40代ロスジェネの明るいブログ

2020年1月11日からリスタート

感想文22-17:実力も運のうち 能力主義は正義か?

 

これからの「正義」の話をしよう(感想文10-67)それをお金で買いますか(感想文12-78)に続く、マイケル・サンデルさんによる本の感想文。

原題は、「The Tyranny of Merit」で、「メリットの横暴」である。で、メリットって何?ってことだけれど、

自分の運命は自分の能力や功績(メリット)の反映だという考え方は、西洋文化の道徳的直観に深く根付いている。(p.53)

とあるように、メリットとは能力や功績を意味している。でも能力と功績って全然違う概念じゃね?って思うわけで、そこでまずは巻末の本田由紀さんの解説を引用しておこう。

重要なのは、英語の世界では実際には「功績主義」という意味で用いられているmeritocracyが、日本語では「能力主義」と読み替えられて通用してしまっていることである。<中略>人びとに内在する「能力」という幻想・仮構に支配されている点で、日本の問題のほうがより根深いと筆者は考えている。(p.332)

~cracyは~による支配という意味があり、メリトクラシーは能力や功績を有した者による支配となる。解説にあるように日本では、能力主義と訳せられ、通用してしまっている。つまり日本社会では、功績よりも能力による支配が概念的にフィットするのであって、まだ何も成し遂げていない能力を有する者を特別扱いしていて、本田さんはもっと踏み込んで、能力は幻想であり仮構とまで看破している。

改めて日本語版タイトルに戻りたい。運も実力のうちとはよく耳にするが、「実力も運のうち」としたのは、なかなか秀逸だなと本を読み進めていくうちに理解していく。あいにくタイトルだけだとピンとこないのだけれど。

さて、本書の舞台はあくまでアメリカだ。アメリカ 暴力の世紀(感想文18-14)にあるようにエネルギッシュで、極端で、暴力的なアメリカ。2016年12月にトランプが大統領に当選し、その結果に大変驚いたと当時に、アメリカ社会が分断している現実を知った。

現在のアメリカ政治で最も深刻な政治的分断の一つは、大学の学位を持っている人びとと持っていない人びととのあいだに存在する。2016年の選挙では、トランプは大学の学位を持たない白人有権者の3分の2の票を獲得したが、ヒラリー・クリントンは上級学位(修士号あるいは博士号)を持つ有権者のあいだで圧勝した。イギリスのブレグジット国民投票でも同様の分断が現れた。大学教育を受けていない有権者は圧倒的にブレグジットへ賛成票を投じたが、大学院の学位を持つ有権者の大多数は残留に投票したのだ。(p.42-43)

学位の有無が深刻な政治的分断となっている。フランスの黄色いベスト運動(感想文20-23)も状況は似ているのだろう。

学位の有無がなぜ分断になるのか。

成功は幸運や恩寵の問題ではなく、自分自身の努力と頑張りによって獲得される何かである。これが能力主義的倫理の核心だ。この倫理が称えるのは、自由(自らの運命を努力によって支配する能力)と、自力で獲得したものに対する自らのふさわしさだ。(p.89)

学位の獲得という成功が、自らの努力の証左であり、能力主義的なうぬぼれや思い上がりをもたらすだけでなく、学位を獲得できなかった人に屈辱感や敗北感を与える。人種差別や性差別にあれほどラディカルに反応するアメリカにおいてさえ、今なお学歴偏重主義は容認されている。

とはいえ、アメリカは自由の国であり、恵まれてない人でも努力によって大逆転できるアメリカン・ドリームがあるよね、って反論はあるだろう。ところが、実態はそうではなくなってしまっているのだ。

実のところ、アメリカの経済的流動性はほかの多くの国よりも低い。<中略>デンマークとカナダの子供は、アメリカの子供とくらべ、貧困を脱して裕福になれる可能性がはるかに高いことがわかる。これらの基準からすると、アメリカン・ドリームが無事に生き残っているのはコペンハーゲンなのだ。(p.113)

経済的流動性アメリカよりも日本の方が高い。バーバラ・エーレンライクさんのニッケル・アンド・ダイムド(感想文10-88)の時点でアメリカン・ドリームは遠い過去になっている。転落すると復活する望みはなく、格差は固定され、低賃金労働者の生活は富裕層には認知されない。そしてアメリカの状況は能力主義と癒合している。そこに正義はあるんか、そうサンデルさんは問いかける。

下剋上も革命も起きず、ないがしろにされたように感じる人生を歩む。無差別な銃乱射事件、オピオイド系鎮静剤の過剰処方とオーバードーズ、そして絶望死。悲惨なワードが並ぶ。アメリカ社会の裏側だが、人口比率ではマジョリティかもしれない。

ではどうすれば良いのかについて、本書でサンデルさんが具体的なアイデアを示している。しかし、アメリカ社会にリアリティを感じない私にはピンとこない。能力主義以前に、銃と薬物過剰処方を規制した方が良いんじゃないかと思うが、まあ無理なんだろう。日本とはまた違ったところで狂っている。

この感想文では日本社会について書き残しておきたい。ブログのタイトルにあるように日本ではロスジェネ世代が、世代ごっそりと損な役回りになっている。そこそこの高学歴者でも就職活動に苦戦し、正規職を得られず、苦労している人は少なくない。いわんや家庭環境などの理由で大学に行けなかった方の苦労はさらに厳しいものがある。

私はそこまで裕福ではないものの家庭環境に恵まれ、それなりに勉強が得意で、世間では高学歴と言われる部類の大学院に進んだものの、就活の茶番さが嫌になり、大学院の途中から小さな会社で働きだし、3年目くらいでその会社が立ち行かなくなる雰囲気になり、大きな会社に転職し、学生時代から付き合っていた人と結婚し、子供が生まれ、同僚から恨まれないくらいの速度で昇格し、今に至っている。

つくづく思うが、今の自分の人生があるのは、「運」でしかない。人並みの努力はしたが、限界まで自分を追い込んだような経験はない。運が良かった根本的な要因が何かはさっぱりわからない。もちろん、ここから悲惨な運命が待ち受けているかもしれない。

非正規社員の方が挨拶しても無視する正規社員や、店員に横柄な態度の客や、常にマウントを取ろうとする人がいるが、心底理解できない。嫌悪感しかない。何でそんなに偉そうな態度を取れるんやと。

こういった目を覆いたくなる言動は、行き過ぎた能力主義が日本にもはびこっているからなのだろうか。「勝って兜の緒を締めよ」、「実るほど頭が下がる稲穂かな」、「奢れる者は久しからず」。常に心に留めておきたい。

機会の平等は、不正義を正すために道徳的に必要な手段である。とはいえ、それはあくまでも救済のための原則であり、善き社会にふさわしい理想ではない。(p.318)

機会の平等を超える仕組みは何だろうか。理想への道のりは険しい。しかし、能力がなくても、功績がなくても、幸福にはなれるはずだ。能力があって、功績があっても、幸福を感じられない人もまたいるだろう。

平均寿命から換算すると、私の人生の半分は過ぎ去った。自分の能力のでこぼこさと不甲斐なさも、もはや手に入ることのない功績の空白も、併せ吞んで、残りの人生何が幸福なのか考える時間が増えた。痛みなく動ける身体、心許せる友人、そして何より大事な家族。他に何があるだろうか。楽しいことをして、面白いことをして、気持ち良いことをして、美味しいものを食べる。

メリットから解放され、「運」と「縁」を大事に生きていく。残りの人生を日々考え、歩んでいきたい。

やれやれ。枯れたじいさんの感想文だな。