40代ロスジェネの明るいブログ

2020年1月11日からリスタート

感想文22-15:沈黙

 

会社の方にお借りした小説。1966年の作品ということで、半世紀以上も前の小説だ。40代の私も生まれてない。だが読みにくさは全くなく、いや、最後の「切支丹屋敷役人日記」はさっぱり読めず、ググったら内容を教えてくれるサイトがあったので、私のように古文苦手な方はそれをお読みになるとさらに楽しめると思います。

detail.chiebukuro.yahoo.co.jp

小説のテーマは「神と信仰の意義」。私は神を信じるかと問われると「信じる」と答えるが、神は存在するかと問われると「物理的には存在しない」と答える。無神論者ではなく、神頼みもすれば、神に祈ることもあるけれど、存在を否定する。面倒な奴だな。

さて、安倍元首相が暗殺され、にわかに宗教問題が脚光を浴びている。日本の10大新宗教(感想文16-35)では件の教団は登場しないが、ここまで特定の宗教団体が話題になったのは、オウム真理教以来ではなかろうか。

本書は新興宗教ではなく、世界三大宗教の一つである、キリスト教だ。あいにく、私はキリスト教のことを深くは知らない。

舞台は17世紀の日本。苛烈なキリスト教弾圧の最中に、まさに命と命よりも大事な信仰心をかけて、日本へ乗り込んでいった若きポルトガル人でイエズス会司祭のロドリゴの物語だ。

しかし日本での布教の旅は、苦難の連続で、ロドリゴのためにキリシタンの日本人が、苦しめられて、殺されていく

何を言いたいのでしょう。自分でもよくわかりませぬ。ただ私にはモキチやイチゾウが主の栄光のために呻き、苦しみ、死んだ今日も、海が暗く、単調な音をたてて浜辺を嚙んでいることが耐えられぬのです。この海の不気味な静かさのうしろには私は神の沈黙を―神が人々の歎きの声に腕をこまねいたまま、黙っていられるような気がして…。(p.93)

だが、神は答えてはくれない。奇蹟も起こしてくれない。本書のタイトル通り、「沈黙」が続く。

「すべてのものを腐らせていく沼」と言わせしめる日本の精神的土壌は、現代の日本においてもキリスト教が根付いているとは言い難い。

そんな沼地に種を撒かんとするロドリゴは、自分の信仰を守るか、棄教して日本人信徒を救うか、究極のジレンマを突きつけられる。これが本書のクライマックスだ。

彼は人々のために死のうとしてこの国に来たのだが、事実は日本人の信徒たちが自分のために次々と死んでいった。どうすれば良いのか、わからない。行為とは、今日まで教義で学んできたように、これが正、これが邪、これが善、これが悪というように、はっきりと区別できるものではなかった。(p.208)

現実社会では正邪善悪が混沌となり、トレードオフが発生する。ゲーム理論的には、棄教が支配戦略となるよう設定されたゲームにロドリゴは強制的に参加させられ、棄教を選択せざるを得ない。

私はロドリゴのようなピュアな信仰心を持ち合わせていない。同時に、特定の宗教への激烈な敵愾心や恨みも持ち合わせていない。ある程度の距離感を開けておきたいくらいの気持ちしかない。

究極のジレンマを突き付けられたロドリゴの気持ちを慮ることはできるが、感情移入は難しい。なぜそこまでしてキリスト教を布教しなければならないのか。逆になぜそこまでしてキリスト教の布教を阻止せねばならないのか。

本書のキリスト教文学としての価値や重要性を疑う余地はない名作であるが、他方で信仰心そのものが希薄な私は、やや取り残された感を覚える。

むしろ、世界史の中の石見銀山(感想文10-61)にあるように、かつては覇権国家であったポルトガルが短い栄華を終え、1580年にスペインに併合され、「ポルトガル本国が滅亡したため、多くのポルトガル人が日本へ亡命した」という説明はすんなり受け入れられる。

また、苛烈なキリスト教弾圧は、大久保長安ポルトガルと組んでクーデターを画策したので、一気に日葡関係が冷え込んだ説(あくまでも仮説)も理解しやすい。

ピュアな信仰心のポルトガル人が布教に来た日本で究極の選択に迫られるストーリーも、それはそれで理解できるが、その背景には、もっと信仰心に比べるとドロドロした、というかもっと人間の欲あるいは人間性そのものの、ビジネスや覇権争いが存在している。

安倍首相暗殺事件の犯人の同機は、金銭トラブルによる逆恨みと短絡的にまとめることはできるが、その背景には、ビジネスや覇権争いがある。「政教分離」と聞こえは良いが、相当なエネルギーをつぎ込んでも分離するのは現実的には難しいだろう。

政治も宗教も煎じ詰めれば権力闘争であり、行動原理は近く、親和性がある。宗教団体を取り込んだ自民党も宗教であるとするなら、自らの教義で宗教団体を排除した共産党も同じく宗教にしか見えない。多神教的な自民党一神教的な共産党と言い換えても良いだろう。

事実、ロドリゴのようなピュアな司祭がキリスト教を日本に布教しようとしたが、結果、頓挫している。結婚式は教会で、葬式は寺で執り行う。クリスマスにチキンとケーキを食べ、初詣は神社に行く。お経を聞き、賛美歌も歌う。また、宗教弾圧もないし、特定の宗教団体が帰属する信者以外の行動の自由を奪うこともない。

寛容なのか無頓着なのか柔軟なのかどう形容すれば良いか分からないが、多くの日本人はそうやって過ごしている。

考えてみれば、これが平和と呼べる状況だろう。あいにく幸福な状況であるとは申し上げにくいのだが。平和さは総じて聡明な国民が非寛容で多様性の乏しいイズムを選択してこなかった帰結であり、同時にもたらされている停滞感は愚鈍でもある国民が背景にある矛盾を見て見ぬふりを続け、ささいな変革ですら先送りしてきた帰結でもある。

カルトな宗教団体を排除できるかどうか、今(2022年8月7日時点)、大きなテーマになっているが、この熱はいつまで続くだろうか。そりゃ騙された人はたくさんいるし、利用し、利用されてきた政治家もたくさんいる。宗教二世はお気の毒としか言いようがない。

たぶん熱は長くは続かないと思う。新たな規制ができるわけでもないだろう。結局はほとんどの人は被害者でなく、身の危険を感じてないからだ。事件を起こしたのはカルト教団ではなく、信者二世であり、被害者は一般国民ではなく元総理大臣なのだ。血盟団事件(感想文14-17)のような信者による要人への暗殺事件ではないのだ。殺されるかもしれないという恐怖心が政治を支配した1930年代とは全く異なっている。

今回の事件で学ぶべきは、カルト教団に近づかない、関わらないってことだ。そして、自分が信じているものや知っていることを疑う姿勢だ。実行は難しいし、精神的に辛いときにカルトは忍び寄ってくる。

でも国家はカルトを排除しないし、国民を守ってもくれない。常に考え、疑い、慎重に行動するほかない。なかなかできることではないんだけどね。