40代ロスジェネの明るいブログ

2020年1月11日からリスタート

感想文22-14:クロード・シャノン 情報時代を発明した男

本書の主人公は、クロード・エルウッド・シャノン(1916-2001)。ウィキペディアよると『アメリカ合衆国の電気工学者、数学者。20世紀科学史における、最も影響を与えた科学者の一人である。情報理論の考案者であり、情報理論の父と呼ばれた。情報、通信、暗号、データ圧縮、符号化など今日の情報社会に必須の分野の先駆的研究を残した。』とある。

シャノンと同じ1916年生まれは、フランシス・クリック、五島昇、フランソワ・ミッテラン。1912年生まれのチューリング感想文22-10参考)よりちょっと年下にあたる。

本書を手にするまでクロード・シャノンを全く存じ上げなかった。

シャノンのその後の人生とアメリカ科学界の針路を決定づけた人物に、人を見る目があったおかげだ。その人物とは、ヴァネヴァー・ブッシュである。(p.35)

ヴァネヴァー・ブッシュ!ここでその名前が出てくるとは!アカデミック・キャピタリズムを超えて(感想文10-68)にも登場するが、ヴァネヴァー・ブッシュはアメリカのサイエンスの歴史を語る上で欠かすことのできない大物だ。

ブッシュがシャノンを見出し、そしてブッシュの政治力によってシャノンはその才能を十分に発揮していく。

脱線するけれど、ブッシュについてちょっとだけ補足しておこう。

ヴァネヴァー・ブッシュの輝かしい業績のリストのなかには、アメリカにおけるこの優生学の抹殺への寄与を加えるべきだろう。優生記録所に資金を供出しているワシントン・カーネギー協会の会長としての立場を利用して、断種に熱心な所長を解任したうえで、1939年12月31日には記録書の閉鎖を命じたのだった。(p.78)

どこの話かというと、かの有名なコールド・スプリング・ハーバー研究所(CSHL)だ。20世紀前半は優生学研究でも知られていたらしい。そんな暗い生い立ちがあったとは。そんな優生学をシャットダウンしたのはブッシュで、1940年にブッシュはシャノンをCSHLに送り込む。シャノンはそこで分野としては畑違いだけれど、遺伝学の分野で仕事を行い、博士論文を仕上げた。

シャノンと同い年のクリック(2004年没)とワトソン(今現在、存命!)が1953年にDNAの二重螺旋構造を示すずっと前に、遺伝学と情報科学を結び付けていたブッシュの慧眼には驚かされる。シャノンも凄いが、ブッシュの目利き能力も凄まじい。

1930年代、「記号を使った計算」すなわち厳密な数理論理学と、電気回路の設計のどちらの分野にも精通している人間は、世界に一握りしか存在しなかった。<中略>シャノンの頭のなかで融合する以前には、このふたつの分野が共通点を持っているとはまず考えられなかった。論理を機械にたとえることはできても、機械が論理を実践できるわけではないと信じられていた。(p.57)

博士論文から遡って、シャノンの業績で燦然と輝いているのは修士論文だ。スイッチのオン・オフが複雑な計算をこなせる、今のコンピュータの基本原理だが、これをシャノンが修士論文で示したのだ。

スイッチが記号に置き換えられると、どんなスイッチかはもはや重要ではなくなったのである。重くて扱いにくいスイッチから分子スイッチまで、いかなる媒体であってもこのシステムは通用した。<中略>あらゆるステップは0と1の二値(バイナリ)論理に基づいて進行していく。(p.66)

こうしてコンピュータはスイッチの開発へとつながっていく。より小さく、安価で、安定的で、高速で、省エネな仕組みが望まれる。電磁石、真空管トランジスタ集積回路(IC:Integrated Circuit)、大規模集積回路LSI:Large-Scale Integration)へと発展していく。

その後、シャノンは、情報理論という新しい数学的理論を生み出した。

1948年、シャノンの理論的研究は解答と同時に多くの疑問も投げかけた。<中略>彼の論文の大きな特徴は後世への影響である。彼の論文をきっかけに新しい研究分野がまるごと誕生し、対話や話し合いが促され、それは本人がこの世を去ったあとも続けられてきた。<中略>これだけ影響が長続きした論文はまずない(9万1000回以上も引用され言及されている!)。(p.377)

シャノンは情報理論で先駆的かつ歴史的な仕事を行うと同時に、チェスのためのプログラミングやジャグリング定理、株式市場の研究など、ユニークな研究を、自由気ままに進めていく。

マレー・ヒルのオフィスに出勤するとしても到着する時間は遅く、集会所でチェスやヘックスなどのゲームに興じて1日を過ごした。ボードゲームで同僚を打ち負かしていないときには、ベル研究所の狭い通路で一輪車に乗っている姿が目撃され、乗ったままジャグリングをしているときもあった。あるいは、ベル研究所のキャンパスをポゴスティック(ホッピング用の玩具)で跳ね回っているときもあり、給与を支払っている関係者の当惑ぶりが目に浮かぶようだ。(p.274)

俊英たちの集うベル研究所においてさえ、天才シャノンは自由を享受することが認められていた。自由というのは、奇行が許される環境にあるということだ。

シャノンは根本的に内向的な人物で、科学界での地位のわりには仲の良い友人が少なかった。<中略>このような人物像を考えると、チューリングと熱心にコンタクトを取り続けたという事実そのものに、ふたりで話し合ったいかなる内容よりも驚かされる。ふたりがベル研究所で共に過ごしたのは数か月にすぎないが、そのあいだにチューリングから信頼され友情を育んだという事実は、ふたりがお互いに相手を高く評価していた何よりの証拠だ。(p.152)

戦争によって自由に好きなことを話せる立場にはなかったため、チューリングとシャノンの関係ははっきりしないが、互いに信頼しあっていたようだ。チューリングが若くして亡くなったのは本当に惜しまれる。

さて、チューリングは人生が短く、日本との関係はほとんどなかった。しかし、シャノンは日本と関りが少しだけある。なんと、京都賞の第1回受賞者なのだ。

1984年に創設され、今ではノーベル賞に匹敵する偉大かつ著名な賞である京都賞。シャノンは存命中にノーベル賞を受賞できなかったが、京都賞を受賞している。きちんとシャノンの業績を評価した審査選考委員やプロセスには脱帽しかない。

先日、2022年の京都賞が発表され、先端技術部門を受賞したのは、カーヴァー・ミード氏で、対象となった業績は奇しくも「大規模集積回路(VLSI)システム設計の指導原理の構築と確立への先導的貢献」だ。

www.kyotoprize.org

第1回のシャノンの業績「情報技術の数学的基礎となる情報理論の創成」が基礎となり、VLSIのシステム設計が進み、エレクトロニクス産業が花開いていく。

今私たちはさも当然のように情報科学の恩恵を受けているが、天才シャノンが切り開いた数学分野がコアとなり、人類の叡智がつまった結晶へと昇華している。

情報理論からコンピュータ、そしてスイッチ開発の流れがようやく私にも理解できるようになってきた。