
働くということ「能力主義」を超えて(25-34)と同じ勅使川原 真衣さんによる著作。会社の人(勅使川原さんのファンらしい)からお借りした。本のシェアサークルはちょっとずつ機能し始めたのかな。
さて、学歴にモヤっとしている人は少なくないだろう。だが、私は学歴についてほとんど関心がない。でもそれは、私自身に世間的にはそれなりに立派な学歴があるからであって、劣等意識を持たなくて済んでいる優越性の表れかもしれない。ちなみに私よりも高学歴な部下がいるけれど、そのことも全く気にならない。よって学歴について悩んでいて本書を手に取ったというわけではない。その点は予め書いておこう。
『モヤモヤをきれいさっぱり晴らし、排他的に「分けて」、序列づけ、ものごとを「分かった」気になる世界観ではなく、すべての人の生存権が尊重され、生き抜くのではなく生き合う社会のために、教育と労働の双方でできることは何か?(12)
前書が労働に主眼を置いているのに対して、本書は教育である。そして、教育と労働の間にあるのが「就活」であり、その異様さ、不気味さ、茶番ぶりから、私は就活を「日本の奇祭」と認知している(24-04:六人の嘘つきな大学生参照)。
本書も勅使川原節とでも呼べる小気味よい勢いのある文章で綴られていて、すらすら読める。そして首肯する点が多々ある。気になった箇所を挙げておこう。
「職務内容に合意して雇用契約をする欧米的な雇用スタイルが『ジョブ型雇用』」なのに対して、「職務内容を決めずに雇用契約をする日本的な雇用スタイルが『メンバーシップ型雇用』」です。(113-114)
メンバーシップ型の雇用制度について端的な定義であり、なるほどなと感じる。仕事ではなく「仲間」や「帰属意識」を日本企業が従業員に求めていると言える。よってメンバーシップ型雇用による従業員はキャリアを形成しにくく、自らの技を磨くよりも、社内政治に詳しくなったり、組織に特化したルールを習熟することが、支配戦略となる。
学歴と職業との連関に問題が生じていそうだ、と仮に疑うのならば、それは教育の側のレリバンス(関連性・妥当性)を疑うだけでは不十分だということです。教育から職業へのトランジション(移行)という一連のダイナミクスを捉えるのなら、職業の問題(たとえば、メンバーシップ型などの雇用システムの前提の問題)を挟み込むように思考することが不可避なのです。(164)
興味深い指摘で、こういう思考をスムーズにできるようになりたい。「日本の奇祭たる就活」は、教育から労働へのトランジションであり、よって学歴社会にも働き方にも問題があるからこそ、現状の異様さが際立ち、数多くの「就活小説」が生み出されていると言える。
労働の基本は、キラキラしていません。需要に対して供給できる・してもいい価値は何か?を労働者の考えと、雇用側の考え(「すべき」)とをすりあわせることから成り立っています。(187)
今日もキラキラしていない泥臭い仕事をする。やりたくないけれど、誰かがやらないといけない、名前のついてない数多くの仕事たち。名もなき家事が無数にあるように、名もなき業務も無数に存在する。
そのうえで本当のしんどさは、不確実なことそのものより、配置に「アタリ」「ハズレ」があっても、よりよく働けるチャンスを個人側からはなかなか創出できない点ではないか?とすら思えてきます。言い換えれば、個人の不運を、組織(社会)全体の問題だと思ってもらえず、個人の問題に還流しがちな点こそが辛さなのでは。(214-215)
配属ガチャとか上司ガチャと言われるが、大きな会社でも、配属や時期によって激務や過大なストレス、あるいは逆に放置や焦燥が待ち受けている。でも往々にして組織として対応してくれない。いきなり修羅場や機能不全の現場に放り込まれ、そこで何とかするのが社会人だと通過儀礼的に試される。
人と人や、人とタスクの組み合わせを試行錯誤することが環境調整の真骨頂です。この取り組みの一連の流れを、個人の能力向上を図る人材開発と比して「組織開発」と呼んでいます。(177)
勅使河原さんの主張は、能力開発ではなく組織開発に力点を置いており、私自身もっと組織開発について学びたい気持ちになっている。
学歴があり、能力を磨き、それが認められてきた勅使河原さんだからこそ、能力や学歴に疑問を呈することができる。持たざる者が主張したところで、やっかみや被害妄想でしかないと反論されてしまうのがオチだ。
長男が大学受験を迎えようとしている。親としては、学歴はあるに越したことはないと言いたいところだが、学歴のために勉強するのは異常だ。人生のささやかなトロフィーくらいにはなるかもしれないが、学歴はゴールではない。
充実した人生を送るために、勉強をしてほしいし、人生を通じて勉強を習慣化してほしい。人生は勉強の連続なのだから。