業政策が控えている。ここまでくると、学術や科学技術が産業政策の一部として扱われ、「社会の役に立つ研究」からさらに進んで、「利潤を生み出す研究」が重視されていく。文科省が担ってきた学術・科学技術は、省内部の担当分野間の力関係が変化しただけではなく、政府全体の成長戦略とつながった。(p.9)

そして、2014年に総合科学技術会議から総合科学技術・イノベーション会議となり、2021年4月の第6期から科学技術基本計画が科学技術・イノベーション基本計画となった。イノベーションが持て囃されて久しいが、政府はイノベーション要するに産業(≒金儲け)の方向に大学を行動変容させようとしている

学術と科学技術からイノベーションや産業へ「包摂」され、経産省(とその裏にいる財界)や官邸が文科省とそして間接的に大学を併呑していくのが今の姿だ。

なるほど!と目からウロコで、文科省は間接統治に利用されているが故に主体性に乏しく、さらに教育現場と研究現場は文科省の意向に振り回され、混乱し悲惨な状況になっている。コントロールしたい主体と現場が遠いためにフィードバックが機能せず、しかし失敗すると間に挟まれる文科省が責められる構図だ。

さて、本書で初めて知ったことを列挙しておこう。

幅広い業務を担う文科省の定員が霞が関最小というのは不思議である。(p.28)

幅広い仕事があるのに、職員数が少なく、余裕がない。私がいた頃はもう少しほんわかした組織だったのだけれど。

研究三局は、スモールサイエンス(振興局)とビッグサイエンス(開発局)の振興を図るのが、あくまでおおよその整理である。(p.47)

なるほど。振興局はライフサイエンス、ナノサイエンス、スパコン、量子など、開発局は宇宙、原子力、環境エネルギー、海洋など。

科学技術政策全体のとりまとめに関してCSTIが科学技術・学術審議会に優越する。(p.53)

これも文科省の弱さの要因の一つ。CSTI(総合科学技術・イノベーション会議)が重要政策を決めてしまう。

政府予算のなかで文科省予算のシェアは少子高齢化に伴って減少が続いている。2019年度予算では101兆円のなかで5.5兆円(5.4%)となっている。(p.120)

内訳をみると、社会保障費が34兆で最も多く、国債費が23.5兆円、地方交付税交付金が16兆円、公共事業が7兆円、防衛費が5兆円である。文科省予算は決して小さい額ではないが、減少傾向にある。

国立大学の運営費交付金が削減され、他方で競争力を失った企業が大学の基礎研究に資金提供をしたがらない情勢では、権限が集中した学長が行えるのは「身を切る改革」で支出を節減し、産業界の要望に無理矢理応えようとすることしかない。これは疲弊した自治体で公務員の人件費削減を訴えて当選する「改革派首長」と同じである。(p.156)

大学の学長の行動原理が改革派首長と同じという観点は興味深い。確かに(時として現場を顧みず)改革を全面に押し出す方をお見受けする。

全国に約3万校(小学校2万校、中学校1万校)の公立小中学校があり、そこに約67万人の教員が働いている。教員の雇用主は法令上、市町村教育委員会であるから、勤務時間の管理責任も市町村教育委員会にある。(p.182)

教員の雇用主は市町村教育委員会ということを初めて知った。なるほど、モンスターペアレンツ(通称モンペ)による「教育委員会に言いつけるぞ」という脅しは有効なのだ。教員は教育委員会に対して弱い立場にあるのだ。

教育委員会の知り合いがいるが、教員に対してとても横柄な方だった。ごく一部のレアケースと信じたいのだが、日本の教育行政について暗澹たる気持ちになったのを覚えている。

教育委員会は審議会のような有識者会議とは異なり、首長と同格の「合議制の執行機関=行政委員会」である。教育委員会はすべての都道府県と市町村に設置される(「必置規制」)。(p.193)

すべての都道府県と市町村に設置される教育委員会の存在の大きさと強さは興味深い。必置規制という言葉も初めて知った。東京などの都市部では私立学校の存在感が大きく、相対的に教育委員会の支配も弱いだろう。他方で私立の少ない農村部では実質的に公立学校と教育委員会が教育事業を独占できてしまう。教育に選択肢と自由度が少ない農村部はそれだけで私にはネガティブに映る。

修士号取得者数についてみると日本は100万人あたり500人ほどしかなく(p.249)

そんなに少ないのか。他国と比べると、日本では人文・社会科学の修士号が圧倒的に少ない。確かに知り合いで人文・社会科学の修士号を持っている人はほとんどいない。私も妻も自然科学の修士号を持っている。加えて私は人文・社会科学の修士号も持っている(博士号は持っていない)。きっと日本ではダブルマスターもあまりいないだろう。いわんや博士はさらに少ない。

政府は大学に対する予算を削減し、企業は博士号取得者の雇用を重視しないから、文科省は大学へ矛先を向けるしかない。先細る学術・科学技術人材育成の姿は、そのまま日本の学術・科学技術の凋落した姿でもある。(p.261)

散々叩かれたポスドク1万人計画。本書で詳しく書かれているが、ポスドク1万人という数値目標達成だけが推し進められ、なぜポスドクをどう活かすかについてはおざなりにされた。類似事例として、法科大学院により弁護士の数は増えたが、仕事もポジションもなく、新たな高学歴ワーキングプアを生み出した。

不幸なのは巻き込まれた人たちだ。結果的に博士課程を目指す人も、法科大学院を目指す人も減っていく。業界全体がシュリンクする。

繰り返すが、本書は文科省の「今」を知る上で最良の一冊である。文科省という一つの行政組織を通して、今の日本の科学技術の衰退、大学受験改革のゴタゴタの失態は文科省だけにあるのではないこともわかるだろう。