40代ロスジェネの明るいブログ

2020年1月11日からリスタート

感想文20-16:小さな地球の大きな世界 プラネタリー・バウンダリーと持続可能な開発

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これまで環境問題についての本を読んでこなかった。直視したくなかったからだろうか。科学で取り扱うには大きすぎると思ったからだろうか。

エネルギーや感染症や食糧問題といった個別の課題については、さほど多くはないにせよ本を読んできた。それらは本質がはっきりしている。突き詰めればそれらが何であり、どうすれば良いのか、少なくとも方向性は明快に示せると思う。そんなことは誰にでもができる。具体的にどうすれば良いかはまた別の話になるけれど。

一方で、気候変動や生態系といった問題は、その本質がさっぱり分からない。言説がたくさんあるが、指し測るパラメーターがはっきりしないし、因果関係も証明しにくい上に、政治が絡むし、時間スケールが大き過ぎて、人生と間尺に合わない。

地球そのものが大きな一つの生命体とみなすガイア理論という有名な理論があるが、提唱するのは構わないけれど、これがサイエンスかというと眉唾だなと思ってしまう。

10年以上前に読んだほんとうの環境問題のような、『地球温暖化はたいした問題ではない』とか『二酸化炭素排出削減は意味がない』といった言説は、真偽はさておき、現代では通用しなくなっている。

私は、感想文を書くことで思考を整理してきたので、10年くらい環境問題についてアップデートしていなかったことになる。本書は、多くの示唆を与えてくれたと同時に、環境問題への認識を改めさせてくれた。

つまり、本書のキモは、

・要素還元論的に地球環境問題は語れない

閾値があって、そこを過ぎると地球環境は回復しない(かもしれない)

ということになる。

世界には発展のための新しいパラダイム、つまり、「安定的で回復力のあるプラネタリー・バウンダリーの範囲内で、貧困の緩和と経済成長を追求するという発展のパラダイム」が必要であるということを、最新の科学に基づいて提示したのである。(p.2

総体として世界経済は発展しているのかもしれないが、環境からの搾取によって富めるものは富み、貧しい者は悪化した環境で生きる他ない。人類が直面している課題であり、ナショナリズムが強まり、争いが起こり、協力から分断へと突き進んでいる。

気候変動について取り組むべき最重要の分野として、排出量の削減から、生物圏の管理に焦点が移りつつあることが明らかになってきている。(中略)気候システムへの人類の影響は、地球システムそれ自体が引き起こす温暖化フィードバックと比較すると、実はたいしたものではないからだ。(p.81

火力発電や自動車などで二酸化炭素をたくさん排出しても、そこまで影響は大きくない。ヤバいのは、閾値を超えてしまい、地球が今とは異なる安定フェーズに入ってしまったら、地球自体が温暖化を促進するようになってしまう(かもしれない)のだ。そこに至ってしまったら、人類は滅亡してしまう(かもしれない)。

これがプラネタリー・バウンダリーが指し示す新規な説であり、もう戻れない分岐点が合って、だからそこに至る前になんとかしましょうということになる。

私たちは、環境を「保護する」という考え方に基づいて全体の運動を進めてきた。そしてそれは大きな成功を収め、多くの人々の考え方を「汚染」した。自然が一方にあり、社会が他方にあるという世界観を広めてしまったのだ。(中略)経済学者は、地球への影響を「外部性」として扱うという時代遅れの概念に執着している。(中略)すべての富の源泉である地球の上に立ちながら、どうしてそれを外部性だと主張できるのだろうか。(p.136

経済学で学ぶ外部性。この場合は負の外部性だ。例えば炭素税はピグー税であり負の外部性を内部化する仕組みというのが、経済学における一般的な説明だ。

しかしながら、経済学を学んだ際に、『ピグー税とは汚染する権利に価格をつけることである』という説明があり、目からウロコであると同時に、結局、環境汚染は避けられないのか、と疑問に思った。集めたピグー税は汚染の回復に用いなくても良くって、トータルで収支があっていれば良いというこれまた経済学的なドライな理屈を聞くと、さらにもやもやしたものが心に沈殿した。

環境には回復力があるけれど、そこが及ばない閾値があるとするならば、外部性のコンセプトは破綻してしまう。閾値を超える環境負荷を与えるような活動をする権利に価格をつけようもないからだ。まあ、そもそも環境負荷を与えるような活動の権利に価格をつけること自体どうなのよという主張もあるだろう。

各国が利益追求に走り、地球環境を悪化させ続ける方向に向いている今日ほど、利己的かつ所与のルールを前提にすれば「合理的な」行動によって共有資源が浪費される「共有地の悲劇」が顕著になったことはない。(p.163

本書が書かれたのが2015年(邦訳版は2018年)で、トランプ政権もブレグジットもなかった頃だ。今や、事態は悪化していると言って差し支えないだろう。

各国は合理的に行動することによって、共有地の悲劇が起きてしまっている。明らかな市場の失敗であり、各国の利己的かつ合理的な行動を規制しなければならない。とはいえ、誰がどうやって規制するのか。たとえ条約のようなルールができたとしても、どうやってそれを守らせるのだろうか。

プラネタリー・バウンダリーの枠組みにおける最も重要な洞察の一つは、環境への対応をコストや社会の負担として考えることをやめ、それらを本来の姿でみるようにすることだ。つまり、富と繁栄を創造するために自然に長期的な視点で投資するベンチャー・キャピタルだと認識することである。(p.193-194

これが本書の答えの一つである。現在ではESG投資があり、活発化している。ピグー補助金に近いかもしれない。もうちょっとドラスティックで、持続可能なビジネスには投資するということになるし、持続可能ではないビジネスは潰してしまえということになる。

これをチャンスと捉えるかピンチと捉えるか。まだ時間は残されていると信じたいのだけれど。

感想文20-15:生物の中の悪魔

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著者は理論物理学者であるポール・デイヴィス。20年くらい前に『タイムマシンのつくりかた』を読んだことがある。タイムマシンをつくる壮大な思考実験の本だった。

物理学者が生命について考えたというのが本書になる。

生命は何をしているか、それを説いた本はたくさんある。しかし本書は、生命とは何かに関する本である。(p.001

題名にある悪魔とは、そう、マクスウェルの悪魔だ。ウィキペディアには『分子の動きを観察できる架空の悪魔を想定することによって、熱力学第二法則で禁じられたエントロピーの減少が可能』とある。

私の手元にペットボトルがあるが、これは生命ではない。中身のお茶も生命ではない。私自身は生命である。水分と入れ物で構成されていると考えれば、私とペットボトルは似たようなものであるが、生命と非生命で厳格に別物だ。

ペットボトルのペットとはポリエチレンテレフタレートのことで、水素と炭素と酸素でできている。生命にはほかの元素が使われているが、材料を比べてもそんなに隔たりはない。しかし、ゲノムを書き換えたり、合成生物学の衝撃にあるように「ミニマル・セル」を作れたりするようにはなったが、今の人類の技術では、材料だけから、生命を作ることはできていない。

新たな物理の扱う事柄が、「生命力」という単なるもう一つの力ではなく、物質と情報、全体と部分、単純さと複雑さを結びつける、もっとずっととらえがたい何かであることだ。その「何か」、それが本書の中心テーマである。(p.009

もっとずっととらえがたい何かとは何だろうか。

生命と非生命を分け隔てるのは、「情報」である。(p.032

生命の情報で真っ先に思い浮かぶのは、遺伝情報だろう。ATGCのコードによってアミノ酸がコードされ、タンパク質が作られるというセントラル・ドグマを初めて学んだ時に、衝撃を受けた。DNAが化学物質ということにも衝撃を受けた。

生命は、化学と情報に関する、たえず移りゆく二つのパターンの融合体といえる。これらのパターンは互いに独立してはおらず、組み合わさって協調と調和のシステムを作っており、そのシステムは見事に振り付けされたダンスによって情報のビットをあれこれと操作している。(p.087

生命は化学と情報の融合体と言われて違和感はないが、じゃあウイルスとかどうなのよとなるが、その議論はウイルスは生きているを参考にどうぞ。

本書のキモは、もっと込み入ったというか、物理的学的な観点であり、

本書で取り上げるのは、次のような一つの疑問だけである。不気味な量子効果は生物の中でも起こっているのだろうか。(p.192

となる。量子効果で思いつくのはトンネル効果だ。不確定性原理の『粒子の位置と運動量は確定することができない』ということで、壁の向こう側にも確率的に粒子が存在するということで、って書いてる本人もイメージしにくい。

とはいえ、生命でも非生命でもどちらも極めて微小な世界では量子効果は起きているはずだ。ではその効果が一体全体、生命にどういう影響を与えているのかということだ。

本書を読み進めていくうちに、がん、エピジェネティックな遺伝、嗅覚、神経細胞へと話が広がり、さらには意識や心脳問題やクオリアにまで進んでいく。

研究分野としては、量子生物学という名前がついているけれど、量子力学生命科学が融合していく領域になる。実際に分子モーターの研究は、まさにこの分野になるし、さらに将来は応用量子生物学へと発展していくことだろう。

それでも意識の存在は量子力学で証明されるのだろうか。脳のなかには幽霊がいて、生物の中には悪魔がいるのだろうか。

感想文18-20:合成生物学の衝撃

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※2018年6月8日にYahoo!ブログに掲載したものを再掲。

 

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「○○の衝撃」というタイトルの本をこれまでにいくつか読んだ。

2016/9/19生殖医療の衝撃

2015/10/6イスラーム国の衝撃

2014/6/10「家族」難民 生涯未婚率25%社会の衝撃

2011/4/29無縁社会―“無縁死三万二千人の衝撃

2009/10/5クラウドの衝撃

たった5冊ではあるが、ざっくりと「科学技術の大きな進展」、「国際情勢の大きな変化」、そして「社会そのものが変容した結果に生じた驚きの数値」の3つに分けることができるだろう。本書は、「科学技術の大きな進展」による衝撃に位置づけられるだろう。

そもそも合成生物学(synthetic biology)とは何だろうか。ウィキペディアでは『生物学の幅広い研究領域を統合して生命をより全体論的に理解しようとする学問』とあるが、これだけではよくわからない。

著名な物理学者であるリチャード・ファインマン1918-1988)の言葉

 「自分で作れないものを、私は理解していない。(What I cannot create, I do not understand)」(p.11

を対偶にしてみると、「私は理解している、ならば、自分で作れる」のだ。生命科学が進展し、生命について理解が進んでいるが、しかし、新しい生物を人工的に作り出すことは未だできていない。つまり、人類は生命の本質を理解していないのだ。

米国での合成生物学の歴史には、二つの大きな流れがある。一つは孤高の科学者クレイグ・ベンターらの研究チームによる人工生物「ミニマル・セル」の20年間に及ぶプロジェクト。もう一つは、多くのコンピュータ学者や工学者が集い、「生物学を工学化する」というコンセプトの下で、新たな分野を創出しようとした取り組みだ。(p.10-11

本書は、合成生物学の最前線であるアメリカの研究現場を取材し、まとめている。特に印象的だったのがクレイグ・ベンター1946-)である。ヒトゲノム計画をショットガン法で出し抜いたことで有名となった科学者だ。孤高というのは極めて穏便な表現で、狂気とか横暴とか尊大といった言葉でも足りないような人であろうと思う。

20世紀後半からコンピュータサイエンス情報科学、そして生命科学の融合が一気に進んだ。私が学生の頃は、ひたすら手作業でゲノムシーケンスを読んでいたが、あっという間に機械に置き換わり、自動化が進み、時間が短縮された。

今や微生物が、薬やプラスチックやジェット燃料やクモの糸を作れるようになり、一部はビジネスとして成立している。生物工場という言葉のとおり、生物が工学的に利用されるようになり、私が学生だった頃からは大きく世の中は変わりつつある。

ミニマル・セルの誕生は二重の意味で科学コミュニティに衝撃を与えた。一つ目は、「生命とは何か」という生物学の究極の問いに答えるうえで大きな足がかりとなる「最小の細胞」が、合成生物学による新規の手法によって生み出されたことだ。(中略)もう一つの衝撃は、ミニマル・セルのゲノムを構成する遺伝子の意外な内訳だった。32%を占める残りの149個は、全くその機能が知られていない遺伝子だったのだ。(p.208-210

20163月にクレイグ・ベンターらがミニマル・セルを作製したと発表した。興味深いのが、ミニマル・セルが最小限保有する473の遺伝子のうち、149の遺伝子はその機能が不明で、生命が生命として機能を果たす上で人類はまだまだ知らないことがたくさんあるということを明らかにした。

本書は、カズオ・イシグロの「わたしを離さないで」で始まり、終わることで、一般的な読者を意識しつつ、うまく整理していると思う。とはいえ、「わたしを離さないで」を私も読んだが、基礎的なバイオ研究に思いを馳せるようなことはなかった。

本書を読んで、私は何か「衝撃」を受けただろうか。軍事転用やヒト受精卵への適用、さらには全く新しい生物の合成という可能性について言及しているが、果たしてこれが衝撃だろうか。科学の最前線は確かにアメリカかもしれないが、非倫理的、あるいは倫理なんて気にしないのは、アメリカではなく、ロシア(ソ連)でもなく、中国なのではないだろうか。中国から衝撃的なニュースが届く日はそう遠くないかもしれない。

本書を読んでも、巨大ウイルスと第4のドメインのような知的興奮を味わうことはできなかった。だからダメってわけではないけれど、著者は社会への影響を過度に煽っているように感じるし、読者の理解度をかなり低く見積もっているなとも感じる。商品としてのさじ加減は難しいだろうけれど。

本書は、ゲノム研究の歴史、ゲノム編集、遺伝子ドライブ、デュアル・ユース、DARPAモデルなど、幅広く最新の科学の話題が沢山盛り込まれている。とはいえ、「衝撃」とタイトルにつけるのであれば、もう少し合成生物学に絞って真正面から描いて、その衝撃を伝えて欲しかったなぁ。

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(感想文の感想など)

新型コロナウイルスが人工的に合成されたというウワサもあるが…。感染症パニックによる犯人探しの一環だろうな。

今後、合成生物学の分野はさらに発展していくだろうが、ものづくりなど実用化されるまでまだしばらく時間は要するだろう。

感想文18-13:分子レベルで見た触媒の働き

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※2018年5月9日にYahoo!ブログに掲載したものを再掲。

 

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この4月でついに異動(お役御免)となり、新しい部署で働き出した。ケミストリー関連について勉強する必要があり、まずは全く理解の及んでいない触媒について学んでみようということで、手にとったのが本書だ。

触媒とは、『化学反応の際に、それ自身は変化せず、他の物質の反応速度に影響する働きをする物質。』とある。例えば、『水素と酸素から水が生成する反応 H2 + 1/2 O2 → H2O の場合、水素と酸素の混合ガスをガラス容器に入れ200℃に加熱しても何の反応も起こらない。しかし、混合ガスに少量の銅(Cu)を入れて加熱すると、水素と酸素は速やかに反応して水を生成する。反応後、加えた銅には何の変化も起こっていない。』(触媒学会 触媒とは参照)ということになる。

色々と解説があるものの、不思議でならない。ほんの少し触媒を入れるだけで、普通には起きにくい反応が、速やかに進む。

最も有名な触媒反応といえば、ハーバー・ボッシュ法だ。私の理解でざくっと書くが、植物の生育に窒素が必要である。そして空気中には大量の窒素(N2)が含まれている。しかし、気体の窒素を植物はそのまま吸収することはできない。糞尿を肥料として利用したように窒素(N2)をアンモニアNH3)に変えることができれば、肥料になる。だが、窒素(N2)の三重結合を外すのは非常に難しく、多くの研究者が挑戦していた。それを達成したのがハーバー・ボッシュ法だ。

オストヴァルト、ルシャトリエ、ネルンストと、当時では勃興期にあった物理化学という新しい学問分野を開拓し確立した錚々たる研究者が、この問題に挑戦していたのである。このことからも、アンモニア合成がいかに重要で必要性にかられていたかが理解できる。(p.20

教科書に出てくる偉大な研究者もアンモニア合成に挑戦していたとは知らなかった。毒ガス開発の父ハーバーを読んだように、発明者であるハーバーのことばかり着目してきたからだ。

余談だが、大きな発明や発見には人類にとって良い面と悪い面が常につきまとう。アンモニア合成もその例外ではない。窒素化合物は肥料だけでなく爆薬製造にも欠かせない原料なのである。ドイツは第一次世界大戦中に会場を封鎖され、海外からの資源が入ってこなくなったが、このアンモニア合成のおかげで爆薬の原材料は輸入に頼ることなく製造しつづけることができた。これが大戦を長引かせた一因だとも考えられている。(p.27

アンモニア合成によって、農作物の生産性が飛躍的に向上し、多くの人類を養うことができるようになった。と同時に、多くの爆薬が作られ、多くの人類の命を奪い取った。命を救い、命を奪う。この全く相反する事象に偉大な発見・発明は貢献する、っていうかしてしまう。因果なものだ。

私は高校化学を履修し、大学でも生化学を履修したにも関わらず、残念ながら、本書の内容についてはおそらく20%も理解できなかった。しかし、一つ大きなことを知った。それが触媒化学と表面科学の関係性である。

物質の諸性質を考える際、物質が気体、固体、液体などの均一相にある状態を扱うのが普通であった頃に、このラングミュアの研究は、物質の表面というものに注目し、また、表面がこれらのどの相にもない重要な役割を果たすことを示した研究である。(p.47

これまで不思議だったのだ。なぜ表面科学という学問が存在するのか、またなぜそれが重要な学問分野とされているのか。本書でようやく分かったのだ。触媒化学を突き詰めていくと、表面に注目するという大きな視点の転換が重要となり、そして表面でいったい何が起きているか、表面に注目するからこそ捉えられる吸着や離脱という現象のことを。

触媒化学の面白さが分かってきたような気がする。しかし、これまた途方もなく難易度の高い領域であるということも分かってきた。原子、分子、電子、光、これらのことへの根本的な理解を進めないことには、触媒化学の本質はつかめないだろう。もうちょっと勉強してみたい。

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(感想文の感想など)

触媒のことは今でもちゃんと理解できていない。

感想文18-08:「大学改革」という病

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※2018年4月5日にYahoo!ブログに掲載したものを再掲。

 

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私が通っていた頃(90年代末から2000年代前半)から大学は大きく変貌している。2003年に国立大学法人法が制定されたが、2000年頃からすでに法人化への懸念が大学内で示されていたのは覚えている。当時、大学生だった私からすると、法人化によってどういう影響が出るのかについてはほとんど関心がなかったのだが…。

科学者と戦争で示したように、大学が大きく変わっているのは、国からの運営費が減らされていることが挙げられる。なぜ国からのお金が減っているかというと、日本にそんな余力がない(実際にそこまで余力がないのかは疑問ではあるが)ことが原因である。

さらに、子どもが減っている。大学全入時代と言われて久しく、お金さえ出せば誰でも大学に入学できる。勉強能力(≒試験能力)によって選別されていた大学入学が、支払能力にまで間口を広げ、あの手この手で学生を確保しようとしている。

バブルが崩壊し、ずいぶん時間が経ったが、日本経済はひどい状態だ(一時期よりはマシかも知れない)。新しい産業を生み出すためにスタートアップの創出が求められ、その技術的な源泉として大学などのアカデミアに期待が集まっている。また、大学側は、産業連携を深化させ、自己収入を増やすことを強いられる。

日本では、産学連携の推進の意図の一つとして、国立大学の自己収入を増やして国の大学関連予算を削減することがあるように思われる。アメリカの産学連携政策の目的は産業競争力の強化であって、政府の大学関連予算削減といった底意はない。(p.131)

矛盾した二つの目的を追い、現場は疲弊している。アカデミック・キャピタリズムを超えての感想文で示したように、金を出し渋るクセに口を挟む国との関係が奇妙に映る。経営者の視点から大学を見ると、国のしがらみから可能な限り開放されたいだろう。自己収入が増大すれば、国からの口出しはその割合に応じて減って欲しいと思うだろう。

他方で教員はどう考えるだろうか。任期付きだと、自分が帰属する大学がどうなろうと関係ないと感じるかもしれないし、テニュア・トラックに乗れそうであるなら、自身がいかに大学の経営に貢献できるかをアピールすることだろう。すでに地位を確保した教員なら、できることなら平穏に教員人生を終えることができるようなるべく大学改革という煩わしい状況に関わることなく過ごしたいと考えるのではないだろうか。

信頼関係にもとづく協力体制だけが、物事を真に改善するのである。トップダウン体制での施策の押しつけは、短期的には行動を変えさせることはできても、現場の反発を招き、長期的には現場の無気力かという結果につながる。(p.281)

陰鬱な気持ちになってくる。私の仕事とも関係しているが、トップダウンでの施策の押しつけは、本当に現場をダメにしてしまう。

他方で、大学改革を「病」として言及するような本書の存在があっても、私は大学改革は避けられない現実でもあると考える。社会保障制度のような国民全体を巻き込むような議論ではないというのも流れを変えられない原因であろうが、もう一つの原因は大学教員、要するに'''大学教授の権威が失われつつある'''ということだろう。

「知」を生み出す大学等のアカデミアだが、その活動に敬意が払われて然るべきであるのに、国自体が貧しくなってくると、知から金を生み出す方策や能力が問われるようになる。金を生み出さない知(文学とか?)への敬意は相対的に失われ、結果、金にならない学問分野の教員の権威も喪失する。

基礎研究も同様で、ノーベル賞の時期だけもてはやされるが、どう役に立つのかという説明ができないと、科学の世界に閉じた取り組みであり、自己満足だという誹りを受ける。

結局は、日本が経済的にダメになっていることが根本原因であり、その打開策として大学改革が進められているのだが、その大学改革自体が有効な策かというと大いに疑問である。

だんだん感想文を書いてて辛くなってきたが、貧乏なのに研究している余裕なんてないという状況をなんとかしない限り、どうしようもない。

あるいは経済成長を指標としないとか、資本主義以外の価値観に転換するとか、そこまでドラスティックなことをしないといけないのだろうか。

日本の大学に未来はないということは、日本に未来がないことを意味しているのだろうか。病に陥っているのは、大学改革ではなく、日本という国家、あるいは国家制度そのものなのだろうか。

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(感想文の感想など)

大学改革は進められているが、大学入試改革の英語民間試験は頓挫してしまった。

大学入試改革を進めようとした結果、何が起きたか。私立中学校の人気が上がった。公立の学校では新しい大学入試の仕組みに対応できないと親たちは不安に思っているからだ。この現象だけで、すでに公教育は信用されていないことを示している。

残念ながら私も公教育を信用していない。すでに我が子たちが散々な目に会っているからだ。早めに気づけたのが唯一の救いかな。

感想文16-32:生殖医療の衝撃

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※2016年9月19日にYahoo!ブログに掲載したものを再掲。

 

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最近は、「◯◯の衝撃」というタイトルの本が増えたように思う。「家族」難民 生涯未婚率25%社会の衝撃]とかイスラーム国の衝撃とか。ちょっと前までは、「◯◯はなぜか」というのが流行っていたような気がする。売るためにやや扇情的なタイトルをつけているのだろうか。でも本書は、衝撃がウリなのではなく、生殖医療の現状や最先端を丁寧に描いている良書だ。

著者である石原先生の著書として2010年に生殖医療と家族のかたちを感想文としてまとめていた。自分のブログを調べてみて発見した。すっかり読んだことを忘れていた。

石原先生とは個人的に面識がある。石原先生は覚えていないだろうけれど。前書のことを忘れていたけれど、石原先生のことはしっかり覚えているので、本書を本屋で見つけて、懐かしい気持ちになり購入した。久しぶりに生殖医療について考えるきっかけとなった。

予め白状しておくと、私と妻は生殖医療のお世話になることなく2人の子を持つことができた。一方で生殖医療を受けている人はいるし、こどもを授かれないことに苦悩している人もいる。私自身は、医療が発展する中での、ヒトの生と死をずい分前から考えていて、そういう観点から生殖医療にも関心がある。今の仕事とは直接関係はないのだけれど。

本書を通じて知った最新の生殖医療の状況を踏まえて、気になった箇所を挙げておこう。

最近では日本で生まれるこどもの約24人に1人は、体外受精など生殖医療により妊娠したこどもたちなのだ。わが国で生殖医療により生まれたこどもたちの数の合計は、2015年までにすでに40万人を突破した。

3になるわが子と同じクラスでも、生殖医療により生まれた同級生もいることだろう。私自身は、世界初の「試験管ベビー」と呼ばれたルイーズ・ブラウンと同じ年なので、周りには全くいなかった。それだけ新しい技術であるが、すっかり社会に受け入れられ、浸透している。今時、試験管ベビーと呼ぶことは不穏当だし、もはや特別な存在ではないのだ。

「顕微授精」という新技術の発明とその普及拡大は、ことによると「体外受精」を遥かに上回る影響を人類に与え得たのかもしれない。

体外受精に加わった大きな技術革新の一つに、顕微授精がある。これは、男性不妊症への注目とその克服という意味で、非常に大きなインパクトのある技術となった。

わが国で近年、生殖医療により生まれるこどもたちの約4分の3は、凍結保存されていた胚を融解して子宮内に移植し、生まれている。

もう一つの技術革新は、凍結保存技術だ。凍結できる対象は、胚だけではない。精子はもちろんのこと、不安定なため技術的に難しいとされていた卵子も凍結保存できるようになった。

さらに技術は進む。本書では、子宮移植、着床前診断ミトコンドリア置換、代理懐胎が紹介されている。これらは近未来の話ではなく、現実世界の話だ。

子宮移植は、スウェーデン2013年に実施され、翌年に子が生まれている。生体移植なのか、脳死移植なのか、免疫抑制剤を服用しなくて済むように出産後に移植子宮を取り除くのかなど、移植医療と生殖医療の両方の側面を併せ持っている。

ミトコンドリア置換は、ミトコンドリアを原因とする病気を回避するために用いられる技術だ。卵子精子ミトコンドリアというDNAでは3人が親となる。まだこの技術によりこどもは生まれていないが、英、米では認められている。

最近では、卵子若返りとして、自己ミトコンドリア注入が注目されている。科学的に実証されていない点は心配だが、材料も被験者も自分自身という点では、他者からは非難しにくい(本人が納得しているんだから何が悪いのと強弁できそうな)技術と言える。

こんな風に生殖医療は大きく変貌している。さらにややこしいのは、これまでの生殖医療がこどもを持てなかった人に希望を与える技術であったのに、それがさらに進展して、より良いこどもを持つための技術へと変わり得るということだ。

著者の前著では、『生殖医療が「遺伝子を引き継ぐ」思いの強化装置として機能してしまった可能性』を指摘していた。しかし、本書では、

21世紀の移植医療」は、これまで手付かずの未知の領域である「遺伝子レベルの生殖医療」に足を踏み入れようとしている。こうした動きは、従来の生殖医療の延長線上にあるものではなく、「第2次生殖革命」ともいえる野心的かつ革新的なものだ。

としている。これは、新しい世代の生殖医療が「より良い遺伝子を引き継ぐ」思いの強化装置として機能してしまう可能性を示唆している。

そういう中で、日本では生殖医療と社会についてあまり大きな議論が巻き起こらなかった。あるいは瞬間的にメディアが取り上げて、その後一気に風化してしまう。IoTとは何かにあるように技術だけでなく、制度やものの考え方は粘り強く議論することを苦手としているように思う。あくまで印象でしかないけれど。どうしてだろうか。

生殖医療は確実に社会に受け入れられ、新しい技術も着々と試され、適用されつつある。社会制度は疲弊し、現実世界との間に齟齬が起きつつある。

でも私はあまり悲観的には考えていない。確かにヒトの能力や可能性を拡張するが、社会の在り方を根本から見直すような技術とは思えないからだ。

本書では描かれていないが、個人的には'''人工子宮'''の登場を懸念している。ヒトの根源的な能力を代替する装置が生まれた時に果たして何が起きるだろうか

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(感想文の感想など)

意外と当時の感想文で言及していなかったけれど、体外受精技術を確立した業績により、ロバート・ジェフリー・エドワーズ2010年度ノーベル生理学・医学賞を受賞した。

さて、人工子宮について改めて調べてみた。日本では東北大学で人工子宮と人工胎盤の研究が行われている(参考:妊娠ヒツジを用いた胎児生理学研究)。アメリカでは、人工子宮システム『バイオバッグ』の研究開発が進められており、20174月にNature Communications誌で掲載された(参考:プラスチック製「人工子宮」でヒツジの赤ちゃんが正常に発育)。いずれも羊を対象としており、あくまで早産児の成長を補助する仕組みへの応用を目指している。

2019年のBBCの記事によると10年以内にヒトに適用されるとオランダの科学者が言っている。完全な人工子宮が完成し、妊娠出産から女性が開放される未来はまだ遠いかもれしれないが、超未熟児の命を救う「医療」として世間に受け入れられるようになれば、人工子宮という議論を巻き起こしまくりそうな技術が社会受容の第一歩になるだろう。

感想文16-19:巨大ウイルスと第4のドメイン

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※2016年6月21日にYahoo!ブログに掲載したものを再掲。

 

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ウイルスは生きているを読んで初めて知ったパンドラウイルスのこと。もうちょっと詳しく書かれた本がないかと探して、辿り着いたのが本書。

タイトルにあるように巨大ウイルスを含む最新のウイルス研究を通じて、生物への捉え方が変わりつつある。第4のドメインにあるドメインとは何か。本書で気になった箇所を挙げつつ、整理してみたい。

自分でタンパク質が合成できないものは、現在の定義では生物に含まれない。

生物と無生物の違いについては多くの議論がある。ここから生物ですよ、ここからは生物じゃないですよという明確な線を引くことができるかもしれないが、その線が何を意味しているのかについて、生物学者には様々な意見があり、だからこそ未だにホットな話題にもなっている。

タンパク質を自ら作れないとするなら、「他者」に頼るしかなく、ウイルスたちはそれを私たち細胞性生物に頼るのである。タンパク質を合成するために必要な遺伝子をもっていないからこそ、彼らは「細胞のしくみを利用する」のである。

ウイルスは確かに自分でタンパク質を合成できないので、無生物扱いを受けている。とはいえ、タンパク質を合成しない遺伝子を持たない戦略は、すなわちその機能を細胞性生物に外部化する戦略を選択したということに等しい。

細菌と同じように巨大であるだけでなく、細菌と同じように「ウイルス」に感染のターゲットとされる存在。それが巨大ウイルスの仲間たちだったということである。

ウイルスがウイルスに感染する。そんなことってあるんだと驚く。ウィキペディアによると『ヴィロファージ(Virophage)とは、他のウイルスに"寄生"し害を与えるウイルスのこと。』とある。本書では、ヴァイロファージという記載だった。ウイルスが巨大になると、小さいウイルスに狙われることもあるのだ。

さて、生物の分類についてちょっと、整理しておきたい。生物をどう分けるかは長く論争になっている。有名なのは五界説だ。要するに5つに分けられるよっていう言説だ。

まず単純に、原核生物(核膜がない)と真核生物(核膜がある)に分けられる。その原核生物モネラ界としてひとくくりにされた。これが一つ目の界。

真核生物から原生生物界、菌界、植物界、動物界に分かれる。ぱっと見でよく分からないのが原生生物界だけれど、要するに菌界にも植物界にも動物界にも属していない生物の居場所ということだ。

とはいえ、この五界説は科学技術の発展、特に分子生物学の発展に伴い、徐々に説得力を失っていく。

「界」(Kingdom)よりも上のレベルのくくりという位置づけで、「ドメイン(超界)」(domain

ということで新たに作られたのがドメインという上位の分類だ。

ドメインには「バクテリア」、「アーキア」、「真核生物」の3つがある。

五界説に話を戻すと、原核生物モネラ界は、バクテリア真正細菌)アーキア(古細菌)からなる。要するに、原核生物モネラ界=バクテリアアーキアだ。

3つのドメインのうち2つは、五界説では一つの界として扱われてきたので、これはもう根本を覆すような生物の捉え方なのである。

バクテリアアーキアは、日本語では同じ「細菌」という言葉が入っているため非常によく似たグループで、私たち真核生物とは大きく異なると思われがちだ。

そうそう、そもそも原核生物と真核生物という分け方があったんだものね。バクテリアアーキアは近い、真核生物は遠いという考えは至って常識的と思える。ところがだ。

バクテリアアーキアは、進化の過程で両者が分岐したのは私たち真核生物が誕生したよりもずっと前だった、ということが徐々に明らかになってきたのである。

何と、真核生物はアーキアから分岐した!のだ。古細菌という日本語名称は、いかにも誤った認識を植え付けそうなネーミングだ。真核生物たるヒトは、バクテリアアーキアだったら、アーキアの方が近い存在なのだ。

ウイルスなり生物なりを定義する基準は、その生物を作り出す方法(何がそうさせる能力をもつか)、すなわち「生物をコードする能力」であるべきだと主張するのである。

ようやっと本書のキモへと至る。要するに『ウイルスを生物の一つとする提案-4ドメイン説』だ。バクテリアアーキア、真核生物に加えて、ウイルスを生物の一つとしようではないかという、大胆な説だ。その背景は、

巨大DNAウイルスが細胞よりも先に誕生し、レプリコンであるDNAとそれを包み込む脂質二重膜、そしてそれを保護するカプシドという形のものがまずできて、この脂質二重膜がやがて「細胞膜」へと進化し、カプシドが「細胞壁」へと進化して、地球最初の細胞、すなわち原核生物が誕生した、という考え方

巨大DNAウイルスから原核生物へと進化したという。面白い。

巨大DNAウイルスの原型である「DNAレプリコン」を、生物の基本単位とみなせるかもしれないということである。言い換えれば、DNAレプリコンのもつ「ウイルス的な特徴」そのものを「生きている」といえるだけでなく、より一歩進んで「生物の基本単位」であるといえるのではないか、ということでもある。

ウイルスっぽいものも拡張して生きていると言えるし、さらに一歩進んで生物の基本単位という生物学の根幹まで言及できる。

ウイルスの本体はウイルス粒子なのではなく、ウイルス粒子を作るものこそがウイルスである、というのである。ではウイルス粒子を作るものは何かというと、「ウイルスに感染した細胞」である。

ウイルスはウイルスを増やすために細胞を利用するのだが、じゃあウイルス粒子を増やしているのは、そう、ウイルスに感染した細胞だというのだ。うーむ、確かにウイルスはそれ自体は極小メカっぽいのだが、ウイルスに感染した細胞は間違いなく生物なのだ。

生物がさまざまな非生物的環境から影響を受けていることが事実であって、その「非生物」が生物の進化に影響を与えてきたことが明らかになったとき、ただ「細胞膜でできていないから」とか、「自立していないから」とか、そういった機能上、構造上の制約のみをもち込んで、「生きている」「生きていない」という概念上の事柄を議論する必然性は、もはやなくなってきているのではないか、と筆者は考えるのである。

生物と生きているの分離。これが本書で書かれていることで、極めてエキサイティングでスリリングな議論であると思う。核膜がないという見た目だけで、原核生物と真核生物を分けたのだけれど、実際には真核生物の中で2つのドメインがあり、大きな隔たりがあった。

巨大ウイルスを通じて、私たち生物はどのように生まれ、どのように進化してきたのかが明らかになってくる。生物が単独で生まれ、死ぬわけではない。今では非生物と言われているものも含めて、複雑に絡み合いながら、広く、深く、豊かな生命の大河を生み出し、うねり、揺れ、たゆたっている。

改めて生物学の面白みに触れることができた。たまには生物学についてびしっと書かれた本を読むのも良いものだ。