40代ロスジェネの明るいブログ

2020年1月11日からリスタート

感想文16-35:日本の10大新宗教

※2016年10月30日のYahoo!ブログを再掲

 

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著者の島田裕巳さんは有名な宗教学者八紘一宇 日本全体を突き動かした宗教思想の正体(感想文15-45)を読んだことがある。本書はそれよりも以前に出版された新書だ。

10大新宗教とは、①天理教、②大本、③生長の家、④天照皇大神宮教と璽宇、⑤立正佼成会霊友会、⑥創価学会、⑦世界救世教神慈秀明会と真光系教団、⑧PL教団、⑨真如苑、⑩GLA(ジ―・エル・エ―総合本部)のこと。

そもそもなぜこの本を読もうとしたのか。それは椹木野衣さんのアウトサイダー・アート入門(感想文16-06)で大本の出口王仁三郎のことが紹介されていたから。芸術を入り口にして宗教のことに興味を持ったわけだ。

それからもう一つ理由がある。家族で宗教問題が発生しているから。詳しくは書けないし、書きたくないけれど、現実に頭を悩ませている問題になっている。

本書は以前から気にはなっていたけれど、詳しく知りようもなかった新宗教についてコンパクトだけれど丁寧に解説してくれている。まずは自分の経験したことの背景に宗教があったのだということを知った点を挙げておこう。

まさに天理市は、天理教を中心とした「宗教都市」だったのである。

関西出身の私には天理教はわりと身近な存在だった。おぢばがえりという行事があり、そのなぞの言葉響きが記憶に残っていた。ぢばとは「地場」のことだったのだ。一つ長年のなぞが解けた。入信するつもりは微塵もないけれど、一度、宗教都市に行ってみたい。

戦後に勢力を拡大してからの立正佼成会は、創価学会と対抗し、反創価学会系の新宗教教団が集結した新日本宗教団体連合会新宗連)の中心教団として活動を展開した。

杉並区あたりの環七沿いにそびえ立つ巨大な宗教施設。これも不思議だったのだ。そこには学校も併設されており、こういうところで学生生活を過ごすとどういう人間が形成されるのかなと考えていた。それが立正佼成会だったのだ。

神慈秀明会は、一時、街頭での布教で知られていた。

おお、あったあった。中学生時代によく駅で見かけたものだ。当時中学生だった私も「3分間のお祈りさせてくれませんか」とか言われたことがった。同級生が果敢にも良いですよと了解し、手かざしされてたけれど、周りは大爆笑していた。真剣に布教していた女性には気の毒なことをしたものだと今にして思う。あれは神慈秀明会という新宗教だったんだ。

世界真光文明教団崇教真光の場合、世界救世教、さらには大本の影響は、聖地の建設というところに示されている。

20年くらい前に家族で飛騨高山へ旅行に出かけた。巨大な宗教施設があり、ちょっと見に行ってみようかと歩いて目指したものの、随分近づいたかなと思ったら全く光景が変わっていなくって、結構遠くに建っていることと、そしてそれが途方もなく大きな施設であることが判明し、恐ろしくなったのを覚えている。結局、引き返してしまった。あれは崇教真光の聖地だったのだ。

ということで、本書を通じて、あれは新宗教だったんだなと、初めて気づいたり、なぞが解けたりすることがあった。

さて、ここからは全般的なことを挙げておこう。

新宗教の教団に信者として吸収されていったのは、産業構造の転換にともなって、第二次、あるいは第三次産業に従事する労働者として地方から都市に移ってきた新しい都市住民たちであった。(中略)都市に新たな人間関係のネットワークを築く上で、新宗教の信者になることは大いに役立った。

大企業に入れなかった地方からの移住者にとっての居場所となったのは新宗教だった。そういう気持ちになるのも分からなくはない。そもそも大きな会社は宗教みたいなものだったりする。子どもが成長し、物心がつかない頃から新宗教に触れていたことを知り、反発して出ていってしまうということもあるだろう。

よく「苦しいときの神頼み」といった言い方がされる。たしかに、人が宗教に頼るのは、悩みや苦しみを抱えているときである。だが、本当に苦しいときには、人は神頼みをしない。不況が長く続き、深刻化しているときには、豊かになれる見込みがないので、神仏に頼ったりはしない。むしろ、経済が好調で、豊かになれる見込みがあるときに、人は神仏に頼る。高度経済成長は、まさに神頼みが絶大な効力を発揮した時代だったのである。

非常に面白い指摘で、たしかにそうかもしれない。本当に苦しいときは神様に頼っている場合ではない。豊かになれるという希望があるとき、あるいは実際に豊かになったとき、そこに神秘性を見出すのかもしれない。

批判性を失い、日常化した新宗教が、どこまで信者の関心をつなぎとめておけるのか。それは、GLAだけの問題ではなく、新宗教全般にあてはまる課題である。

アラフォーの私にとって宗教と聞いてイメージするのは、オウム真理教であり、地下鉄サリン事件であり、やたらとテレビに露出した上祐氏であり、生放送中に殺された村井氏であり、選挙カーで名前を連呼していたあの歌であり、サティアン上九一色村だ。

多感な高校生の頃で、その高校は仏教系だった。卒業生の一人がオウム真理教の幹部となり、となりクラスの担任がその卒業生の元担任だったので、雑誌でインタビューされたりもした。

高校のカリキュラムに宗教の時間があり、ゴータマ・シッダールタ空海について学んだけれど、結局は、オウム真理教も同じ宗教であり、何やら怖く、危険なものという認識になった。

緩やかで心の平穏を与えてくれるような宗教は身近に存在している。他方でそれは別段宗教という枠組みでなければいけないというわけでもないように思う。宗教とは一体何かという根本的な疑問が沸き起こる。

とまあ、ここからは全く別のことを書いてみたい。本書を読んで真っ先に浮かんだことは、宗教ゲームって作れそうだし、面白そうということだ。

自由度が高く、教祖となって、特徴のある教団を作っていくというシステムもあるだろう。巨大施設を建てたり、学校を経営したり、海外展開したり、議員を送り込んだりして成長していく、ビジネスと類似した教団もあるだろう。あるいは、先鋭的な教義を掲げ、狂信者を生み出し、テロを引き起こし、自暴自棄的な破滅を誘う教団もあり。はたまた宇宙と交信したり、快楽に溺れたり、超能力や超常現象を見せかけたり、ストイックな修行に励んだりと、とにかく何でもござれというのも楽しそう。ただ、何をゴールとするか、かなぁ。寿命くらいしかないかなぁ。

あるいは、教団の一員となって、教団の発展のために身を捧げるというのも面白そう。こちらはアクションRPGでストーリーがある。主人公は信者獲得や教団維持のために日夜働く。教団内部にライバルがいたり、対立する他教団と抗争したり、分派しようとする幹部の企てを阻止したりして、信望を集め、頭角を現していく。

うーむ、ヒロインも必要だ。宗教を信じない、神の存在を認めない、バリバリのリアリストをヒロインにしてみよう。職業は銀行ウーマンあたりが良いかもしれない。そんな二人が企業融資と信者獲得でコンビを組む。しかし、教団は先鋭的な集団へと変貌し、主人公は悩む。教団の真の狙いとは、隠された教祖の秘密とは…みたいな。

どちらにしてもちょっとやってみたい。当然、島田裕巳さんに監修をお願いする。

と私のアイデアを妻に話したら、宗教に絡めると危ないからって、きっと開発してくれないとダメ出し。いやいや、龍が如くみたいなヤクザゲームがあるんだから、きっと大丈夫なはず。

とまあ、本書を読むと、それぞれの宗教の生まれた背景や教義に触れることができ、こういう妄想が捗る。宗教はヒトの本質に深く入り込んでいる。たまには宗教について考えてみるのも良いことだ。どこにも入信しないけどね。

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(感想文の感想など)

感想文を読み直すと宗教ゲーム構想を練っていて驚く。全然、覚えてない。

架空の宗教なら誰かに怒られたり、被害にあったりもないかな。その昔、教祖誕生って映画があったくらいだもんな。