40代ロスジェネの明るいブログ

2020年1月11日からリスタート

感想文26-43:鶏まみれ



著者である繁延あづささんは、カメラマン兼たまご屋兼食肉処理の従業員だ。と書いても何のことか分からないだろう。

繁延さんは、家庭の事情で養鶏業を始めるのだが、卵を産めなくなった雌鶏も肉として売るために、食鳥処理衛生管理者資格が必須だということがわかり、さらに、その資格を得るためには食鳥処理施設で3年間の勤務実績が求められる。

もともとはカメラマンだった繁延さんは、鶏をさばいて肉とし売る業をするために、食鳥処理場で働き始める。本書は養鶏業と食鳥処理場での異なる2つの勤務、けれど、鶏を扱うという意味では類似した仕事の日々が綴られている。まさに鶏まみれな一冊である。

「鶏づくし」ではなく、「塗(まみ)れて」いる。養鶏場で生体の鶏につつかれ、処理場では鶏の血や汚物に塗れる。鶏といえば、コケコッコーと勇ましく鳴く姿と、スーパーマーケットでパック詰めされ陳列している淡いピンクの鶏肉としか、これまでの人生でほとんど接点がない(あとは調理されたから揚げとか)。

生きた動物である鶏から食糧である鶏肉になるまでの間のリアルな工程を私たちの多くは知らない。一方で、生きた鶏から卵が得られるのは何となくイメージできている。しかし、その鶏の二面性、肉と卵を混同せずに理解できているかというと怪しい。

私自身、農学部の畜産関係の学科出身で、鶏の解剖をしたことがある。鳴き叫ぶ鶏を複数人で押さえつけ、首を切り、解体する。ニワトリゲノムの研究をしていたので、分子生物学はまじめに勉強したが、鶏の巧妙な体の構造について解剖学を通じてもっとちゃんと学んでおけば良かったと今はそう思う。

飼い喰い 三匹の豚とわたし(14-33)を思い出す。ドキュメンタリーとして豚を3匹飼い、屠畜して、食べる。体を張った実験のようだったが、本書は違う。家族の生活が鶏にかかっている。家族が生きていくために養鶏を始め、鶏を捌いて肉を売るために、同時に食鳥処理場で働く。生きていくために鶏にまみれる。鶏にまみれて生きていく。

ニワトリが肉になるようすなんて誰も見たくないし、人が見たくもない仕事を障害者がやっている姿はさらに見たくないだろう。あれ?ふと思い至る。私が撮ってきたのは、"見たい"と"見たくない"に選り分けられたうえで、人が見たい障害者の姿だったのか?見えていなかったところが目に入ってくると、いつも思う。私は何も知らない。(143)

食鳥処理場では高齢者、障害者、外国人が働いている。食鳥処理場のリアルを知るのは難しい。みんな見たいものしか見ないからだ。見たくないものを誰も映そうとも描こうともしない。

付加価値がつかない野菜、付加価値がつかない鶏肉、それら最低賃金はどこか似ていないだろうか。最低賃金って、つまり付加価値ゼロの労働ってこと。こんなに大変な仕事だと知られることもなく、知ろうともされないまま、低賃金に据え置かれていないだろうか?(262)

食鳥処理場の仕事はとても大変。凄まじいスピードで命を奪い、食糧へ変えていく。首を切り、羽をむしり、傷つけないように内臓を取り出し腑分けし、肉を部位に切り分ける。汗だくになって、血液、体液、糞尿にまみれ、処理していく。私たちのエネルギー源やタンパク質源の基盤となる重要な仕事だ。

しかし、賃金は低い。しかも最低賃金で働いている人がいる。なるべく給与を低くしたい雇用者と、最低賃金でも良いから働きたい労働者の思惑がマッチしてしまっている。

私の「なぜ低賃金なのか?」という問いに、穢れや被差別民の仕事だと言う人もいた。けれど、そうした答えにはまったく納得できなかった。だって、"穢れ"が何かを捉えないままに差別と結びつけるなんておかしい。それじゃあ、差別したいがために"穢れ"観念をでっちあげているようなもの。"穢れ"を、弱い立場をつくりだすために発明された差別と混同してもらっては困る。(367)

穢れがあるから賃金が低いというのは確かに論理的にも心情的にも納得しがたい。穢れという概念が差別と低賃金を生み出す装置として機能してしまっている。労働市場の需要と供給が機能していない。食鳥処理場の働き手が足りないのであれば、賃金を上げるのが一般的な方策だろう。

"食べ物"は"生き物"である必要はないのかもしれない。世の中がそうなっていくのもわからなくはない。ただ"食べ物"が"生き物"でなくなったら、生きることが大きく変わってしまう気がしてならない。それが何かを名指すことは、いまの私にはできないけれど、その予感があるから私はこんなことをしているのかと思う。(424)

 クリーンミート 培養肉が世界を変える(20-20)のような、そう遠くない未来に培養肉がエネルギー源・タンパク質源になるかもしれない。焼肉やステーキを食べることはいつしか野蛮な行為になるのかも知れない。

しかし、食肉処理施設で働いていた人たちを遡って断罪するようなことはあってはならない。今ですら穢れの誹りを受け、自らの手を汚さずに肉を食べていることを当然のように思っている。あるいは、過激なヴィーガンが肉食を否定するキャンペーンも、安全な場所からただ動物たちがかわいそうと言っているに過ぎず、食肉処理施設で働いている人たちの環境改善に心を砕くことはない。

本書は家族の苦労、子供たちの成長、食肉処理施設で働いている人たちの実像、そして無数の鶏たちが描かれている。これから鶏肉を食べるときに少しでも思いを馳せてみたい。この鶏を処理した人がいるということ、そしてその人たちにも生活があるのだということを。

感想文14-33:飼い喰い -3匹の豚とわたし

 

2014/6/27のYahoo!ブログを再掲

 

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世界屠畜紀行(07年)以来の内澤旬子さんのご本。もう7年も前になるのか。読書感想文をブログに載せることを初めたのが2008年なので、それよりも前に読んだ。それでも印象に残っている。

家畜を育て、殺し、食べることについて、強い関心のある内田さんは、ついに自ら3匹の豚を飼い、そして(業者さんが)屠畜し、さいごはちゃんと喰った。素晴らしいドキュメンタリーだ。

改めて前書の感想文を読むと、自分が書いた文章なのに感心してしまう。たまに読み返すと面白い。その頃はまだ解剖した時の感覚が残っているようなみずみずしさを感じる。7年前はちょうど第1子が生まれてすぐの頃で、感性が鋭かったのかもしれない。今は、摩耗してしまっているような…。

豚といえば思考する豚(10-23)という本も読んでいた。こちらは読んだことをすっかり忘れている(検索して気づいた…)。ブタはヒトに近く、賢い、らしい。うむむ。本書でも、時々その賢さが表出しているが、一方で黙々と太っていくザ・家畜としての豚の姿の印象も強い。

いつものように気になった箇所を挙げておこう。

畜魂碑を建てるという文化を持つ国は、日本の他にない。

大学では実験動物の慰霊祭を開催するし、はたまた菌塚を設置したりもする。ちなみに菌塚の裏面の碑文には『人類生存に大きく貢献し 犠牲となれる 無数億の菌の霊に対し至心に恭敬して 茲に供養のじんを捧ぐるものなり』と書かれているそうな。京都にあるのか。行ってみたいなぁ。でも調べてみたら遠いし、アクセス悪い…。 

魂についての考え方って日本では特殊なんだろうか。政治的なことに波及しそうだけれど、たとえ戦犯だろうが、豚だろうが、さらには菌だろうが、その魂を供養して、お参りする。死に対する畏れと感謝。畜魂碑を建てない文化圏の方々の気持ちの方が私には分からないなぁ。

三元豚は、雑種豚とも経済豚とも言われている。三種類の品種を掛け合わせた雑種だ。

社食に三元豚のカツカレーというメニューがある。三元豚ってあんまり聞いたことのない名称だったので、新しいブランド豚かと思ったら、違った…。最も多く流通している、至ってメジャーな豚だった。だったら普通にカツカレーで売ってくれれば良いのに。

三元豚は「LWD」と呼ばれ、ランドレース(Landrace)、大ヨークシャー(large White)、デュロック(Duroc)の3種類の品種を掛け合わせた豚だ。うーむ、ひとつ賢くなった。

そういえば、この間、近くのスーパーで中ヨークシャー(千代幻豚)が売られていて、珍しさもあって思わず切り落とし(1パック400円くらい)を買ってしまった。千代幻豚(ちよげんとん)によると中ヨークシャー種(middle Yorkshire)と大ヨークシャー種(large White)で母豚を作り(YW)、デュロック種(Duroc)を交配させて生まれた豚(YWD)とのこと。ランドレースの代わりに中ヨークシャーを使っているのが違うポイント。スーパーのポップにある表記とちょっと違うじゃないか。

お味は、焼きそばに投入したところ、さっぱり違いは分からなかった。でも、鍋に入れたら、確かに違う。やや野性味が残る濃い味わいとプリッとした弾力がある。これにどのくらい価値を見出すかは、人によるだろうが、旨いことは旨いです。

「健やかに育て」と愛情をこめて育てることと、それを出荷して、つまり殺して肉にして、換金すること。動物の死と生と、自分の生存とが(たとえ金銭が介在していたとしても)有機的に共存することに、私はある種の豊かさを感じるのだ。

家畜を育てるのは時間がかかる。そして、当たり前だけれど愛情だってちゃんと必要だ。肉を生み出すためには、ものすごく手間がかかるし、生み出される肉の重さよりもはるかに大量の餌が要る。豊かだからこそ、家畜を育てることができる。質量としてはヒトよりも重い家畜・家禽が地球には存在している。地球全体で豊かな状態と言えるかもしれない(偏在してるにしても)。

夢も秀も伸も、殺して肉にして、それでこの世からいなくなったのではない。私のところに戻って来てくれた。今、3頭は私の中にちゃんといる。これからもずっと一緒だ。たとえ肉が消化されて排便しようが、私が死ぬまで私の中にずっと一緒にいてくれる。こんな奇妙な感覚に襲われるとは、私自身、ほんとうにほんとうに思いもしなかった。

夢(LWD)と秀(デュロック)と伸(中ヨーク)は、飼っていた豚の名前。品種が違うので、それぞれ個性的で、見た目の体型だけでなく、行動も違いがあった。

飼って、殺して、食べる。こういったことを普通は経験しない。経験した人だからこそ至る思いの境地もあるのだろう。3匹の魂は確かに内田さんに結びついたのだ。

飼うことの大変さ、そして屠殺すること。食べることの描写が少ないのは、あんまり著者がありつけなかったからだろう。いやはやコストのかかった一冊です。そして、豚が食べたくなります。

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(感想文の感想など)

改めて京都の菌塚を調べて見ると、確かにアクセス悪いが行けなくもない。今度、行ってみたいので、行ってみたい場所リストに残しておこう。

坂口謹一郎先生による題字であることに初めて気づく。やはり訪れてみたい。

感想文10-23:思考する豚



2010/3/24のYahoo!ブログを再掲

 

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本書の訳者は、できそこないの男たちの著者でもある世間では有名な生命科学者の福岡伸一さん。

原著の題名は、「The Whole Hog: Exploring the Extraordinary Potential of Pigs」である。go the whole hogという慣用句があり、辞書的な意味は「とことんやる」ってこと。

だから、原著どおり「ブタの全て」みたいに訳すと、ちょっとずれているだろうし、きっと売れそうにない。とことんブタについて調べてみました、っていうのがこの本のタイトルであり、主旨であり、酢豚ちがった全てだ。

じゃあ、「とこ豚調べたブタの全て」とかにしてもいいけれど、この本の中身が割と専門的で、マニアックで、学際的なので薄っぺらくなってしまう。ということで、福岡さんは色々悩んでこの題名にしたのだろう。

ブタを食べない日はないくらい、ぼくたちはブタと生活を共にしている。体の一部は既にブタといってもいいくらい。そういえば、今日の夕食は豚汁だ。ぶひひ。

それなのに案外とぼくたちはブタについて疎い。イベリコ豚とかアグー豚といった豚の種類をある程度知っているし、酢豚、生姜焼き、トンカツ、豚汁、豚足、ミミガーなど豚の調理法や料理にも詳しいのに、生きているブタ(※食べるぶたは豚、生物学的なぶたはブタと記載してます。)となると養豚家以外はとたんにさっぱりだ。

そういえば、もう10年近く前になるけれど、学生時代に牧場実習というのに行った。そこで梅山豚(メイシャントン)という当時話題になっていた某教祖に似た顔貌をした高級豚の飼育のお手伝いをした。それからオスに至っては去勢の実技もあったりして、いやもう大変だった。

ぼくと生きているブタとの関わりはこれくらいで、摂取以外はスーパーのプラスチックトレイに収まって陳列されているのをかごに入れるくらいだ。

そんな身近だけれど遠い生きているブタについてあれやこれや書きまくったのが本書だ。ううむ。ブタを飼いたくなってきた。そうなのだ、ブタは大変賢い。まさに思考するのだ。

ちょっと、本書を読んで初めて知って印象に残ったことをメモしておこう。

ブタとヒトは体のつくりが似ている。異種移植といってブタの臓器をヒトに移植してしまおうという研究が実際に進められている。あるいは、ブタにヒトの臓器を造ってもらうという研究もある。

本書では、ブタとヒトの歯が似ているとのことで、絶滅したブタの祖先の歯を類人猿の歯と間違い、西の世界にも類人猿がいたという証拠として1922年に論文発表までなされた。ヘスペロピテクスと名付けられたけれど、1925年に否定されたのだけれど。

あの有名なピルトダウン人事件は、1910年頃に発掘され、1950年まで捏造が判明しなかった。そういう意味では、その当時は類人猿の化石発掘が魅力的で非常に熱が高かった時期でもある。

本書を読むと、(本当かどうかはさておき)豚の賢さには驚かされる。

豚たちがこのような仕事に就くのを妨げているのは、仕込みの難しさという障碍である。豚は人の指図を受けるのがあまり得意ではない。そうなるのには頭がよすぎるのだ。

なるほど。豚は大変賢いらしい。賢すぎるので、単純労働に向かないのだ。

心理学者が、“心の理論”という言葉で呼ぶものが豚にも備わっていることになる。

他者の心の動きを類推できるかどうかについて、理論的に体系化したのが心の理論だ。ブタの行動実験によると、どうもブタは他ブタの心が読めるようだ。これは相当賢い。

そうそう、賢さで印象的なのは、家畜豚は野生ブタよりも2割くらいバカになってしまうとのこと。確かに刺激が少ないのかもしれない。

ブタが賢いことが前提になると、2つのことについて思いを馳せてしまう。1つは「育てたブタを食べる命の教育」のこと。これはキツイね。ブタは賢く、相手のことも分かる。イヌよりも心が親密な関係になれるようだ。こうやって育てたブタを食べるのって、無茶な話なのかもしれない。心理的にはカニバリズム状態なのかも。

もう1つは、イルカ漁のこと。その映画が、アカデミー賞長編ドキュメンタリー賞を受賞したことで話題になった。イルカ漁に反対する方のご意見は、「賢いイルカをなぜ殺すのか」ということに集約される(たぶん)。でも賢いかどうかだけを基準にして、ヒトが殺して良いかどうかを決めて良いという発想は、恐ろしく危険であろう。このことが一部の方に伝わらないのは謎だけれど。

ブタは賢い。とにかく賢いのだ。でも賢いことが分かっても、ヒトの関わり方は変わらないだろう。だって豚肉は旨い。とにかく旨いのだ。今更だれも食べるのを止めないだろう。

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(感想文の感想など)

イルカ漁については イルカ漁は残酷か(16-04)をご参考に。

賢いから殺すな、というのは、考えてみるになかなか深くて難しい。人間よりも賢くなったAIを使えないようにするみたいなことをどう考えれば良いのだろうか。

「世界屠畜紀行」を読んで



2007/8/25のYahoo!ブログを再掲

 

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たまに書く読書感想文。

何より題名に惹かれた。ドキドキしちゃう。

屠畜。家畜を屠る。こういう単語って変換しても出てこないから不思議。屠殺もダメだった。塗擦にしか変換できない。読めるし、字面で意味も分かるけれど、変換して出てこないってのは日常では用いない、あるいは意図的に隠されてるんじゃないのって疑ってしまう。

さてさて、イラストがたくさんあってオモシロイ。分かりやすい。へぇ、ラクダって食べられるんだ。コブってどんな食感なんだろう。ふむふむ。国によっては捌き方が違うモンだ。

決して、世界各国の屠畜の現場を見学してきましたってだけの本ではない。犬食、屠畜の文化的側面、屠畜業に対する差別意識、BSE問題など、屠畜が関係する諸問題を包含したなかなかの意欲作。イラスト(カラーじゃないからスプラッタ感がない)があるので、気軽に読めるけれど、内容は充実している。

でもでも内容が充実している分だけ、ぼくは若干の息苦しさも覚えてしまった。確かに屠畜の現場を描くのは難しいし、大変だけど、工程がたくさん細かく描写されてて、広く社会問題も取り扱っていると、気軽に読み出すと、息継ぎできなくて、窒息しちゃうのだ。

ぼくは大学の専攻は農学部で学科は畜産関係だった。そのため普通の人は経験したことでないであろう、ウシの解剖(食べることを目的としていないので屠畜ではない)をしたことがある。

今でも覚えている。2月の冷たいコンクリートの解剖室。連れてこられた3匹の子ウシ。麻酔を注入し、頸動脈を切断し、放血。円月刀で皮をはぎ、メスを入れて臓器を取り出す。

動物を殺すというのは結構ツラい。でもいったん殺してしまうと、好奇心が首をもたげる。単純にウシの体内にどんな風に臓器が収まっているのか、本当に胃が4つもあるのか、内容物はどうなっているのか、タンはどうなっているのか、ハラミって横隔膜だよね、なんて徐々にテンションが上がってきて、積極的にメスをふるうようになる。

解剖するまでは驚くような認識の学生もいた。分数の割り算ができないとかそれに近いレベル。フィレとかロースとかそういう食べる牛肉は、ウシの体内に格納されていると思ってたらしい。牛肉=筋肉という感覚がない。農学部の学生ですらそんな認識なんだから、小学生が魚が切り身のまま海を泳いでいるって思っていたって何ら不思議でない。

太陽が地球の周りを回っていると直感的に思ってしまう。スーパーでキレイにパック詰めして販売されている牛肉と、実際に生きているウシが同一だとはピンとこない。自らの手を汚して、啼き声を聞いて、静かに生を失っていく姿を見て、初めて食べるという行為が非常に罪深いってことを知るんだ。

著者のイラストはキレイで、分かりやすくって、気持ち悪い感は非常に少ない。それはイラストの良さでもあると同時に、独特の質感までがまざまざと伝わってこないので、毎日のように食べている肉に対する認識ががらりと変わるというわけではないだろう。

いや、ぼくは解剖という経験があったからこそ認識が変わらなかったのかも知れない。解剖を知らない人にとっては十分な情報量なのかも知れない。

解剖は大事な経験だと思う。ウシを解剖しろとはいわないけれど、食べるために魚を解剖するだけでも大きな心境の変化はあると思う。毎日どこかでたくさんの家畜・家禽を屠畜している職業の人がいるということと、そういう現場を知ることもなく、手を汚すこともなく肉を購入し、調理し、摂取していること(平気で食べ物を残していること)の断絶感ってやっぱり異常だと思う。

屠畜、解剖って実生活と密接に関わっているはずなのに、未知のように扱われている。ぼくたちは単に無知なだけなのに。こういう本が注目されるってのはまあ良いことかな。

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(感想文の感想など)

20年近く前の感想文で、20代後半の自分が書いた文章を読み返すと新鮮だ。

料理はするが、一人で魚を捌けない。すでに処理された肉、魚しか取り扱っていない。

そういえば、ドン・キホーテ内に食肉処理施設が設置され、自社で処理することで低価格を実現しているらしい。

それでもドン・キホーテ社内での処理は、肉の加工であって、生きた牛を屠殺するのはまた別の施設であろう。

屠畜、解剖って実生活と密接に関わっているが、現場を知るのは難しい。

感想文26-42:しんがりの思想



 社会のしんがり(26-35)で紹介されていて読んでみた本。大変感銘を受けただれのための仕事(21-16)と同じ鷲田清一さんによる著作。2015年に発売されており、東日本大震災の後でコロナ禍の前に書かれている。10年ちょっと前の本である。

「しんがり」という言葉をきちんと認識したのは、 しんがり 山一證券 最後の12人(16-15)で、清算と社内調査という後ろ向きな仕事に真摯に向き合った人たちのドラマだ。しんがりを務める人間がいないと、社会そのものが機能しない。本書も期待して読んでみた。

ところがだ、東日本大震災直後に書かれているためか、日本の没落を悲観し、もっと言えば厭世観に染まりまくっている。確かにその当時は、福島第一原発事故もあり、暗澹たる気持ちになっていたのは確かだ。

この国にはいま、人口の減少、つまりは社会の縮小にともなうさまざまな課題が、いますぐに対応を考えておかねば取り返しがつかなくなる課題として立っている。この事実を前にすれば、「経済成長」のかけ声などどう考えても空言としてしか響かない。いまわたしたちはこうした課題に、どのような心づもりで立ち向かわねばならないのか。それをここで考えてみたいとおもう。(11)

10年以上経過しているが日本の方針に大きな変化はない。人口減少と社会の縮小は現在進行中であるが、10年前の時点で「いますぐに対応を考えておかねば取り返しがつかなくなる課題」だったかというと、どうだったのだろうか。

そして、良いか悪いかはさておき、経済成長への希求は現政権でも今なお勇ましくエンカレッジされている。

本書を読んで最大の違和感は、思想としては理解できるが、そこに何の実務も描かれていないことだ。 社会のしんがり(26-35)で紹介されていた事例は、どれも多くの苦労があり、試行錯誤があり、何より困っている人たちがいた。そしてそれを見捨てない覚悟でしんがりを務める気骨のある人たちがいた。そこに私はしびれたのだ。

本書の論はわかる。しんがりを務める人たちの存在は本当に必要だ。でも本書を読んでも奮い立たない。リアルがないのだ。

特に最後にはリベラリティへの期待が書かれていたが、10年以上たった今のリベラル陣営の凋落ぶりを予見できなかっただろう。10年前に読んでいたら印象は違ったのかもしれない。しかし10年経った今読むと、党派性の強さ、偏った情報を基にした論の立て方、何よりしんがりの「思想」だけで実務への言及の乏しさがどうしても気になる。

違うタイミングで違う出会いをしていたら、また違った感想になったかもしれない。とはいえ、しんがりは思想ではなく、実践しないと意味ないなと思うのよ。リーダーシップも思想ではなく実践しないと現場が見えてこないのと同じように。

感想文26-41:変革する手術 「神の手」から「無侵襲」へ



小さい頃から病院が苦手だ。今でもできる限り病院に行かないようにしている。

苦手になったのは理由があって、それは小学1年生の時に2週間入院し、2度手術を受けたからだ。生まれつき喉に大きなできものがあって、それを除去する手術だった。小学1年生にとって貴重な夏休みのうち2週間を病院で過ごしたため、人生の体感時間的には病院生活はもう十分と悟ったのだ。

結果的に手術は成功し、当時の医師や看護師には感謝しかない。でも小児病棟で過ごした2週間は陰鬱としていた記憶が強い。短期間で退院していく私に対して、長期入院を余儀なくされている(あるいは病院外での生活すら経験できない)子供たちにとって、羨ましいと同時に、恨めしく憎らしい存在でもあっただろう。学校とは隔絶した小児病棟の世界は、毎日がどうにもギクシャクし、ちっとも楽しくなかったのを覚えている。

「神の手」がもてはやされていた時代から、現代の手術について私の知識はアップデートされていない。本書のタイトルが気になって読んでみた。

「切った、貼った」で人を治すようになっておよそ100年。幸か不幸か、僕はこの「手術」という原始的な治療手段が大きく変革する、特別な四半世紀を生きてきたのではないか。(6)

2000年以降の四半世紀に手術がどのように革新していったのか、本書では一人の医師である石沢先生の目線で描かれている。

石沢先生は、日本で「神の手」に出会い、フランスでまた別の「神の手」と出会う。 ボクの音楽武者修行(22-09)のように、日本人が海外で武者修行し、様々な苦労を通じて順応し、活躍していく成長譚は読んでいて楽しい。私も若いうちに海外に行って武者修行できるような経験があれば、また違った人生になっただろうと思わなくもない。

さて、本書で示されている技術革新は、蛍光イメージングと内視鏡手術の融合だ。「神の手」の時代には侵襲性の高い開腹手術で、医師が自身の目で病巣を見ながら、素早くミスなく手術する技能が求められていた。そのため、遮二無二に働き、実践を通じて切磋琢磨し、腕を磨いていく。

しかし、海外でより侵襲性の低い内視鏡手術が主流となり、内視鏡カメラを通じて病巣を見て、手術を行うようになる。そして人間の目では感知できない波長の色を特殊なカメラを通じて見ることができるようになり、切除しなければならない箇所をより正確に特定できるようになる。

もともとモニターを見て行う内視鏡手術は、肉眼では見えない近赤外の蛍光を活用するのに有利である。しかも、最新のシステムを使えば、本来不可視な蛍光を緑などの任意の色に変換して、ビビットに強調し、フルカラー4K画像に重ね合わせることができる。(102)

蛍光プローブと高精度カメラと画像処理によって、人間の目で直接見るよりも体内の様子を情報量の多く把握することができる。技術の組み合わせによって手術は革新していく。さらにAIやロボット技術の融合により、より精緻で正確な手術が実現していくことだろう。

本書ではその先である未来の手術や学問分野の発展まで描かれているのが興味深い。

体外から肝がんを破砕・液状化させる革新的治療「ヒストトリプシー(Histotoripsy)」

ヒストトリプシーは、超音波のマイクロバブルで腫瘍を非侵襲的に破砕する革新的ながん治療技術であり、すべてのがんに適用するわけではないが、こういう手術ができるようになるのだと大変驚いた。

非熱的に破砕され、「ドロドロ」に液状化したがんの断片や内部のタンパク、遺伝子は周囲の肝臓から吸収され、リンパ液や血液の中を循環、最終的に抗腫瘍免疫を活性化する効果が想定されるのだ。(180-181)

しかも、放射線治療に見られる、照射範囲以外の病変が免疫の力で縮小する「アブスコパル効果」に類似した副次的な効果もあるかもしれず、破砕に加えて、自身の免疫細胞の働きによって、遠隔部位の腫瘍縮小作用も期待できるとのこと。原理が分かると大変面白いし、そういう発想で新しい手術法を開発する人を本当に心の底から尊敬する。

さらには、がん細胞や共存細菌によるL-グルコース代謝利用、宇宙外科学へと展開していく。まさに神の手から非侵襲、さらにはがん細胞そのものの分子生物学や宇宙への進展と大変面白い研究や展望が示されていて、ワクワクする。

 火星移住計画(26-24)では、宇宙での外科手術について(たぶん)書かれてなかったと記憶しているが、確かに宇宙で生活するのが当たり前になると、宇宙で外科手術するシチュエーションが出てくるだろう。

ということで、こういう新しい情報を得ると、新しい手術を受けたくなってくる。病気にはなりたくないが、受ける必要性が生じた際には、最新の侵襲性の低い手術を経験してみたい。

感想文26-40:21世紀を動かす思想 加速主義・プルラリティ・SFプロトタイピング



幼いころに、将来何になりたい?と問われたことはあったが、未来をどうしたい?と問われたことはなかった。問われたことがないということは、未来について考える機会がほとんどなかったに等しい。

多くの人は未来を希求せず過去に縛られる。

日本史や世界史など過去について学習する機会は大いにあれど、未来について考える機会は、カリキュラム上はほとんどない。テストや評価にフィットしにくいという、教育現場でのプラクティカルな困難さはもちろん理解できる。

ただ、教科書に書いてあることを記憶し、限られた時間内に正確にアウトプットする能力は、今となってはAIに代替できる。暗記物の教科に割く時間を減らし、より創造的な学習に触れる機会をもっと増やすのが良いのではないか。

未来学は、起こりうる複数の未来(オルタナティブ・フューチャー)を体系的に探究し、それらの未来が持つ意味や影響を分析し、その中から私たちが「望ましい」と考える未来(プリファラブル・フューチャー)を特定し、そしてその実現に向けて現在からどのような行動をとるべきかを構想するための知的な営みなのです。それは、未来に対する私たちの想像力を刺激し、受動的に未来を待つのではなく、能動的に未来を創造していくための思考の枠組みと方法論を提供してくれます。(18)

ということで、本書は「未来学」についての本である。そして「未来学」について本を読んだことはあまりなかった。どちらかというと、特定の思想に基づいた未来予測に関する本が多かったように思う。

特に未来と関連性の強い成長論についての本といえば、 GROWTH 「脱」でも「親」でもない新成長論(26-01)見えない未来を変える「いま」〈長期主義〉倫理学のフレームワーク(25-39)が挙げられる。

本書は、未来への「処方箋」を提供するものではありません。むしろ、アテンションエコノミーによって細分化された私たちの思考を再統合し、分断された社会において対話の可能性を回復し、複雑で予測困難な時代において、私たち一人ひとりが「未来を考える力」を身につけるための手引きです。(20)

本書の最も重要なメッセージは、みなが未来について考え、未来を創造できるということになる。凄まじい勢いで科学技術は進展している。インターネットで誰とでもつながるようになり、AIがますます優秀になり、寿命が延伸し、宇宙へと住環境を拡張していく。科学技術の進展がどのような未来をもたらすのか、容易に想像することはできない。

プルラリティは、テクノロジーを、人間性を抑圧する力としてではなく、人間性を豊かにし、社会的な絆を再構築するための道具として捉え直そうとする、言わば、テクノロジーに希望を取り戻そうとする思想運動だと言えるでしょう。(85)

本書の重要なキーワードであり、初めて知った言葉「プルラリティ(Plurality)」。あえて日本語に訳すと、多元性・複数性・多次元性である。

プルラリティの核心にあるのは、「社会や文化におけるさまざまな『差異(Differences)』を、単に容認したり尊重したりするだけでなく、それらの差異をむしろ創造的なエネルギーの源泉として捉え、多様なアクターが互いに協力し合い、共通の課題解決や価値創造に取り組むための、新しいテクノロジー、制度、そして文化を積極的に設計・構築していく」という、ダイナミックで実践的な志向性です。(88-89)

本書にも同様のことが書かれていたが、ウィキペディアの説明を引用しておこう。

2024年に、台湾の元デジタル担当大臣であるオードリー・タンと、マイクロソフト・リサーチの政治経済学者グレン・ワイル、およびそのコミュニティによって提唱された。 基本方針は、従来のテクノロジーが陥っていた「中央集権的な人工知能(AI)」や「極端な個人主義(リバタリアニズム)」の二項対立に対抗し、民主主義とテクノロジーが共に繁栄する未来を目指す。

日本からこういった考えが出ないのは悲しいが、まあ仕方ない。伸びしろがあると信じたい。民主主義とテクノロジーが融合して良い未来を描きたいが、現状、悪魔合体してフェイクニュースで分断を煽り、格差が拡大し、戦争が起き、環境が破壊される

プルラリティは、テクノロジーの発展を否定するのではなく、その発展の方向性を、人間の多様性と協調性を増幅する方向へと導くことを目指します。そして、複雑な差異を包摂し、それらを創造的な力へと転換させながら発展していく、「シンギュラリティ」ならぬ「プルラリティ」の実現を構想するのです。(96)

良いことづくしに思えるが、実現の道は困難である。しかし、希望はある。プルラリティという言葉が生まれ、コンセプトが存在しているのだから。

加速主義のダイナミックなエネルギー、プルラリティの包摂的なビジョン、そして未来探索の戦略的な知恵。これらは一見すると異なる方向を向いているように見えるかもしれませんが、現代社会が直面する複雑な課題と、テクノロジーがもたらす根源的な変革という共通の文脈の中で、実は深く結びつき、相互に補完し合う可能性を秘めています。(214)

現状、仕事の面で言えば、加速主義的な状況に疲弊している。大規模なプロジェクトが同時並行で動きつつ、国際情勢を加味しながら、止まりようもない科学技術の長大な慣性力に振り落とされそうになる。科学技術の発展が早いのではなく、まさに「加速」していて、さらにスピードが上がり、そしてその先も速度が上がり続けるであろう近未来に、今以上にハイスピードで仕事を回さないといけないという恐怖を感じる。

プルラリティの包摂的なビジョンや未来探索が介在しない、純然たる加速主義は、暴れ狂うモンスターのようで、使役どころか制御すらできない。

未来は、国家や企業や専門家だけのものではありません。未来は、職場にいるあなたの、地域に暮らすあなたの、ネット越しに誰かと話しているあなたの、すべての実践に開かれた地平です。(248)

みなが未来に介入できる未来。私も未来を創造する一員だ。為政者や権力者が描く未来を妄信し、ただ順応するのではなく、どういう社会で生きたいかを希求し、そのためにテクノロジーを活用し、未来をつくっていく。

AIの発展に伴い、人間が自ら考える力を喪失していく感がある。でもAIは未来を考えられないし、AIに未来を託すことはできない。AIが目覚ましく進歩している現代だからこそ、なおのこと未来について考える重要性は増しているだろう。