40代ロスジェネの明るいブログ

2020年1月11日からリスタート

感想文22-24:mRNAワクチンの衝撃

40年ちょっとの人生を振り返ると、最も大きな世界の変化は、やはり新型コロナウイルス感染症の蔓延だろう。マスクを外せなくなり、行動が制限され、感染症に怯え、働き方が変わり、そしてワクチンを接種した。

現時点で、2回摂取している。どちらもファイザー社製だ。しかし、本書の主役はメガファーマのファイザーではない。ドイツのビオンテック社であり、同社創業者のウール・シャヒン博士と妻のエズレム・テュレジ博士(共同設立者)、そしてプロジェクト・ライトスピード(光速)に携わった多くの科学者たちである。

すべての薬開発はドラマ性に富んでいる。新薬誕生(感想文08-66)医薬品とノーベル賞(感想文17-28)フィラデルフィア染色体(感想文18-46)に登場する白血病治療薬グリベックは、どれも面白い。薬開発に共通しているのは、極めて低い成功率、連続する艱難辛苦、開発者の狂気とそれに巻き込まれていく人たちの熱狂だ。

私が学生時代の20年くらい前は分子標的薬が主流で、10年くらい前は抗体医薬が大流行となり、そのあとに核酸医薬が騒がれ、遺伝子治療再生医療と免疫療法と個別化医療がない交ぜとなって、人間の健康寿命&寿命がもっと延びるかのように喧伝されて現代に至る。

そんな中、まさか猛威を振るったのが感染症。だが、人類は一方的に蹂躙されたわけでもなく、確かに多くの方は亡くなったが、約100年前のスペイン風邪ほどではない。なぜなら人類にはmRNAワクチンがあったからだ!とまとめるとドラマティックだが、あいにくまだ予断は許さない。

それでもなお、今まで注目されていなかった、どころかメディアによるネガキャンを受けやすいワクチン(感想文18-17:10万個の子宮参照)、そしてこれまでの医薬品でひのき舞台に上がったことのないmRNAが大きな恩恵となるなんて考えもしなかった。

もし―これはとてもおおきな「もし」だった―もし、mRNAを人体の適切な免疫細胞に送り届け、十分な期間にわたって安定した活動状態にキープする方法が見つかったなら、それがもたらす可能性は無限大だ。(p.42)

生物学の基礎知識セントラルドグマの解説は省略するが、不安定で壊れやすく取り扱いの難しいmRNAがワクチンになるとは驚きだ。若い頃に医学系を学んだ身で、今でも分野は違えど最先端科学に関わる仕事に従事している私でも、技術革新のスピードが速すぎてもはやついていけない。

2月にプロジェクト・ライトスピードの迷宮に組み込まれた20種のワクチン候補のなかから、4種が治験に選ばれた。5月末には、その1つが有望なことが明らかになった。そして、ウールが無症状感染の蔓延を伝える《ランセット》誌の記事を読んでからわずか6カ月後のいま、「ほぼ完璧な」ワクチン候補が現れた。(p.331)

技術革新に加えて、mRNAワクチンの偉業(異常さと言い換えても良い)は、その開発スピードだ。2020年2月にコロナが騒ぎになりかけたときから、わずか半年でワクチン候補が絞り込まれている。同時並行で治験が行われ、12月には各国の規制当局から緊急承認された。

詳細は本書を読んでいただきたいが、単なる開発物語ではない。当時ビオンテック社は無名で技術を持ってはいたが、売り上げの出るような医薬品を世に送り出した成功体験はなかった。また感染症は専門ではなく、主要なターゲットはがんだった。

新型コロナの大流行を予見し、mRNAワクチン開発にピヴォットし、プロジェクトを立ち上げ、資金を調達し、必要な技術や会社を買い、人材を雇い入れ、ファイザーと提携し、規制当局と交渉を繰り広げる。ハイスピードで開発し、綱渡りの意思決定を連続で行い、時にトランプに邪魔される。

この時期にビオンテックで働いた人は楽しかっただろうか、苦しかっただろうか、それとも振り返る余裕など全くなかっただろうか。

本書はこれまでにない前代未聞の医薬品開発を描いている。そして私を含めて多くの人はその光速開発の経緯を知ることなく、mRNAワクチンを体内に注入されている。私は注入された後に開発の経緯を知り、その新規性とスピード感に仰天している。

数カ月のうちに複数の国で数万人を対象とした巨大規模の第三相試験を実施し、自社のワクチン候補に際立った効力と安全性があることを規制当局にしめさなければならない。それだけの規模とスピードをもって世界でワクチン試験を行える製造業者は5社しかなかった。メルク、ジョンソン・エンド・ジョンソン、サノフィ、グラクソ・スミスクライン(GSK)、ファイザーである。(p.215)

さて世界的なワクチン開発競争に日本はほとんど関わっていない。国際競争で戦える5社しかなく、日本の製薬企業はレースに参戦すらできない。さらにmRNAワクチンと関係する技術シーズや特許でも日本人も日本の大学や研究機関や製薬企業は登場しない。唯一、夫妻が起業したもう1社のガニメド社を日本のアステラス製薬が買収したことだけだ。日本の競争力低下を改めて思い知らされる。

なぜメガファーマではないビオンテック社がmRNAワクチンを世界に先駆けて開発することができたのだろうか。

ウールやエズレムの世界観によれば、この歴史的取り組みに携わった人々がこれほど多様なのも、何ら驚くべきことではない。二人は科学においても人生においても、いいアイデアならその出自を問わず採用することを信条としてきた。<中略>だが、そこから社会が得られる教訓があるとすれば、それは、スタッフが国境の壁を越えているという点よりむしろ、会社全体が学術的・科学的・経済的教会を超越しているという点である。(p.390-391)

ウール・シャヒン博士とエズレム・テュレジ博士はともにトルコ系ドイツ人である。そして医師として病棟で働き、そして基礎研究者としてラボへ移り、さらに起業して産業界へ進出し、技術を磨き、大学では専門教育を行った。臨床、研究、教育、ビジネス、その活動は幅広いと一言でまとめそうになるが、越境するのは容易いことではない。専門分野を超え、様々な人と出会うことは、知的な刺激と同時に、数多くの衝突、苦悩、消耗、徒労がつきまとうだろう。そうやってようやく多種多様な専門知識が浸み込んでいくのだ。

本書では「二人の人柄」に言及している。出自含めて幼少時代から苦労があったのは想像に難くない。生まれ持った知的な才能もあっただろうが、それよりも「人柄」が二人の運と縁に繋がり、多くの素晴らしい人をひきつけ、協力を得て、そうしてワクチン開発の成功へと至った。

私の体内に入ったmRNAワクチンは確かに現代科学の技術の粋であるが、その開発の中心人物たちは正しき人柄を有していたことはきちんと書き留めておきたい。

3回目を打つかどうかはもうちょっと様子見ではあるけれどね。