40代ロスジェネの明るいブログ

2020年1月11日からリスタート

感想文22-16:李歐

高村薫さんの小説。こちらも会社の方にお借りした本。「マークスの山」と「照柿」を読んだのはたぶん、私が大学生の頃で、久しぶりに高村さんの小説を読んだ。

高村薫さんらしい、暗く重い文体で、特に序盤読み進めるのはしんどい。関西が舞台はいつものことで、関西弁と中国語が入り混じる展開に、とっつきにくさを感じる方もいるだろう。

とはいえ、後半から怒涛の展開で進んでいく。

本書の李歐は登場人物の名前。主人公である吉田一彰との関係でストーリーは進む。

李歐という歓喜。暴力や欲望の歓喜。友だちという歓喜。常軌を逸していく歓喜。(p.180)

一彰にとって「李歐=歓喜」の図式が生まれる。李歐で検索すると、出てくる出てくるBLのワード。そうだったのか、そんな風に読み解くことはできてない。女性が読むとBL小説的になるのか。

本書の時代背景は1970年代から90年前半。実際に起きた歴史的な事件を絡ませながら、二人は激動の時代を生きていく。

一彰は今は、年の初めに周恩来が死んだことを思い出しながら、李歐の口から語られる十年前の文革初期の話に耳を澄ませていた。もう十年にならんとする革命も、実態は共産党指導部の奪権闘争に過ぎなかったことが分かり始めている今日だった。(p.243)

本書で最も印象的だったのは、希望のカラ売りという言葉だ。

戦争が終わっても、植民地が独立しても、民主主義だの共産主義だのというて、どれだけの人間が希望の前売り券を自分の命で買うてきたか、いうことや。それでもその日は来ない。いつまで待っても、希望のカラ売りや。そういう時代やった。それでも、どこかの一点で時代は動いていくんやろう。文化大革命も、何百万人も死んで、あるとき終わった。ベトナム戦争も終わった。ベルリンの壁も崩壊した。誰かが動かしていくんや。誰が動かすか、や。そんな人間が、どこかの一点に出てくる。(p.509)

いつか平和な時代が来ると信じて多くの人が死んでいく。今のウクライナとロシアもそんな状況かもしれない。でもいつかある時、戦争が終わる。「誰か」が存在するのか、その存在を認知できるのかは分からないが、いつかは終わる。そう信じてやまない。