40代ロスジェネの明るいブログ

2020年1月11日からリスタート

感想文21-11:動物園・その歴史と冒険

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私は動物が好きだ。初めての海外旅行はケニアで、たくさんの種類の野生動物を間近で見ることができた。新婚旅行はガラパゴス諸島で、ゾウガメやイグアナなどの固有種を見て、ダーウィンの進化論を着想するきっかけを追体験した(気分を味わえた)。

家族旅行では奄美大島に何度も足を運び、珍しい動植物を見たり、シュノーケリングできらびやかで多彩な魚を見たり、釣り上げたり、味わったりもした。

水族館も好きで、池袋のサンシャイン水族館しながわ水族館などに足を運んだものだ。

でも、動物園はそんなに好きではない。

動物が好きなので、動物園に行くのはやぶさかでないのだが、ケニアで「本物」を見てしまっているので、動物園で飼育されている動物はどことなく不自然な「偽物」に思えてしまうのだ。もちろん、野生状態で見たことのない動物もたくさん動物園にはいるのだけれど、見るのなら本物を見たいなと、これは偽物なのだな、と考えてしまう。

本書は動物園の歴史とその未来を描いた新書である。驚愕の新事実とか目からウロコの大発見とかはなかったし、海外の動物園の紹介は文字ではなく動画で見たいと思った(文章だと限界あるよね)。

とはいえ、本書で最も印象深かったのは、

動物園は、これからのひととそれ以外の生きものの関係をデザインする場になれる。(p.301)

の一文。

10年以上前に旭山動物園に家族で旅行した。当時は行動や生活を見せる「行動展示」を導入したことで注目を集めていた。確かに行動展示は斬新で、動物園はまだまだ工夫の余地がたくさんあるのだなと驚かされたことを思い出した。

動物園ではないけれど、もう一つお気に入りは、板橋区立熱帯環境植物館。熱帯植物が中心だが、魚類や爬虫類の展示があり、こじんまりとはしているけれど、密度の濃いローカルな施設で、熱帯の生態系を屋内施設で再現している。

都会にいて手軽に珍しい生きものを見たいときの選択肢は、動物園、水族館、植物園が考えられる。今では、その3つが独立して存在しているのではなく、陸上動物、水中動物、植物(藻類含む)、さらには微生物まで一体化した生態系そのものを提示しようとしている。

動物の権利運動や反動物園運動も関係しているが、動物が生きている環境それ自体、複数の動植物が棲息する生態系そのものを感じてもらう展示方法が模索されて久しい。

ひととそれ以外の生きものの関係をデザインする場がこれからの動物園の姿であり、動物園というコンセプトの拡張でもある。

本書の最初に、

なじみの世界をはなれて、どこか別の世界へゆきたいという思い。圧倒的な強さをもつ動物たちへの憧れと、彼らを意のままにしたいという野望――そして、それにともなう数々の愚行と、結局「他者」としての動物たちと、いかに向きあうべきかという問い。(p.3)

とある。博物学の時代(感想文09-29:西洋博物学者列伝参照)を経て、動物園が誕生し、大きな戦争を経験し、動物園の形態が変わり、世の中の動物への意識も大きく変わっていった。しかし、動物を意のままにしたいという野望はどうだろうか。

マンモスを再生せよ(感想文18-42)のような脱絶滅は「野望」の最たるものではないか。クリーンミート(感想文20-20)に登場する培養肉も「野望」と密接に関連している。

動物園は人と動物の関係性をデザインする場として機能するかもしれないが、人間は動物それ自体をもデザインしようとしてきた。

欲望や野望の発露として動物園を捉える場合、構成要素たる「動物(生きもの)」と「場」の2つの側面がある。マンモスが復活したら動物園で展示するだろうし、培養肉が主流になればウシやブタが珍重され、展示されるようになるかも知れない。

人間は動物を飼育し、育種し、繁殖させ、間引きし、展示し、観察し、保護し、管理し、捕獲し、運搬し、売買し、駆除し、選び、殺生し、食べ、愛する。勝手なものだ。
生物の多様性は失われつつあるが、種の価値は換算できない(感想文20-44:絶滅できない動物たち参照)。文化圏でも対応が異なる。イルカ(感想文16-04:イルカ漁は残酷か参照)では、双方がひどく感情的になり、問題が拗れてしまっている。

動物園は私たちと動物の関わり方の写し鏡であるとともに、自然との関わりの希薄化によって希求された装置でもある。

関係性をデザインする場である動物園は、人間の野望と不可分であるが、最近の展示方法は好奇心を刺激すると同時に、人間のダークサイドにある本性を巧妙に覆い隠そうとしているように思える。野生を再現したかのような環境で幸せそうに生息する管理下にある動物は、果たして「本物」なのか、「偽物」なのか、あるいは本物以上の本物(ハイパーリアリティ)なのだろうか。

うーむ。一生のうちにマダガスカルで本物を見てみたいなぁ。

感想文16-04:イルカ漁は残酷か

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※2016年3月2日のYahoo!ブログを再掲

 

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6年近く前に読んだ本世界クジラ戦争(感想文10-34)では、外交問題としての捕鯨について書かれていた。そこで、『日本のイルカ漁が残酷だとして映画化される』という話があったが、それが『ザ・コーヴ』(The Cove)で、ウィキペディアによると『2009年に公開されたアメリカ合衆国ドキュメンタリー映画。監督はルイ・シホヨス。和歌山県太地町で行われているイルカ追い込み漁を描いている。コーヴ(cove)は入り江の意。PG-12指定。』とのこと。映像の残酷さから年齢制限がついた映画だ。

日本の捕鯨が非難され、今度はイルカ漁が非難される(マグロ漁も非難されている)。

なぜそこまで躍起になってクジラやイルカを保護しようとするのか、なぜシー・シェパードのように暴力行為によって自然保護を訴えるのか、多くの日本人は理解できない。

他方で、同じ日本人でありながら、日常的にクジラやイルカを食べてはいないので、そこまでクジラやイルカ漁にこだわらなければならないのかも、多くの日本人は理解できない。たいして馴染みのない食文化や歴史が、国際的な非難を無視してまで推し進める理由になるのかも分からない。

商業捕鯨とイルカ追い込み漁は、理解できない、を通り越して、理解したくないにまでこじれにこじれてしまっている。そういう中で本書は、イルカ追い込み漁をテーマにして、丁寧にその歴史的背景をひも解き、現状を整理し、新しい視座を与えてくれている。気になる箇所を挙げておこう。

この町(和歌山県東牟婁郡太地町)では、毎年1,000頭ほどのイルカが捕えられ殺されている(中略)例えば、2013年、和歌山県ではバンドウイルカなど4種類のイルカ992頭、イルカより大型になるゴンドウ3種435頭、計1,427頭が捕獲され、水族館に売られた172頭をのぞく全頭が食肉として屠殺されたが、その約9割が和歌山県太地町における捕鯨業の結果である。

ここでのポイントは、イルカが1,000頭以上も捕えられ殺されているということではなく、172頭も水族館に売られたということだ。イルカは食用というだけでなく、展示用としても重宝されている。そして、生きたまま捕まえるためには、追い込み漁という高度な漁法が活用されている。

多くの人がイルカと聞いて思い浮かべる、鼻先が伸びてかわいい笑顔を浮かべている(ように見える)愛らしいバンドウイルカなどのイルカが日本の沿岸捕鯨で捕獲される割合は10%に満たないが、しかしそのほとんどすべてが和歌山県で、しかもその大部分が、屠殺の現場が陸から見える太地町の追い込み漁で殺されている。

追い込み漁は生きたイルカを捕獲するのに必要な漁法なのだが、それ以外の食用とするイルカへの屠殺方法は、凄惨に映るのだが、その状況が陸から見えてしまう。要するに沖合で捕まえて殺してしまえば、目立たないのだけれど、入江に追い込んで、屠殺して血の海になるのは、惨たらしくショッキングだ。

イルカが他の動物に比べて賢いとか、可愛いイルカを殺すなんて許せないとか、そういう次元の話ではなく、動物から大量に出る血が惨くて酷いという極めてプリミティブな忌避感がある。見えなければ、映像として全世界に出まわらなければ、追い込み漁への批判はこれほどまで大きくならなかっただろう。

傲慢不遜な彼らに対する反発から、私たちのなかからイルカ漁について虚心坦懐に考えようとする機運が失われてしまったこともまた事実である。

追い込み漁の映像を見ると、本書の題名の疑問である「イルカ追い込み漁が残酷であるか」と問われれば、「残酷である」と答える人がほとんどだろう。

しかし、いくら残酷であったとしても、漁民やその町に暮らす人たちに危害を与えたり、プライバシーを侵害するようなことがあると、素直に聞き入れることが難しくなる。

ケイトらの行動の背景にアメリカ的覇権主義があるとするなら、この反論の底流にあるのは、グローバリズムとは対極にあるローカリズムであり狭量な島国根性である。(中略)外国人運動家の主張に対してアメリカ的覇権主義や人種差別的感情が根底にあると決めつけ、イルカの殺処分について動物福祉的・道徳的な問題の存在を一切認めようとしない日本側。

「惨いイルカ漁はやめろ」というグローバリズムと「よその国の漁法に口を出すな」というローカリズム。イルカ漁に限らず、日本に限らず、様々な問題でグローバリズムローカリズムは衝突している。追い込み漁が国際的に追い込まれていき、結果的に2015年5月に追い込み漁で捕らえたイルカを飼育するのは倫理規範違反という世界動物園水族館協会(WAZA)の決定に日本動物園水族館協会(JAZA)は従うことになった。だが、2015年9月に太地町くじらの博物館は、JAZAを退会している。

水族館は商業主義的な傾向が強いのも動物園との大きな違いだ。 

考えてみると都内に水族館は、結構たくさんある。全国にも大きな水族館が新しくつくられている。というのも『アクリル水槽と人工海水の開発という技術的なブレイクスルー』があり、新規参入がたやすくなったという背景がある。

しかし、動物園とは異なり、展示する動物を繁殖して、増やすことはあまり進んでいない。『水族館は総体としてはいまだに海洋資源を消費している。』というとおり、イルカは追い込み漁による入手に頼っているというのが現状だ。

水族館でイルカショーを見ても、このイルカたちがどこでどのように捕まえられ、どうやって運ばれてきたかは知らない。追い込み漁は、生きたままイルカを捕獲しようとした多くの人たちが懸命に生み出した漁法だ。

動物により高度な福祉を与えようという動きはグローバルなもので、解決できない矛盾と滑稽さを含みながらも、決して止まることのない大きな潮流なのだ。

潮流は変わってしまっている。クジラ、クロマグロ、ウナギが保護の対象となっている。そして、今やイルカが追い込み漁で捕れないほど頭数が減ってきている。動物への福祉という観点からイルカの保護が求められてきたが、今では海洋資源の管理という観点も加わりつつある。

イルカ漁の歴史、水族館とイルカショー、ビジネスとしての水族館、追い込み漁とイルカ生体捕獲。捕まえて食べるというシンプルな関係性だけでない、人とイルカの関わり方について、日本人である私たちは丁寧に考えていく必要があるだろう。

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(感想文の感想など)

www.sankei.com

2018年4月4日の産経新聞によると、太地町くじらの博物館を含め、新江ノ島水族館、しのもせき水族館「海響館」、京急油壺マリンパークなどの6施設がJAZAを脱退している。

イルカの繁殖の技術的な障壁が脱退させるインセンティブになっているが、日本国がIWCを脱退したので、捕鯨文化とバッティングしているJAZAの方針になぜ従わないといけないのかと主張できてしまう。

記事検索したところ、最近は問題が拗れすぎてメディアがあまり取り上げない話題になっているようだ。

感想文10-34:世界クジラ戦争

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※2010年5月13日のYahoo!ブログを再掲

 

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著者の小松さんは、日本のクジラ外交では非常に有名な方。ずいぶん前に「くじら紛争の真実」という本を読んで、クジラの問題の歪さを知った。

そして、気付けば、日本が非難されるのはクジラだけでなくなっているし、その非難の程度も大きくなっている。

シー・シェパードが日本の調査捕鯨を荒っぽい方法で妨害する。

地中海のクロマグロ絶滅危惧種となり、その商業取引が禁止されそうになる。

日本のイルカ漁が残酷だとして映画化される。

よその国の食文化にとやかく文句をいうことについて、そりゃあまあ山ほど日本側としては言いたいことがあるんだけれど、外交になるとその駆け引きが難しい。

理屈や正論が通じない世界もある。IWC(International Whaling Commission:国際捕鯨委員会)がそのひとつ。交渉には様々なやり方があり、実際に交渉の表舞台に立ってきた著者ならではの実践に裏打ちされたノウハウが詰まっている。

タフな外交をこなせるほどの人は、往々にして自己主張が激しく、さいごには属する組織から爪弾きにされてしまう。国家の罠の著者でもある佐藤優さんを思い出す。著者もご多分に漏れず水産庁で憂き目にあい、辞めている。こういうところが、いかにも日本の役所。こういった事例が、この哀れな組織に有能な人材が流入するのを間接的に妨げている。

さて、本書では、クジラ外交以外にも、リーダーシップ論を展開しているが、まぁオマケみたいなものだろう。(元)役人が、リーダーシップ論や世代論やエリート論を語るのは、悪い癖に思える。自らの有能さをひけらかしたいからという自意識の現れに見えてしまう。

役人は悲しいことに国民からは感謝されない。公僕でありながらも、公から感謝というフィードバックはほとんどない。そのため、どこかでアピールする場を欲しているように思えるのだ。

さいごに、印象的だったのが、日本の調査捕鯨船の老朽化の話だ。せっかく捕獲したクジラを冷凍する能力が低いので、市場に出まわっても、味が悪くなってしまっている。
個人的に知り合いのクジラ研究者は、ミンククジラは美味しくないと言っていたことを思い出したけれど、もしかしたら、クジラの種類の問題ではなく、冷凍の段階で失敗しているからかもしれない。

スーパーでたまに赤い身のクジラが売られているところをみる。当然、美味しくないと売れない。貴重なタンパク源だとしても、牛肉や豚肉や鶏肉や鮮魚類と争って、カゴに入れられ、レジに運ばれるには、感傷的なインセンティブでなく、完全に味でライバルたちと渡り合えないといけないだろう。

クジラに臭みがあり、調理に手間をとるのなら、消費者は選択しない。そういう点からまず解決して欲しい。

考えてみれば、ずいぶん長い間、クジラを食していない。小学校2年生までは給食で、サイコロ状の鯨肉と野菜がしょうが醤油で炊かれた料理が提供されていた。それ以降、めったに食べる機会のない食品になってしまっている。

商業捕鯨が禁止されずいぶん長い時間が過ぎた。クジラを食べられないことにもう国民は慣れてしまったし、関心も薄いだろう。シー・シェパードの登場で、捕鯨に国民の関心が向くようになっているのは、皮肉なものだ。

クジラをどうしても食べたいと思う人たちはそうは多くないだろう。クジラ外交は、新たな岐路に立たされている。

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(感想文の感想など)

日本は2019年6月30日をもってIWCを脱退し、大型鯨類を対象とした捕鯨業を再開している(水産庁HP参照)。

確かに近所のスーパーで鯨肉のお刺身が売られている。商業捕鯨が再開したためだろうか。今度、買ってみるかな。

感想文21-10:禍いの科学

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本書の副題は、「正義が愚行に変わるとき」であり、原題はPandora's Lab: Seven Stories of Science Gone Wrongである。

本書では科学的正しさが大きな間違いを引越してしまった7つの事例を紹介している。これまで私の感想文との重複もあり、より詳しく知りたい方は、そちらをお読みになったほうが良いだろう。

1. アヘン:ハッパノミクス(感想文18-11)

2. マーガリン:関連する感想文なし
3. 化学肥料:毒ガス開発の父ハーバー(感想文14-14)
4. 優生学未熟児を陳列した男(感想文21-03)
5. ロボトミーロボトミスト(感想文09-64)
6. DDTの禁止:人類50万年の闘い マラリア全史(感想文17-34)
7. 著名な科学者の過ち:白い航跡(感想文16-40)

この感想文では、2.マーガリンと7.著名な科学者の過ちを取り上げたい。

心臓病の問題を解決するための道筋ははっきりしたかのように思われた。飽和脂肪酸不飽和脂肪酸に置き換えれば、問題は解決するはずだ。米国では、バターの代わりにマーガリンを使えと教えられるようになったが、あいにくなことにマーガリンには誰もが想像していなかったはるかに危険な種類の脂肪、トランス脂肪酸が含まれていた。(p.57)

本書で紹介されていたバターvsマーガリンの歴史は、心臓病のリスク要因として飽和脂肪酸が槍玉に上がり、バターではなくマーガリンなら大丈夫と言われたが、よくよく調べてみるとマーガリンに含まれる不飽和脂肪酸のうちトランス脂肪酸が真の心臓病のリスク要因だとわかり、急激にマーガリンの消費が減った、となる。

確かに、マーガリンは食べてはいけない食品の筆頭にされていたと、私も記憶している。ところがだ、そこで話は終わっていない。本書の続きを書いておきたい。

メーカーの努力により、今やマーガリンに含まれるトランス脂肪酸は、バターの約半分にまで低減されている。よって、トランス脂肪酸だけを指標にすると、マーガリンのほうが健康的だと言える。今となってはマーガリンは食べてはいけない食品ではないのだ。こういう知識のアップデートは大事だね。

続いて、7.著名な科学者の過ちについて。

ライナス・ポーリングが残したもののなかには、いいものもあれば、悪いものもある。彼は初めて量子力学と化学を融合させ、赤狩りや核拡散に抵抗した数少ない人間の一人だった。しかし、その後の人生でライナス・ポーリングは年間320億ドルの売上を生み出すビタミン・サプリメント業界の生みの親となり、地方の市に出没する押し売りや、100年前のいんちき薬売りと変わらなくなってしまった。(p.235)

ウィキペディアによるとライナス・カール・ポーリング(1901-1994 Linus Carl Pauling)は、アメリカ合衆国量子化学者、生化学者であり、量子力学を化学に応用した先駆者であり、化学結合の本性を記述した業績により1954年にノーベル化学賞を受賞している。

同い年生まれは、佐藤栄作ジャック・ラカン昭和天皇スカルノルイ・アームストロング、アーネスト・ローレンス、ウォルト・ディズニー

ポーリング博士のことは本書で初めて知ったのだが、その晩節の汚しっぷりから白い航跡(感想文16-40)の主人公である高木兼寛を想起させる。偉大な科学者が、晩節を汚すばかりか、誤った学説に基づいて広く社会に損益をもたらす。偉人を誰も否定できず、歯止めが効かず、老害化する。

ポーリングは人々にがんや心臓疾患のリスクを高めるだけでしかない大量のビタミンとサプリメントの摂取を勧め、デュースバーグは間接的にだが南アフリカで数十万人をエイズで死亡させ、モンタニエは治療効果が見込めず、有害性を持つ可能性すらある薬を提供して、子供たちをなんとかしたいという親たちの切なる願いを利用した。(p.243)

ほかの偉大な科学者による誤った主張の事例として、ピーター・デュースバーグ(1936- Peter H. Duesberg)によるエイズ否認主義(HIVがAIDSの原因ではない説)、ノーベル賞受賞者であるリュック・モンタニエ(1932- Luc Antoine Montagnier)は自閉症に抗生剤が有効とする説を唱え、多くの自閉症児に抗生剤が誤用された。

私は、科学ほど世界を記述するのに適した方法はないと考えているし、科学の発展が社会の健全性に重要な役割を果たすと信じている。非常に悩ましいのは、多くの人々は科学ではなく、科学者の人となりや科学者が語る言説を信じるのであり、科学者の語りが科学的であると無批判に信じ込んでしまう。それも致し方ない。科学者が科学的ではないことを語るとは思いもしないだろう。

他方で、読めないほど膨大な科学論文が発表され、短期的にその価値を判断できないし、また真偽のほどもわからない。低レベルな論文もあれば、高度過ぎてごく限られた同業者しか理解できない場合もある。

本書は科学に内在する問題点を7つの事例を用いて赤裸々に暴いているが、本書が科学そのものを毀損しているわけではない。科学ほど有効な方法は存在しない事実を前提にして、さらに一歩進んで科学者への無批判な態度や科学が抱える課題に意識を向ける重要性を示している。

科学が思考停止の装置として機能しないよう、私たちは気をつけなければならない。でも、繰り返すけれど、科学を批判しているのではない。

感想文64:ロボトミスト 3400回ロボトミー手術を行った医師の栄光と失墜

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※2009年10月14日のYahoo!ブログを再掲

 

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タイトル通り、3400回ものロボトミーを行った医師であるウォルター・フリーマン(Walter Freeman 1895~1972年)の生涯を丁寧過ぎるほど描写している。

何といっても長い。400ページ以上にわたって、事細かに1人の医師の生涯をこれでもかと丹念に書き上げている。

信念が強く、タフで、仕事に命をかけ、アイスピック片手に黙々と仕事をこなす人物像は、読後しばらく強烈な印象を残した。

でも、本書を読めば、生涯を追体験できるかというとそうでもない。フリーマンの仕事に対する姿勢、ある種の思い込み、こだわり、合理的だが過激な手術の手法、強いプライドといったことが、読み進めるうちに理解できるようになっていくと同時に、多くの読者は自分とはあまりにかけ離れたフリーマンに感情移入できないということが分かるだろう。

ロボトミーについて、ちょっと整理する。

ロボトミーとは、脳を切ったり、その一部を抜き取ったりすることによる、精神疾患の治療方法のこと。現在はその治療方法に効果がない、どころか重大な副作用があるということで、行われなくなっている。

このように脳に外科的な手術を行って、精神疾患を治療する分野を精神外科という。

ロボトミーの簡単な歴史は、

1953年に、ポルトガル神経科医エガス・モニスが、初めてヒトにおいて前頭葉切裁術(前頭葉を脳のその他の部分から切り離す手術)を施術。

1949年に、モニスは、ノーベル生理学・医学賞を受賞。

1950年代半ばから、抗精神病薬が販売され、ロボトミーは廃れていく。

本書を読むと、フリーマンは、自分にも他人にも厳しく、頑固で、現場で懸命に働く医師なので、さぞかし厳めしい風貌をしていると思っていた。ところが実際の顔写真を見ると、何だかインテリの学者っぽい感じに見える。本書は長いけれど、フリーマンのお姿なんかは全く挿入されていないので、何だか怖い想像だけがふくらんでいってしまう。だから、この写真を見て、少し驚いた。

フリーマンは、独自に経眼窩術式というロボトミーを開発した。書くのも嫌だけれど、目の上からアイスピックの様な器具を差し込み、脳を切るという手法(本の表紙を見ればそれとなく分かることでしょう)。フリーマンにとっては、簡単だったので、これによって多くの精神疾患を治療(しようと)した。

フリーマンの生涯は決して幸福ではなかったように思える。増え続ける精神疾患患者の処遇に困る病院から、フリーマンは歓迎され、多くの患者に手術を施し、退院させることに成功した。短い期間ながらも栄光を手にし、精神外科の時代を謳歌した。

その後、抗精神病薬が開発され、ロボトミーの効果は疑問視され、激しい批判にさらされる。期待の息子をヨセミテの滝で失い、妻はアルコールに依存するようになり、大切な家族が崩壊し始める。病院を追われ、要職をはがされ、出版した本は売れず、さいごには医師の看板を下ろす。

フリーマンの栄枯盛衰は、精神医学の歴史でもある。潮流が激しく変わるその精神医療において、フリーマンは頑ななまでに持論を曲げず、ロボトミーを数多く実行した。
フリーマンが生涯で出会った人物のことも印象に残っている。

若かりし頃、フリーマンはウィーンにいた。精神外科と対立する思想の一つである、精神分析の祖であるフロイトと時期は重なっていたが、どうも出会ってはなかったらしい。でも、同時期にウィーンにいたマラリア療法で後にノーベル賞を受賞するヤウレックとは出会っていたらしい。

また、日本のロボトミストである広瀬貞雄との親交が厚かった。

そして、モニスを心から尊敬し、我が道を貫いた。

本書では、精神外科が再び登場しつつある現状にも言及している。脳を直接刺激するDBS(脳深部刺激)は、日本で保険収載されているちゃんとした精神外科医療だ。

ロボトミーの医学的な効果やその危険性は、きちんと総括されてはいない。ロボトミーと聞くだけで悪しき医療の代表例になってしまっているけれど、本当のところはよく分からない。

今後、根拠のある精神外科が成立していくためにも、ロボトミーについて現在の医学の視点で見直す必要があるのかもしれない。

まあ、少なくともロボトミーの事例だけで、精神外科がずっと否定されるのは間違っているだろうし、そういう時代は終わったのだとも思う。

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(感想文の感想など)

脳深部刺激については私の情報がアップデートされていない。関連書物を今度、読んでみたい。

感想文21-09:水道、再び公営化!

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2018年12月に水道法が改正され、自治体が水道事業の運営権を民間企業に売却するコンセッション方式を導入しやすくするという報道がなされた。

法案成立時はニュースをチラ見した記憶はあるが、その後、後追い的な報道は少なく、ネットでも詳細な情報は限定的だ。民営化への賛否は日本の水道事業の現状とその未来について考察した結果というよりも、政治的立場の違いに起因しており、注意して論考を読み進める必要がある。

本書は、明確に民営化に反対の立場をとっており、ヨーロッパでの民営化から再公営化の揺れ戻しの実情を現地のNGOで働く著者が丁寧に描いている。

また、本書は「人新世」の資本論(感想文21-06)で示された〈コモン〉の考え方が示されている。主張を端的にまとめれば、水は共有財だから、自分たちの手でコントロールする仕組みや制度をつくりましょうとなる。

水は人々の権利だ。誰もが生きていくために必要とする水について考えることは、民主主義のもっとも重要なポイントだと私は考えている。(p.17)

改めて、なぜ水の民営化が日本であまり話題にならず(おそらく本書の売れ行きも芳しくないのではないかと心配する)、社会的な課題だと考えられていないか、その理由を考えてみたい。

極めて乱暴に言えば、多くの日本人(より正確に言えば情報を発信するメディア)は、民主主義について考える経験がな乏しく、それゆえ苦手だからだ、と私は考える。

水は権利、という言い方がある。国連もそう規定している。それをもう一歩進めて考えれば、水から民主主義が生まれるとも言えるのではないか。私の周囲で水の権利運動をしている仲間たちのあいだでは共有されている意識だ。(p.33)

なるほど。水から民主主義が生まれる。利害が一致しない水の問題について市民がきちんと話し合い、考え、決め、また見直す、そんな経験の積み重ねから民主主義が生まれ、社会が成熟していく。

本書を読むまで全く無知だったが、水道事業の主体のほとんどは市町村だ。それゆえ、総務省の資料によると、水道料金(20立方米/月)は最低853円(兵庫県赤穂市)~6,841円(北海道夕張市)と約8倍の差がある、らしい。

節水化技術や人口減少に伴い水需要が減る反面、水道管などの老朽化対策にコストがかかる。その打開策として期待されているのが、民営化や官民連携(Public Private Partnership)とする政府の理路をそのまま鵜呑みにして良いのだろうか。

水を「商品」として扱うと、人権が損なわれる可能性が高まる。すべての人が生きるために例外なく必要な水を〈コモン〉として扱うのか、利益をあげることを許す経済財として扱うのか。水に、それぞれの社会の考えや選択が凝縮されているのだ。(p.92)

とあるように、水は単なる財ではなく、共有財〈コモン〉として扱い、だからこそ社会が選ばないといけない。何より興味深いのは、市町村が主体であるからこそ、国単位ではなく、より小さな行政単位で考える課題になっている。

私は小さな草の根の変化の積み重ねなしに、国な国際レベルの大きな変化を望む近道はないと思っている。地域から民主主義の練習と実践の運動を重ね、地域を超えて連帯することで力をつけていきたい。再公営化、ミュニシパリズム、フィアレス・シティ運動は、これからも成長していくだろう。(p.193)

ヨーロッパが成熟した社会であるとする主張には私は無条件に賛同しないが、もちろん学ぶべき点はたくさんある。特に会社組織以外での話し合いや意思決定の場は貴重であり、会社勤めのサラリーマンも経験は少ないだろう。

戦略的交渉入門(感想文17-59)にあるように互いに協力し、懸命な合意形成に至れるかが鍵となる。そして舞台は地方自治体となる。

私たちが生きていくために欠かせない水。国と企業のどちらが管理主体になるかとする二項対立でなく、ユーザーである私たちがいかに自ら管理するかについて、水から学ぶ機会であると言える(お後がよろしいようで)。

感想文21-07:ゴースト

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下町ロケット(感想文11-59)ガウディ計画(感想文17-04)の続編に当たる本書。

図書館をブラブラしていたら見つけて、さらにその続編に当たるヤタガラスと一緒に楽しく読ませてもらった。

下町ロケットのドラマを見ていたので、佃航平は阿部寛さんで、山崎光彦は安田顕さんで再生される。ただ、ゴーストもヤタガラスもドラマ化していたらしいが、そちらは見てないし、ドラマの存在も知らなかった。ちょっと見たかったと後悔。

池井戸潤さんの小説を読むと改めて働くことについて考えさせられる

仕事で精一杯がんばっても報われないことは多い。雇用者たる組織は被雇用者である私をいつもいつまでも庇護してくれるわけではない。経営者の判断が、特定の労働者にとって有利になれば不利にも働く。昨今のコロナ禍で損した人もいれば得した人もいるだろう。

激しく流動するビジネスの世界で翻弄されるのは、組織もとより、個人は言わずもがなだ。働くはしがみつくにも、漕ぎ出すにも、流されるにも似ている。些細な判断ミスが命取りになるし、タイミングが早まっても遅れてしまっても致命傷になりうる。

右肩上がりに成長する時代はとうに終わり、組織を自らに同一視できない。生産性を上げろと檄が飛び、ワークライフバランスだとブレーキがかかる。

佃製作所経理部長である殿村のセリフを引用しよう。

「意に沿わない仕事を命じられ、理不尽に罵られ、嫌われて、疎ましがられても、やめることのできないサラリーマンだ。経済的な安定と引き替えに、心の安定や人生の価値を犠牲にして戦ってるんだよ。オレはそうやって生きてきた。ひたすら我慢して生きてきた。でもな、子どもも大きくなってきた。もう我儘のひとつぐらい言っていいと思う」(p.245)

我慢と我儘の字面が似ていることに初めて気づいた。殿村は本作で大きな決断をするが、私もいつかどこかで大きな決断に迫られるかもしれない。

不惑の40歳を過ぎたが、惑ってばかりだ。しかし、自分の正しさを信じ疑わなくなるのは、老いの証拠だ。惑い、迷い、躊躇い、悩み、そしてクリアでない言説を、おずおずと控えめのトーンで語るような人間でいたい。それはそれで迷惑な人間かもしれないが。