40代ロスジェネの明るいブログ

2020年1月11日からリスタート

感想文22-26:政治学者、PTA会長になる

息子が2人いて東京都23区内(といっても高層ビルもない長閑な土地柄だが)の公立小学校にお世話になり、私自身はPTAに全く関わっていなかった。

妻は長男が6年生の時に卒対(=卒業対策委員会)メンバーとなり、その年はPTAで苦労していたのを耳にしている。巡り巡って私は先生たちへの謝恩会(コロナによって大幅にイベントは縮小)の司会の役を果たした。

マスクをつけて先生方への感謝の合唱は物理的に無理があり、そのあとの先生たちによる感謝の合唱も同じくマスクをつけて歌うのはやっぱり無理があって、仕方ないから着席して聞いている卒業生たちに「スタンダーップ!みんなで手拍子して、歌おう!」と無理やり巻き込み、「今、会場が一つになりました!」と勝手に宣言して、力技で場を盛り上げた感を演出し、準備した人も、先生方も、主役である卒業生たちにとっても、曲がりなりにもコロナで大変だけれど式典はできて良かったねという雰囲気の醸成にはギリギリ及第点を送れるくらいにはした。コロナで本当に社会全体が大変になるのはこれからだとは誰もその時点で思っていなかったのだけれど。

さて、妻がPTA活動に関わったこの年度に起きたこと、ただしこれは妻からの情報だけなので一面的ではあるが、さくっとまとめておこう。

  • 専業主婦とフルタイムワーカー母との埋められないパーセプション・ギャップ
  • 地元出身母と非地元出身母とのパーセプション・ギャップ
  • 卒アル写真の地元1社独占状態と著作権問題

他にもあったかもしれないが、妻から聞いた中で印象的なのはこの3つだ。最も大きかったのは、専業主婦vsキャリアウーマンの埋められない隔たりだ。都内の小学校の母親で働いている人の方がマジョリティになりつつあるが、PTA活動に従事できるのは専業主婦の方が多い。

しかし、こと卒対は妻とその友人たちのキャリアウーマンたちが参画したことがそもそもの発端だ。もちろん働いているお母さんたちがPTA活動に参加するのは良いことだが、専業主婦たちとはこれまで磨いてきたスキルが違い過ぎた。ノートPCを持ち込み、議事次第を作り、議事メモを作り、次のアクションを明確にする。「アジェンダ」、「工数」、「プライオリティ」といった(おそらく)専業主婦の方たちには耳慣れない用語を使う。足りない議論はLINEでやり取りするが、その議論は速く、理路整然とした論を立て、さらには不満を持つ者に対して次善策や妥協点の提案まで行う。異なる価値観を有する集団で議論し、意思決定を行い、PDCAサイクルを回す、みたいなことに特化した訓練を受けてきた働く女性たちにきっと専業主婦はドン引きしたことだろう。

当初は専業主婦の方たちは、紅茶をたしなみがながら、世間話と夫への愚痴を織り交ぜながら、今年の卒業の記念式典はどうしましょうかとか、先生方への花束はどうしましょうかとか、来賓への軽食はどうしましょうかといったお話をして、また世間話と夫への愚痴とちょっとした自慢話に行きつ戻りつ、ああもうこんな時間ね、また今度集まってお話ししましょう、的なイメージだったはず。これまでのPTA活動はこういった憩いの場も兼ねていたのだ。

ところが、バリバリ働く母親たちは、何を誰がいつまでにやらないといけないかの全体像を示し、不要なもの、世間話や自慢話や愚痴だけでなく、先生方への花束や来賓への軽食に至るまで、これまで所与のものとして扱ってきたことすべてをゼロベースで見直す改革を行おうとしたのだ。「本当にこれって必要ですか?」という無邪気で乱暴な疑問で。これは疑問ではなく、恫喝やに受け止められたかもしれない。

すっかり自分の話ばかりになってしまったが、当時、私は妻の話を聞いて、専業主婦の方たちは暇だろうし、時は金なりの認識が乏しいし、費用対効果も考えないし、PCスキルも会議開催スキルも持ち合わせていないと思っていた。妻から相談を受けても、妻の肩をもってばかりで、専業主婦の方たちに共感もしていなかった。

結末を申せば、専業主婦の方は途中で卒対を一方的にお辞めになる後味の悪い結果となった。幸か不幸かゼロベースで見直した改革は、急なコロナ禍によって実現可能性の高いイベントとなり、好意的に受け止められたのは幸運でしかなかった。

当時私は専業主婦の方への気持ちを全く考えられなかったのだが、本書を読んでその認識が変わった。有能な働く母たちと無能で時代遅れの専業主婦という対立形式かつアンフェアな構図で考えていたが、そんな単純な話ではなかったのだ。

正しいマニュアルではなく、息をつける場所。PTAという、誰にも頼まれていないのになぜか存在しているものが、本当は何をしなければいけないのか?その答えはここにある。<中略>必要なのは、「僕たちが人間を維持して、取り戻し、協力し合えるための空間」の提供なのだ。(p.248)

PTAに悩むすべての人にこの本を読んで欲しい。PTAは責務ではなく、居場所なのだ。しかも立場の違う人たちがいがみ合い、マウントし、反発するのではなく、「協力する場」なのだ。これを人間性と呼ばずして何と呼ぼう。

PTAで悪しき風習のトップに躍り出るのはベルマーク運動だろう。小さなベルマークを切って、貼って、集めても数千円にしかならない。コスパの悪い活動の最たる例だと喝破する経済学者がいるかもしれない。

ところがそれ以外の機能もあるのだ。PTA活動だからと夫に説明することでその場に集まることができ、互いに家庭の愚痴を言い合える、心休まる場になっている人もいる。衝撃的だった。インターネットやSNSがある時代でも、ちょっとした愚痴をこぼし合える仲間が必要で、そうやって初めて協力し合える。

会社や組織に特化した生き方をしてきた働く母親(もちろん父親も)が、実は人間性を喪失しているのではなかろうかと思えてくるから不思議だ。

本書では、政治学者である岡田憲治さんが衝突し、苦労し、見えてきたことを丁寧に描いてくれている。

僕たちはわがままなくせに、一人では生きていけなくて、誰かと協力し合わなければならないけれど、自分の価値観に照らして、自分の頭で考えて、自分で選択して、そしてそれを心優しいけど全部は理解できない友人に向かって、よくよく考えた言葉で伝え、一人ですべてをやる苦しさから自由になって、楽しく暮らす力というもの。(p.275)

多くの人は協力し合いたいと願っている。誰かに過度に負担が押し寄せ、不公平な状況になることもあるが、それが良いことだとはほとんどの人が思っていない。協力したいけどできない事情があり、できる範囲で良いから関わりたいと思っている人がほとんどなのだ。

ネガティブに語られがちなPTAだけれど、みんなで助け合うための場として、母親の多くが働いている今だからこそ、活用できる伸びしろがある。そりゃあほとんど関わってなかった私が言うのは憚られるが、父親も協力すべきだ。経済効率重視で成り立っている会社文化を相対化し、そして協力とは何かを改めて考えるきっかけになるだろう。

私も、PTAのような取引を通じて互いの効用を最大化するゲームではない活動に参加してみたくなった。でも単身赴任中なんだよなぁ。

感想文22-25:深海学―深海底希少金属と死んだクジラの教え

海に降る(感想文15-55)以来の深海についての本。地球最後のフロンティア(未開拓地)と言われる深海だが、タイトルに「学」がついているようにアカデミックな見地から「開拓」されることと、経済的な利潤を得るために「開発」されてしまうことの違いが、本書の重要な含意となっている。

本書は美しい深海生物や深海環境のカラー写真が載っており、それを見ているだけで、なんだか不思議と幸せな気持ちにさせてくれる。同じ生物であるのに、陸上や浅い水圏に生きる生物と全く異なった見た目や生存戦略について知れば知るほど、いかに自分の生物観が狭く固定的だったかに気付かされ、知的好奇心がびしびしと刺激される。

気になった個所を引用していこう。

地球の生物圏―生物が生活に利用できる空間の容積―の95パーセント以上は深海が占める。それ以外の空間すべてを合わせても―森林や草原、川や湖、山々、砂漠、浅い沿岸地域―、容積だけみると、青い水面の下に横たわる広大な海洋には遠くおよばない。(p.24)

もともと深海には生物は棲んでいない、あるいは棲んでいるはずがないと考えられていた。日の光は届かず、水圧はあまりに強く、過酷な環境を生きられる生物などいないと考えるのはごく自然ではあった。しかし、地球の生物圏の95%を占める広大な深海は実に多様な生物が棲息しているのが分かってきた。

熱水噴出孔が見つかり、そこに生息する生き物の研究が1970年代後半から1980年代にかけて進むまで、熱水噴出孔は深い海の最大の秘密を隠し続けてきた。熱水噴出孔では、光合成のかわりに暗闇で化学合成が行われている。(p.101)

熱水噴出孔が発見された1976年から研究が進んできた。熱水噴出孔で無機物や有機物から生命が誕生したという仮説もあり、研究対象として極めて興味深い。光が届かないので光合成生物は存在しえず、高温高圧下で噴出する熱水中に溶解した化学物質に依存した複雑で豊かな生態系が成立している。

極限環境であっても棲息する微生物がいて、それを餌にする生物がいて、こうして生態系ができていく。生物の本質は化学であり、植物は光合成を経由して、実に多彩な二次代謝産物を産生する。生体内やあるいは微生物共生による化学反応が行われ、「生きる」が成立する。

海洋生物がつくる二次代謝産物は、陸上植物がつくる物質と比べるとがん細胞や病原体に対する効き目や毒性が強いものが多い。また、海洋の天然化合物には、陸上で生活するどんな生物がつくり出すものより化学的にはるかに新規性に富んだものがある。(p.166)

植物はなぜ薬を作るのか(感想文20-29)で示されていたように、植物や微生物の二次代謝産物が薬(あるいは毒)に活用されてきた。なんと、海洋の天然化合物は新規性に富んだものが多いらしい。水圧、低温、光がない、エサがないといった極限状態で生き残れるよう進化したためなのだろうか。興味深い。

深海に棲む生き物やそれらが生み出す代謝産物、希少金属、天然資源は経済的に非常に魅力的に映る。

投機的な採掘計画は、資本家による搾取という経済形態を象徴するものと言える。古くは100年の歴史を持つ植民地主義、近年は天然資源を収奪して輸出する多国籍企業の経営形態と結びついている。<中略>この経営形態の核心となる場所には、いわゆる犠牲となる区域が存在し、その区域は経済的利益という名の下に破壊を免れない。(p.217)

本書では、深海が次の犠牲となるのではないかと警鐘を鳴らす。

深海は、開放して開発することのできる、地球上に残された最後の広大な未開拓地だ。しかし、本当に開発すると、これまで数世紀にわたって続いてきた資源収奪の物語を繰り返すことになるだろう。<中略>つまり、天然資源が乏しくなり、未開拓地が新たに見つかれば利用しつくまで開発が進み、ひとつの未開拓地が開発されつくすと次の未開拓地で開発が始まり、何もなくなるまでそれが続く。(p.276)

深海には独自の生態系があり、しかも人間が長らく踏み込めなかった領域であったために、非常に長く保存されてきた。同時に最後のフロンティアであるが、その開発の様子は外からは見えにくく、管理が行き届きにくい。

小さな地球の大きな世界(感想文20-16)で示されているように、環境は確かに復元力を有しているが、閾値を超えてしまうともう二度と元には戻らないかもしれない。長く保存されてきたがゆえに、深海は思った以上に脆弱かもしれない。

植民地主義的な発想や古典的な経済学で定義された外部性に基づく「開発」あるいはもっと踏み込んで表現すれば「収奪」、それによってもたらされる「不可逆的な破壊」から深海を守る必要があるだろう。フロンティアをフロンティアとして保存し、最小限の開発に留め、維持管理する知恵が重要になってくるだろう。

感想文22-24:mRNAワクチンの衝撃

40年ちょっとの人生を振り返ると、最も大きな世界の変化は、やはり新型コロナウイルス感染症の蔓延だろう。マスクを外せなくなり、行動が制限され、感染症に怯え、働き方が変わり、そしてワクチンを接種した。

現時点で、2回摂取している。どちらもファイザー社製だ。しかし、本書の主役はメガファーマのファイザーではない。ドイツのビオンテック社であり、同社創業者のウール・シャヒン博士と妻のエズレム・テュレジ博士(共同設立者)、そしてプロジェクト・ライトスピード(光速)に携わった多くの科学者たちである。

すべての薬開発はドラマ性に富んでいる。新薬誕生(感想文08-66)医薬品とノーベル賞(感想文17-28)フィラデルフィア染色体(感想文18-46)に登場する白血病治療薬グリベックは、どれも面白い。薬開発に共通しているのは、極めて低い成功率、連続する艱難辛苦、開発者の狂気とそれに巻き込まれていく人たちの熱狂だ。

私が学生時代の20年くらい前は分子標的薬が主流で、10年くらい前は抗体医薬が大流行となり、そのあとに核酸医薬が騒がれ、遺伝子治療再生医療と免疫療法と個別化医療がない交ぜとなって、人間の健康寿命&寿命がもっと延びるかのように喧伝されて現代に至る。

そんな中、まさか猛威を振るったのが感染症。だが、人類は一方的に蹂躙されたわけでもなく、確かに多くの方は亡くなったが、約100年前のスペイン風邪ほどではない。なぜなら人類にはmRNAワクチンがあったからだ!とまとめるとドラマティックだが、あいにくまだ予断は許さない。

それでもなお、今まで注目されていなかった、どころかメディアによるネガキャンを受けやすいワクチン(感想文18-17:10万個の子宮参照)、そしてこれまでの医薬品でひのき舞台に上がったことのないmRNAが大きな恩恵となるなんて考えもしなかった。

もし―これはとてもおおきな「もし」だった―もし、mRNAを人体の適切な免疫細胞に送り届け、十分な期間にわたって安定した活動状態にキープする方法が見つかったなら、それがもたらす可能性は無限大だ。(p.42)

生物学の基礎知識セントラルドグマの解説は省略するが、不安定で壊れやすく取り扱いの難しいmRNAがワクチンになるとは驚きだ。若い頃に医学系を学んだ身で、今でも分野は違えど最先端科学に関わる仕事に従事している私でも、技術革新のスピードが速すぎてもはやついていけない。

2月にプロジェクト・ライトスピードの迷宮に組み込まれた20種のワクチン候補のなかから、4種が治験に選ばれた。5月末には、その1つが有望なことが明らかになった。そして、ウールが無症状感染の蔓延を伝える《ランセット》誌の記事を読んでからわずか6カ月後のいま、「ほぼ完璧な」ワクチン候補が現れた。(p.331)

技術革新に加えて、mRNAワクチンの偉業(異常さと言い換えても良い)は、その開発スピードだ。2020年2月にコロナが騒ぎになりかけたときから、わずか半年でワクチン候補が絞り込まれている。同時並行で治験が行われ、12月には各国の規制当局から緊急承認された。

詳細は本書を読んでいただきたいが、単なる開発物語ではない。当時ビオンテック社は無名で技術を持ってはいたが、売り上げの出るような医薬品を世に送り出した成功体験はなかった。また感染症は専門ではなく、主要なターゲットはがんだった。

新型コロナの大流行を予見し、mRNAワクチン開発にピヴォットし、プロジェクトを立ち上げ、資金を調達し、必要な技術や会社を買い、人材を雇い入れ、ファイザーと提携し、規制当局と交渉を繰り広げる。ハイスピードで開発し、綱渡りの意思決定を連続で行い、時にトランプに邪魔される。

この時期にビオンテックで働いた人は楽しかっただろうか、苦しかっただろうか、それとも振り返る余裕など全くなかっただろうか。

本書はこれまでにない前代未聞の医薬品開発を描いている。そして私を含めて多くの人はその光速開発の経緯を知ることなく、mRNAワクチンを体内に注入されている。私は注入された後に開発の経緯を知り、その新規性とスピード感に仰天している。

数カ月のうちに複数の国で数万人を対象とした巨大規模の第三相試験を実施し、自社のワクチン候補に際立った効力と安全性があることを規制当局にしめさなければならない。それだけの規模とスピードをもって世界でワクチン試験を行える製造業者は5社しかなかった。メルク、ジョンソン・エンド・ジョンソン、サノフィ、グラクソ・スミスクライン(GSK)、ファイザーである。(p.215)

さて世界的なワクチン開発競争に日本はほとんど関わっていない。国際競争で戦える5社しかなく、日本の製薬企業はレースに参戦すらできない。さらにmRNAワクチンと関係する技術シーズや特許でも日本人も日本の大学や研究機関や製薬企業は登場しない。唯一、夫妻が起業したもう1社のガニメド社を日本のアステラス製薬が買収したことだけだ。日本の競争力低下を改めて思い知らされる。

なぜメガファーマではないビオンテック社がmRNAワクチンを世界に先駆けて開発することができたのだろうか。

ウールやエズレムの世界観によれば、この歴史的取り組みに携わった人々がこれほど多様なのも、何ら驚くべきことではない。二人は科学においても人生においても、いいアイデアならその出自を問わず採用することを信条としてきた。<中略>だが、そこから社会が得られる教訓があるとすれば、それは、スタッフが国境の壁を越えているという点よりむしろ、会社全体が学術的・科学的・経済的教会を超越しているという点である。(p.390-391)

ウール・シャヒン博士とエズレム・テュレジ博士はともにトルコ系ドイツ人である。そして医師として病棟で働き、そして基礎研究者としてラボへ移り、さらに起業して産業界へ進出し、技術を磨き、大学では専門教育を行った。臨床、研究、教育、ビジネス、その活動は幅広いと一言でまとめそうになるが、越境するのは容易いことではない。専門分野を超え、様々な人と出会うことは、知的な刺激と同時に、数多くの衝突、苦悩、消耗、徒労がつきまとうだろう。そうやってようやく多種多様な専門知識が浸み込んでいくのだ。

本書では「二人の人柄」に言及している。出自含めて幼少時代から苦労があったのは想像に難くない。生まれ持った知的な才能もあっただろうが、それよりも「人柄」が二人の運と縁に繋がり、多くの素晴らしい人をひきつけ、協力を得て、そうしてワクチン開発の成功へと至った。

私の体内に入ったmRNAワクチンは確かに現代科学の技術の粋であるが、その開発の中心人物たちは正しき人柄を有していたことはきちんと書き留めておきたい。

3回目を打つかどうかはもうちょっと様子見ではあるけれどね。

感想文22-23:乳と卵

 

川上未映子さんによる小説。「ちちとらん」である。「ちちとたまご」でも「にゅうとらん」でも「にゅうとたまご」でもなく、「ちちとらん」である。振り仮名がついているので間違いない。英訳するとBreast and Ovumとなろう。Milk and Eggではない。

ウィキペディアによると『2008年に芥川賞を受賞<中略>樋口一葉の影響を色濃く残す、改行なしで読点によって区切られ、延々と続く文体が特徴的である』とある。なるほど。確かに「、」で区切られて、大阪弁の文章が続く。あいにく私は樋口一葉の作品を読んでないので、その影響の程度はよくわからないのだけれど。

本作品は3人の女性が登場する。豊胸手術をするために上京した巻子(40歳前後)、その娘である緑子(中学生くらい)が、巻子の妹である夏子が暮らす都内の家にやってくる。

巻子は豊胸手術のために上京する。私の人生に全く接点のない術式である。そういえばhttps://sky-and-heart.hatenablog.com/entry/2022/06/25/082556火花(感想文22-12)でも出てきたのだ。豊胸手術に文学的要素があるとは。あるいは文学的要素を見出すとは。いや、火花が本作品の影響を受けているのかもしれない。

緑子の日記が印象的だ。

あたしは勝手にお腹が減ったり、勝手に生理になったりするようなこんな体があって、その中に閉じ込められているって感じる。(p.32)

生まれるまえから生むをもってる。ほんで、これは、本のなかに書いてあるだけのことじゃなくて、このあたしのお腹の中にじっさいにほんまに、今、起こってあることやと、いうことを思うと、生まれるまえの生まれるもんが、生まれるまえのなかにあって、かきむしりたい、むさくさにぶち破りたいきぶんになる、なんやねんなこれは。(p.70)

男である私にはわかりにくい表現だが、女性は共感するポイントなのだろうか。子供をもうけるために、出生の段階から、体に卵子形成機能を授けられており、生理になることが運命づけられている。生と死みたいに避けられない生物としての仕組み。なるほど、文学的ではある。

続編的な位置づけである「夏物語」も手元にある。両方とも会社の方にお借りしている。感想書くの難しいな。生物学を学んでも、医学を学んでも、文学的に適切な解釈に至れる気配がない。もうちょっと成熟したらわかるようになるのかしら。

感想文22-22:ダークマターと恐竜絶滅

タイトルのインパクトが凄まじい。科学少年の心を震わせる「宇宙」と「恐竜」の掛け合わせなのだ。宇宙と恐竜にどういう関係があるのだろうか。恐竜は宇宙から飛来した!?のではない。宇宙規模の減少によって恐竜は絶滅したのだ。

著者はリサ・ランドールさん。著名な理論物理学者だ。『ワープする宇宙―5次元時空の謎を解く』が話題となった。私は読んだないのだけれど。

たまに宇宙の本を読みたくなる。そして読後はいつも途方に暮れる。物質のすべては光(感想文10-32)を思い出す。「水素とか酸素とかそういう普通の原子は、宇宙全体で見たら5%でしかない。で、残りの95%はというと、なんとダークエネルギーダークマターでできている」のだ。でも、

私たち物理学者がぜひとも解き明かしたいと思っている謎は、ダークマターが実際のところ何でできているかだ。それはなんらかの新種の粒子なのだろうか。もしそうなら、その粒子にはどんな性質があるのだろうか。重力相互作用をするのはわかっているが、それ以外に何か一つでも相互作用をするのだろうか。(p.27)

ということでダークマターは今でも詳しくは分かっていない。そしてダークマターダークエネルギーを一緒にしていたけれど、前者は物質で後者はエネルギーだ。

ダークエネルギー(暗黒エネルギー)は物質ではない。文字どおり、エネルギーである。たとえそこに粒子などの実在の物体がなくとも、ダークエネルギーは存在する。宇宙に広く行き渡っているが、通常の物質のように寄り集まることはない。ダークエネルギーの密度はどこでも同じだ。ある領域での密度がほかの領域での密度より低いということはいっさいない。その点で、ダークマターとはまったく違ってる。<中略>ダークエネルギーは時間がたっても変わらない。物質や放射と違って、ダークエネルギーは宇宙が膨張しても希薄にならない。<中略>このため、物理学者はしばしばこのエネルギーを「宇宙定数」と呼ぶ。(p.34)

ほらな、わからんやろ。超絶有名なアインシュタイン特殊相対性理論の方程式E=mc²によって、エネルギー=物質って思っていたけれど、ことダークマターダークエネルギーについてはそうではない。そもそも両方とも正体不明なのだから仕方ないのだけれど。

高校生の時だったか、ハッブルらが発見した宇宙膨張の話を聞いて、世界の在り方が根底から揺さぶられた。固定的だったイメージの宇宙が今も膨らみ続けている。恐ろしくて恐ろしくて仕方なかった。この恐ろしい事実にたどり着いたハッブルらの知性も恐ろしかった

銀河が形成され、星がつくられ、その星と、星から放出されたガスとによって重元素がつくられ、その重元素の働きでさらに星が形成されていく。人間の時間の尺度ではとてもそうは見えないが、この宇宙とそこに含まれるすべてのものは、まるっきり静的とは言いがたい。進化するのは星だけでなく、銀河もまた同様なのだ。(p.113)

こんな風に宇宙を動的に捉えたことはなかった。人間が観測できる寿命からすると宇宙は永遠とも呼べる時間でゆっくりと進化し続けている。宇宙は膨張し、そして進化しているのだ。

そろそろ恐竜の話題に移ろう。私が子供の頃は恐竜絶滅にはたくさんの仮説が飛び交っていた。隕石、謎のウイルス感染症、哺乳類の台頭などなど。

2010年3月に、古生物学、地球学、気候モデル研究、地球物理学、堆積学の各分野の専門家41名が集まって、この20年以上のあいだに積み重ねられてきた衝突-大量絶滅仮説のさまざまな証拠を検討した。その結果として、チクシュルーブ・クレーターをつくったのもK-Pg絶滅を生じさせたのも、確実に6600万年前の流星物質の衝突であり、そしてその最大の被害者が、かの偉大なる恐竜だったという見解に落ち着いた。(p.295)

ほへぇ、知らなんだ。今では流星物質の衝突が恐竜絶滅の原因であることが定説になっている。ではなぜ流星物質が地球に衝突するのか。本書の重要な仮説へとつながっていく。

本書では、過去に地球にもたらされた何度かの制御不能な大激動が、いかに地球の安定性を深く揺るがしたかを探ってきた。そうした地球外由来の激動の一つが起こったのが6600万年前で、ひょっとしたらダークマターに発端があって突っ込んできたのかもしれない彗星により、主要な大量絶滅の一つが引き起こされた。おそらくあと3000万年ぐらいのうちに、また新たな激動が起こって、同じことが繰り返されると考えられる。(p.490)

ダブルディスクダークマター(DDDM)とかホンマにそうなんかわからないけれど、そういう仮説に行きつけるのがそもそも凄まじい。

恐竜は確かに地球に数多く生息し、そして流星物質の衝突により絶滅してしまったわけだけれど、恐竜を化石として発掘し、認識された歴史は意外と浅いのだ(感想文09-35:メアリー・アニングの冒険参考)。

ダークマターの粒子が収縮して銀河を形成し、星の内部で合成された重元素が取り込まれた結果として生命が生まれ、マントルの奥深くで放射性原子核が崩壊したときに放出するエネルギーによって地球のプレート運動が引き起こされ、それによって山地が生み出された。こうした宇宙の深いつながりを、こんなにも理解していけるのかと思うと、私は人間の進歩の能力に本当に感心する。科学者が既知の世界の果てを探索するたびに、予想もしなかったようなものが姿をあらわしてきたのだ。(p.497)

宇宙と生命はつながっていく。銀河という巨大スケールから、地球の生命誕生、環境の変化まで。自然を観察し、洞察し、世界の在り方を把握していく人間の能力に感服するほかない。

空間的にも時間的にも膨大なスケールを巨視的に捉えながら、原子や生命などを微視的に捉えていく。スリリングな知の跳躍と展開。知的好奇心を揺さぶられる快感を味わえる一冊だ。

感想文22-21:数学者たちの楽園―「ザ・シンプソンズ」を作った天才たち

代替医療のトリック(感想文10-49)と同じ、サイモン・シンによる著作。テーマは「ザ・シンプソンズ」だ。

実は、『ザ・シンプソンズ』の脚本家チームには、数を深く愛する者が何人もいて、彼らの究極の望みは、視聴者の無意識下の頭脳に、数学というごちそうをポトリポトリと滴らせることなのだ。(p.26)

脚本家チームには、アメリカの一流大学で数学や物理学やコンピュータサイエンスの分野できちんとした教育課程を経て、博士号を取得した人材も含まれている。

私はザ・シンプソンズのアニメをちゃんと見たことがない。黄色いキャラクターたちは、そのカラーのためであろうが、日本ではCCレモンのキャンペーンキャラクターとして採用されたことを記憶している。

本書を読むと、ザ・シンプソンズに数学ネタがふんだんに盛り込まれていることがわかる。エルデシュ数セイバーメトリクス感想文16-28:マネー・ボール 参照)、ジェルマン素数、パンケーキ問題、ベルフェゴール素数などなど。詳細は本書をお読みになると良いだろう。

数学の小ネタだけでなく、その背景まで丁寧に描かれていて、楽しめる人には楽しめる。だが、私のようにザ・シンプソンズを見たことがない人にはちょっとハマり切れないのは否めない。

われわれの社会は、偉大な音楽家や小説家に対しては称賛を惜しまないし、それはそれで正しいことではある。だが、地味な数学者たちは、世間の話題にはまずのぼらない。数学が、文化の一部とみなされていないのは明らかだ。<中略>脚本家たちは、もう4半世紀にわたり、プライムタイムのテレビシリーズに複雑な数学のアイディアをもぐり込ませてきたのである。<中略>この人たちはたしかに、これまで築き上げてきた数学的遺産を誇りに思っているのだと確信できるようになった。しかしそれと同時に、数学を続けられなかったことで、一抹の悲しみを抱えている人たちがいることもわかった。(p.419-420)

数学の面白さは伝わりにくい。どころか逆に恐怖を感じる人もいるだろう。ザ・シンプソンズに数学のアイディアをもぐり込ませることが、どういった影響をもたらしたのかは定かではない。脚本家チームに数学愛好家が集った結果の事態なのだが、その数学愛好家たちはアカデミアの世界で数学を続けることはできなかった。

数学はとてつもなく魅力的なコンテンツであり、世界の在り様その物ともいえる。私たちの世界は、数学をベースにした計算や、数学で記述できる物理現象なしでは、記述し、認識することはできない。

あんなおちゃらけた感じのアニメに、多くの数学者たちが関わっているとは知らなかった。そのギャップに驚くとともに、よくもまあそんなマニアックなテーマで一冊書いたなとサイモン・シンさんの力量と着眼点に敬意を表したい。

感想文22-20:ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー

ユニークなタイトルと派手な黄色いカバーで気になってはいたけれど、読んでなかった一冊。会社の本好きの方からお借りして読んだ。

まず盛大に勘違いしていた。本書は少年が主人公の小説とばかり思っていた。違うのだ。国際結婚してイギリスで生活している母による中学生のスクール・ライフを描いたノンフィクション・エッセイなのだ。

「老人はすべてを信じる。中年はすべてを疑う。若者はすべてを知っている。」と言ったのはオスカー・ワイルドだが、これに付け加えるなら、「子どもはすべてにぶち当たる」になるだろうか。どこから手をつけていいのか途方にくれるような困難で複雑な時代に、そんな社会を色濃く反映しているスクール・ライフに無防備にぶち当たっていく蛮勇(本人たちはたいしたこととも思っていないだろうが)は、くたびれた大人にこそ大きな勇気をくれる。(p.5)

小説ではない。な、なんだと。のっけから思ってたんと違うとなりながらも、単身赴任の神戸に向かう新幹線で読み進める。

著者のご子息は中学1年生(イギリスでは7年生)で、同じ中学生の息子を持つ親として、そこは共感できるポイントだ。とはいえ、イギリスと日本では全然違う。何よりお子さんが悩みを話し、母子でちゃんと会話しているのが素晴らしい。

描かれているのはイギリスの中学校の「リアル」だ。学校間で格差があり、同一学校内の生徒間でも格差があり、多様性があり、衝突があり、いじめがあり、仲違いがあり、仲直りがある。教育についてもイギリスだとこういうことも教えるんやなと感心するが、まあ日本やとさすがに無理あるなと思うところも多々ある。

本書は別段、イギリスが進んでいるとか、だから日本は遅れているとかそういう主張はなく、イギリスはイギリスでまた日本とは異なる悩みや社会問題があり、ご子息の言動から垣間見れる中学校生活はまさしくイギリス社会の縮図だ。多感な時期に中学校をイエローとホワイトのハーフアンドハーフ(ハーフもダブルも今では不適切表現と捉えられることもあるらしい)である息子さんが生き抜いていく姿が逞しく映る。

それから、パートナーのことは配偶者と書かれている。夫や旦那やましてや主人なんて表現はない。そうか、配偶者か。なかなか日本ではパートナーのことを配偶者って言わないけれど、これもイギリス事情を反映しているのだろう。

さて、うちの長男(中3)はどうだろうか。関東圏内にあるさしてレベルの高くない私立中学校に通っている。少人数制であり、巷のいわゆる進学校のような受験勉強圧力もない。学校の部活とは別にサッカークラブに通い、サッカーとそれなりの勉強とそれ以外はスマホかスイッチかノートPCをいじっているような生活だ。

コロナがあり、様々な学校行事ができなかったり、延期になったり、内容を変更したりといろいろあっただろうが、逞しさではどうだろうか。単身赴任中でもあり、あまり分からない点も多い。きっと本人は本人で苦労があるのだろう。

本書を読んで、ただ1点気になるのは、多感な息子さんが日本語を話したり読んだりできないとはいえ、自身が題材になって本が出版されていることについてどう思うかだ。

読者としては楽しく読ませていただいたが、この本の存在がご子息の成長にネガティブに働かないことを願うばかりだ。まあ、親族でもない私が願ってもしょうがないことで、私の心配をよそにさらに逞しく大きくなっていくことだろう。きっと。

人生はままならない。本当につくづくそう思う。諦観や悲観ではない。ましてや達観でもない。自分自身の不甲斐なさと、たまに感じる自己効力感に翻弄されながら、社会のうねりに漂流していく。生きているのか、生かされているのか。

子供への教育や成長について考えることが多い。とはいえ、自身の人生ですらままならないのだから、子供に強く求めることはできない。成長を信じて見守るほかないな。