40代ロスジェネの明るいブログ

2020年1月11日からリスタート

感想文24-01:黙示録

会社の部下からお借りした小説。文庫版で上下巻セット。

著者は池上永一さん。テンペストが有名、だけれど池上さんの小説を初めて読んだ。部隊は琉球王国、時代は18世紀初頭、舞踏家である了泉が主人公。

舞踏家とかダンサーが主役の小説を初めて読んだ。漫画だと「昴」くらいだろうか。私自身はさっぱり舞踏にもダンスにも縁がない。半世紀近く生きてきて踊ったことがあるのは盆踊りとフォークダンスくらいだろうか。ダンスが好きな人の気持ちも皆目分からない。

まずは豊崎由美さんの解説を引用しよう。

『黙示録』はかなりの部分を史実に拠っている。実学と風水学によく学び、同時代を生きたアダム・スミスの『国富論』に比する『図治要伝』を記し、琉球王国構造改革に挑んだ国師の蔡温、琉球の新しい芸術「組踊」を作り上げた玉城里之子(後年、朝薫と改名)、史上最年少で任官し、史上最年少で死去した第7代将軍・徳川家継と、その側近であった新井白石並びに間部詮房康熙帝に仕え、琉球王国冊封副史として赴き、その8か月間の滞在の印象を『中山傳信録』としてまとめた徐葆光といった実在の人物を配し、史実を有効に活用することで、虚構の世界に奥行きを与えることに成功しているのだ。(506)

史実入り混じっての小説であるが、私の教養のなさであいにく徳川家継新井白石以外はピンとこない。読み手に基本知識がないと深く楽しめないとも言える。とはいえ、ダンスに関心がなく、歴史にも疎い私でもこの小説は十分に満足できる面白さだった。

了泉という舞踏家のキャラクターが面白い。野心家で天才で純粋で貪欲。ライバルである雲胡とダンス勝負を繰り返し、そして成長し、変貌していく。

王宮で不世出の才能と目されていた石羅吾と玉城朝薫は、信念を同じくして違う道を採った。雲胡を弟子に取った玉城朝薫は徹底的に技術を仕込み、心が横溢しても耐えられる土台を作った。そして石羅吾は体がみすぼらしくても発露する魂を持つ了泉を選んだ。普通なら結果は明らかだが現実は違った。雲胡は心を蒸留する方法を会得し、再現性の高い芸術を生み出した。一方、了泉は肉体を弄び、心に冷や水をかけ続けた。その結果が今日だ。(296)

しかし、人生は思い通りにはならない。

心のままに踊れた少年時代、苦悶と自由への渇望が体を突き動かしていた。世間から認められると体は鈍った。芸は毒を吸って生きているとつくづく思う。踊りたければ決して満たされてはならない。その呪いのかかった者だけが生き残る世界だ。(336)

成功がその人の成長を鈍らせ、停滞させ、そして堕落させる。そんな了泉が復活していく姿もまた楽しめる。

人界にある踊りなら勝敗はつくが、神に近づく踊りは完全に埒外だ。しかし二人は一生懸けてもわからなかったかもしれない踊りの本質を観た。なぜ人は踊るのか、今日わかった気がする。人には言葉と同じように踊る本能が備わっている。民の心を掬い神の許に届けたいと願う生き物なのだ。(478)

人には踊る本能があり、踊ることで神へと近づく。

踊らなくても人は生きていける。でも踊らないと生きてはいけない人も確かにいる。そして、今も世界中で大勢の人が踊り、その姿をシェアしている。喜びや苦しみを表現したり、一緒に踊ったり、言葉で表せないことを表現しようとする。

神に近づくダンスはどこで見れるのだろうか。そういえば、きちんとバレエを見てみたいと思っていたのだった。人生1度は見てみたい。できればボレロを。