
著者である繁延あづささんは、カメラマン兼たまご屋兼食肉処理の従業員だ。と書いても何のことか分からないだろう。
繁延さんは、家庭の事情で養鶏業を始めるのだが、卵を産めなくなった雌鶏も肉として売るために、食鳥処理衛生管理者資格が必須だということがわかり、さらに、その資格を得るためには食鳥処理施設で3年間の勤務実績が求められる。
もともとはカメラマンだった繁延さんは、鶏をさばいて肉とし売る業をするために、食鳥処理場で働き始める。本書は養鶏業と食鳥処理場での異なる2つの勤務、けれど、鶏を扱うという意味では類似した仕事の日々が綴られている。まさに鶏まみれな一冊である。
「鶏づくし」ではなく、「塗(まみ)れて」いる。養鶏場で生体の鶏につつかれ、処理場では鶏の血や汚物に塗れる。鶏といえば、コケコッコーと勇ましく鳴く姿と、スーパーマーケットでパック詰めされ陳列している淡いピンクの鶏肉としか、これまでの人生でほとんど接点がない(あとは調理されたから揚げとか)。
生きた動物である鶏から食糧である鶏肉になるまでの間のリアルな工程を私たちの多くは知らない。一方で、生きた鶏から卵が得られるのは何となくイメージできている。しかし、その鶏の二面性、肉と卵を混同せずに理解できているかというと怪しい。
私自身、農学部の畜産関係の学科出身で、鶏の解剖をしたことがある。鳴き叫ぶ鶏を複数人で押さえつけ、首を切り、解体する。ニワトリゲノムの研究をしていたので、分子生物学はまじめに勉強したが、鶏の巧妙な体の構造について解剖学を通じてもっとちゃんと学んでおけば良かったと今はそう思う。
飼い喰い 三匹の豚とわたし(14-33)を思い出す。ドキュメンタリーとして豚を3匹飼い、屠畜して、食べる。体を張った実験のようだったが、本書は違う。家族の生活が鶏にかかっている。家族が生きていくために養鶏を始め、鶏を捌いて肉を売るために、同時に食鳥処理場で働く。生きていくために鶏にまみれる。鶏にまみれて生きていく。
ニワトリが肉になるようすなんて誰も見たくないし、人が見たくもない仕事を障害者がやっている姿はさらに見たくないだろう。あれ?ふと思い至る。私が撮ってきたのは、"見たい"と"見たくない"に選り分けられたうえで、人が見たい障害者の姿だったのか?見えていなかったところが目に入ってくると、いつも思う。私は何も知らない。(143)
食鳥処理場では高齢者、障害者、外国人が働いている。食鳥処理場のリアルを知るのは難しい。みんな見たいものしか見ないからだ。見たくないものを誰も映そうとも描こうともしない。
付加価値がつかない野菜、付加価値がつかない鶏肉、それら最低賃金はどこか似ていないだろうか。最低賃金って、つまり付加価値ゼロの労働ってこと。こんなに大変な仕事だと知られることもなく、知ろうともされないまま、低賃金に据え置かれていないだろうか?(262)
食鳥処理場の仕事はとても大変。凄まじいスピードで命を奪い、食糧へ変えていく。首を切り、羽をむしり、傷つけないように内臓を取り出し腑分けし、肉を部位に切り分ける。汗だくになって、血液、体液、糞尿にまみれ、処理していく。私たちのエネルギー源やタンパク質源の基盤となる重要な仕事だ。
しかし、賃金は低い。しかも最低賃金で働いている人がいる。なるべく給与を低くしたい雇用者と、最低賃金でも良いから働きたい労働者の思惑がマッチしてしまっている。
私の「なぜ低賃金なのか?」という問いに、穢れや被差別民の仕事だと言う人もいた。けれど、そうした答えにはまったく納得できなかった。だって、"穢れ"が何かを捉えないままに差別と結びつけるなんておかしい。それじゃあ、差別したいがために"穢れ"観念をでっちあげているようなもの。"穢れ"を、弱い立場をつくりだすために発明された差別と混同してもらっては困る。(367)
穢れがあるから賃金が低いというのは確かに論理的にも心情的にも納得しがたい。穢れという概念が差別と低賃金を生み出す装置として機能してしまっている。労働市場の需要と供給が機能していない。食鳥処理場の働き手が足りないのであれば、賃金を上げるのが一般的な方策だろう。
"食べ物"は"生き物"である必要はないのかもしれない。世の中がそうなっていくのもわからなくはない。ただ"食べ物"が"生き物"でなくなったら、生きることが大きく変わってしまう気がしてならない。それが何かを名指すことは、いまの私にはできないけれど、その予感があるから私はこんなことをしているのかと思う。(424)
クリーンミート 培養肉が世界を変える(20-20)のような、そう遠くない未来に培養肉がエネルギー源・タンパク質源になるかもしれない。焼肉やステーキを食べることはいつしか野蛮な行為になるのかも知れない。
しかし、食肉処理施設で働いていた人たちを遡って断罪するようなことはあってはならない。今ですら穢れの誹りを受け、自らの手を汚さずに肉を食べていることを当然のように思っている。あるいは、過激なヴィーガンが肉食を否定するキャンペーンも、安全な場所からただ動物たちがかわいそうと言っているに過ぎず、食肉処理施設で働いている人たちの環境改善に心を砕くことはない。
本書は家族の苦労、子供たちの成長、食肉処理施設で働いている人たちの実像、そして無数の鶏たちが描かれている。これから鶏肉を食べるときに少しでも思いを馳せてみたい。この鶏を処理した人がいるということ、そしてその人たちにも生活があるのだということを。





