40代ロスジェネの明るいブログ

2020年1月11日からリスタート

感想文22-07:科学オタがマイナスイオンの部署に異動しました

海に降る(感想文15-55)と同じ朱野帰子さんの小説。ずいぶん前に買っていたのだけれど、途中まで読んで読了してなかったのを発掘した。

なぜ途中で読むのをやめたのかは判然としないが、本書はラノベっぽい冗長なタイトルに似合わず、内容はわりと硬派な小説だ。

科学を信じ、科学者に憧れながらも、科学者になる道を諦め、大手電器メーカーに勤める、主人公の賢児。

私も科学者に憧れた時代もあったが、結局、科学者になる道を諦めた。とはいえ、転職して、巡り巡って、今では科学に関係する仕事で糊口をしのいでいる。前の会社の同期はアカデミアの世界(科学者ではないけれど)で生き残っている人もいて、羨ましく思う反面、大変だなとも、正直なところ思う。

賢児に共感する点もあれば、やや行き過ぎた行動や、行動力の有り余る勢いに若干、引く。私ももうちょっと若い頃はそれに近いところもあったやもしれないのだが。

結婚し、子供が生まれ、大きな組織で揉まれ、立ち回り、それなりに出世し、部下の面倒を見て、上司から言われたことをできる範囲で具現化する。賢児の姿を見ていると、そんな日々を過ごしているうちに、私自身が何か大切なものを忘れしまっているようにも思えてくる。

賢児は怒りと同居している。

許さない。似非科学を。弱っている人間を食いものにする奴らを。(p.189)

病気となった父を救うために、賢児の母は似非(えせ)科学に大金を投入してしまう。賢児の姉も出産、育児で似非科学に惑わされる。

代替医療のトリック(感想文10-49)では、鍼、ホメオパシーカイロプラクティック、ハーブ療法を代替医療として批判しているし、現代でも、反ワクチン運動が平然と行われている。

10万個の子宮(感想文18-17)でも書いたように、病気になってから投薬する治療薬の副作用や難易度の高い手術の失敗を許容できても、ワクチンによる副作用を冷静に判断できないのだ。

でもそれがきっと科学なのだ。科学者たちは絶対に大丈夫だなどとは言わない。長い時をかけて出した答えを疑って、試して、また疑って。人に褒められたいという欲望も、うまくいきますようにという温かな祈りも、心からしめだして、冷徹につくられた科学のはしごだけが過酷な宇宙へ続いているのだろう。(p.266)

ワクチンは絶対安全だなんて科学者は言わない。私が嫌いな言葉ランキング上位に入ってくるのは、「可能性はゼロではない」だ。この言葉は何も意味していない。可能性がゼロと言い切れる事象は極めてレアだ。そんなのあるのか。ゼロではないわずかな可能性に、過大評価も過小評価もなく反応するのは難しい。過大評価の方が安全よりだが、法外なまでにコストをかけて対応するのは馬鹿げているし、ゼロではないわずかなリスクを過剰に喧伝するのも同じく馬鹿げている。

本書は国による科学への投資の減少もテーマになっている。

本物の科学で金を稼ぐ。できるだけ稼ぐ。その金を科学にまた注ぎこむ。それができるのは商人だけだ。(p.298)

もちろん科学はカネ儲けの道具ではないが、科学にはカネがかかる。サイエンス・イズ・マネー。科学に関係する仕事をしているので、大変よく分かる。科学者の行動原理の多くはカネで説明できるほど、研究費が非常に強いインセンティブになる。真理探究や好奇心は科学を推進する原動力としてとても大事だが、研究費がなければ何もできやしない。

資本主義と科学は極めて相性が良い。だが、私は科学に何かしら貢献したいが、資本主義に貢献したいとは思っていない。きれいごとだけれど。

ただ、本書の重要なメッセージ、「本物の科学で金を稼ぐ。」はずしりと私の胸に響いた。似非科学ではなく、本物の科学こそが市場を生み出し、破壊的イノベーションを起こし得るのだ。もちろん、イノベーションを起こすのは、本物の科学から生まれたテクノロジーを享受し、利用する消費者であり、科学者ではない。

似非科学に基づくテクノロジーは、たとえ一時的に市場を生み出したとしても、真に世の中を変えられない。むしろ退行させ、健康寿命や地球環境に害をもたらす。だが本物の科学にもネガティブな側面は付きまとう。

科学は万能ではない。しかも科学にはカネがかかる。科学は使い方によっては不幸も生み出す。しかし科学を捨て去って生きることはできない。

改めて科学に関係する仕事する一人の人間として、考えさせられる一冊だった。仕事が山積みだったので、ようやく本を読めるようになったんだよね。ちゃんと本を読んで、こうしてアウトプットしないとどんどん衰えていくのを実感した。